「人間力」が嫌いだ
私は「人間力」という言葉が嫌いだ。
正確には、その言葉を使って他者を評するひとが嫌いだ。
「人間力」、字をそのまま読むと、〝人間としての力〟
全くもってイヤラシイ言葉ではないか。ゴリラ力ともバッタ力とも言わないだろう。それをわざわざ冠につける所業は、人間は特別なのだという思い上がりがあるからに他ならない。人間風情が何様だろうか。
……とまあしょっぱなから妙なことを口走ってしまったが、ここまで私が「人間力」嫌いになったのには理由がある。
新卒時代の昔話
十数年前、社会人になった私は金融関係の仕事に就いた。
その会社の上司の口癖が、他でもない「人間力」だ。
その上司は体育会系で、竹を割ったように明朗快活で白シャツが似合う男だった。武道の有段者でもあり、長身と稽古によって培われた体幹の良さで、いつも背中に物差しを入れたようにすっと背筋が通っていて目を惹いた。イメージとしてはテニスの某M岡選手に近い。
全身から〝陽〟のオーラを出す彼は親しみやすくはあるものの、この口癖その1点で、私にとっては〝苦手なタイプ〟にカテゴライズされた。
「君には人間力が足りないね」
「仕事力だけではなくて、人間力を高めましょう!」
「人間力をつけないといけないよ!」
「人間力がどうにかなればなあ」
そういった言葉と共に、これまで部下として育ててきた別の社員と私を引き比べるのだ。
「Aさんが新人の頃はもっと目がキラキラしていて意欲にあふれていた」
「B君はあまり出来は良くないが、パリッとしていて好感が持てる」
それに比べて……と。
(それをチームの面前で行うのだから、上司ガチャ失敗だったなと思わないでもない)
とまあ、ことあるごとにそう言われ、新卒ほやほやのヒヨコは悩んだ。
(いや、人間力って具体的になに? 私は〝足りない〟人間ということ?)
妙にぼんやりした言葉だが、〝人間〟を冠するくらいなのだから、重要なものなのだろうと思った。
でも、私に何が足りないのだろうか?
上司にとっては子供のような小娘ではあるが、それでも過酷な就活戦線を乗り越えてここに立っているのだ。
社会人らしく服装には気を遣っている。控えめな性格なりにプレゼンも練習して及第点を貰えるようになったし、電話応対も対面での折衝業務も、試験だってそつなくこなせている。新卒なりの自負はあった。
なのに上司の口癖は終わらない。
意を決して、聞いてみたことがある。
「グループ長が仰る、私に足りない〝人間力〟って何なんですか?」
上司は深々と頷いて一言。
「ウン、それを自分で見つけるのが大事なんだよ!」
……と。
「いや教えないんかい!」と心の中の関西人が猛ツッコミを入れたのを覚えている。
苦しみは苛立ちに、苛立ちは怒りに姿を変えて、私の頭に居座っている。
「人間力」という言葉の問題点
なにも「人間力」という言葉それ自体を否定するわけではない。
その言葉が好きな人が、自らを律するために、心の中で使うならよい。
だがこれは、他人に向けて使うとよくない効果を発揮する言葉なのだ。
言われる立場から考えるに、「人間力」という言葉が持つ問題点は2つだ。
問題点①「具体性がない」
まずひとつに、「言葉の意味合いがあやふやなため、どんな中身を想像するかが人によって異なる点」だ。
「人間力」……人間としての力。この言葉が与えるイメージは強烈だ。目にしただけで「活力に溢れ、社会で気負いなく生きる模範的な人物が持つ力」という、正にM岡選手のようなイメージが文字から立ち上ってくる気がする。
しかし、具体的な中身を説明できる人は少ないのでないか。
「人間力」という言葉の初出…内閣府が2003年4月に作成した「人間力戦略研究会報告書」によると、「人間力」は3分類12項目――基礎学力から規範意識、忍耐力までと幅広い要素が含まれている。
個人的に印象に残るのは「リーダーシップ」「自己実現力」だが、言葉だけ差し出された時に、人によって考える中身は違うだろう。
それは「これが人間、と言えるような模範的な人物像」ないし「社会に求められる人物像」が個々人によって異なるからだ。
ある人は「どんな困難があってもめげずに信念を貫き通す力」と思うかもしれないし、またある人は「人を引っ張っていく力があり、前向きでコミュニケーションに優れる力」と思うかもしれない。
これらはどちらも正解だが、どちらも不正解だ。
受け取り手によってイメージする内容が変わる――それ故に、この言葉は強く、それでいてずるい。
問題点②「主語が大きい」
ふたつめは、「主語の大きさゆえ、言われた側は人格否定されているような気持ちになる点」だ。
突然だが、仕事で失敗した部下を叱る際のタブーをご存じだろうか?
答えは、「相手の人格そのものを否定する」ことである。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もある通り、失敗を招いた行為や相手の能力を指摘するのは建設的な行為だ。
だが、それに重ねて人格を否定する発言は、話者側のストレス発散にしかならないゆえに避けるべき、という考えからである。
(言われた側としては「なんでそこまで言われなきゃならないんだ」という怒りが沸いて、素直にアドバイスを聞く耳を持たなくなってしまう)
これは上司部下の間柄だけではなく、親子、友人関係全てにおいて言えることでもある。
では翻って、「人間力」という言葉はどうだろう。〝人間〟という絶対的なワードを冠するこの言葉は、先述のとおり具体性に欠ける。そんな言葉を使って指導されたらどうなるだろう。
言われた側は「人間力」の具体的な内容が分からない以上、言葉の意味を額面通り受け取るしかないのだが、その主語の大きさゆえに自分自身を否定されているように思えはしないだろうか?
「仕事の段取りをよくしよう」なら分かる。
ノウハウ本に当たり、周囲の仕事の進め方を目で盗んで成長できる。
「大きい声でハキハキ発言しよう」も分かる。
仕事帰りに土手の上で世間への鬱屈を叫べばいい発声練習になるだろう。
だが「人間力をアップさせて頑張ろう」は分からない。
受け手としては、能力への指摘ではなく、タブーである人格否定をされることと同じなのだ。
どうだろう。悩んだ私の気持ちをなんとなく分かっていただけただろうか?
「人間力」という言葉それ自体が悪いわけではない。
ただ、具体性に欠け主語が大きいがために、受け手側が委縮したり人格否定されたと思ってしまう程、強い言葉なのだ。そしてマネジメントの場でその言葉を氾濫させてしまうと、それ以上の言及ができない非生産的な会話を生むだけではなく、受け手側の自己肯定力を下げ、他者の目を気にする自縄自縛の状態に陥れてしまいかねない。
閑話
ところで、冒頭の人間力上司の話にはオチがある。
数年後、さる場所で、上司がライフワークにしているある武道の段位認定者と話す機会を偶然にも得た。
古武士といった風情のそのご老人は、なんでも上司の試験官も務めたという。ここ数年、上司は昇段の壁にぶち当たっているらしいと聞いていたので、彼の印象をこっそり聞いてみた。
「う~ん、彼はねえ…腕も十分立つし、いい人なんだけれど…」
一瞬言いよどんだ後、小声でこう続いた。
「品位というか、品格というか……ねえ?」
だから昇段は認めなかったんだよね。
そう聞いて、思わず声に出して笑ってしまった。
面接室のようなところで元気に受け答えをする上司と向かい合ったご老体が、笑顔のまま手元のフリップに大きく×を書く姿を夢想すると無性に面白い。
なるほど、品位も人間力同様、身につけようとして身につけられるものではあるまい。
人間力に溢れると自負する上司も、立場変わって論じられる側に立てば、品性に欠けた粗野なオジンでしかないのだ。
私の考える「人間力」
閑話休題。
さて、では「人間」を冠するにふさわしい〝力〟があるとすれば、それは一体何なのだろうか?
思うに、3分類12項目のひとつにも含まれている「自己受容」の精神が一番近いのではないだろうか。
私はこれまで「人間力」という言葉に惑わされ苦しんできたが、これは本来、受け手側である私に揺らがない心…自己肯定力ともいう…があれば、影響を受けず跳ね返せたのだ。
「日本語でおk」の精神である。
例え大統領であっても流浪の板前であっても、人は等しく、一人では生きられない。他者と、そして社会と折り合いを付けながら生きることになるのだが、そこでは他者に〝評価〟されることは避けられない。特に、ムラ社会である日本ではそうだ。
思い通りにならない他人の評価。それを受ける度に揺らぎ、落ち込むこと、まして他人の評価欲しさに自分を偽って苦しむことこそ、不毛で生きる妨げになるものはない。
内閣府の「人間力創発会議」においては、〝無気力な若者をいかに励ますべきか・導くべきか〟が本来の目的だった。
そして、若者が目指すべき・若者に憧れられるべき大人像として「人間力」が提示された。ここまでこの言葉が人権を得ているところからして、その内容は芯を捉えているのだろう。他ならないビジネスパーソンの同意があってこそ、ここまで周知されるようになった。
ただ、いかんせん「これを目指してがんばれ」というのは、畢竟、それを聞いている〝現在の〟子供たちの否定だ。
(今のままじゃいけないから)こうしなさい。という前提条件の押し付けが、その背後にある。
この「今のままじゃいけないから」が、子どもの心を折り、やる気をなくす根本ではないだろうかと、私は思う。
目指すべき目標を示すことも大事だが、その前に、各人が自らを肯定できる下地を作れなくてはならない。その下地があってこそ、心に余裕が生まれる。そこで初めて「話だけでも聞いてやろうかな?」という意識が持てるのである。
思い通りにならないこの世界で生きていくためには、どんな状況であれ、そこに在る自分自身を丸ごと受け入れて「これが自分だ」と胸を張るしかない。不完全な自らを受け入れれば、自然と他者へ向ける目線も優しくなる。
自己と他者に誠実であること。
嘘をつかず、驕らず、犯さず。
そういう意識で、今生きていることに感謝して日々を悔いなく過ごすのが〝人間〟としての本来の姿だ。
”雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ”、”人生のきびしい一分一分を、六十秒ごとの前進で満たす”ような、そんな人物。
揺るぎない自己と生きることへの深い愛に根差した、その心構え。
それさえあれば、たとえどんな逆境にいても生き抜けるだろう。
「人間力」というのなら、この境地こそがそう言われるべきでないかと、そう思ってやまない。
