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タイパ?合理的思考?若者は本当に「考えること」を捨てたのか

タイパ?合理的思考? 若者は、考えることを捨てたのか。私目線で考えてみた

最近、よく聞く言葉がある。

「タイパ」

タイムパフォーマンス。

つまり、かけた時間に対して、どれだけ効率よく結果を得られるかという考え方である。

映画は倍速で観る。

長い動画は要約だけ見る。

本は要点だけ知りたい。

会議は結論から。

電話よりチャット。

無駄な飲み会は断る。

遠回りはしない。

失敗しそうなことには、なるべく手を出さない。

なるほど。

実に合理的である。

私も無駄は嫌いだ。

意味のない会議、結論の出ない打ち合わせ、上司の昔話だけで終わる飲み会など、人生の時間を返してほしいと思うことは何度もあった。

だから、タイパそのものを否定するつもりはない。

ただ、少しだけ気になる。

効率を求めるあまり、考えることまで省略していないだろうか。

今回は、「若者は考えることを捨てたのか」という、少し刺激的なテーマを私目線で考えてみたい。



若者は本当に考えなくなったのか

最初に結論を言う。

私は、若者が考えなくなったとは思っていない。

むしろ、かなり考えている。

ただし、考え方が変わったのだと思う。

昔は、

「まずやってみろ」

「苦労は買ってでもしろ」

「石の上にも三年」

「若いうちは給料より経験」

という言葉が、ある程度通用した。

しかし今の若者は、こう考える。

その苦労は、何につながるのか。

三年いる意味はあるのか。

経験は市場価値になるのか。

その会社は自分を守ってくれるのか。

その努力は、本当に報われるのか。

これは、考えていないのではない。

むしろ、かなり現実的に考えている。

昭和の価値観で言えば、「我慢が足りない」と見えるかもしれない。

だが若者から見れば、「根拠のない我慢を拒否しているだけ」なのだ。

私は、この感覚は間違っていないと思う。



タイパは、怠けではなく防衛本能かもしれない

今の若者は、情報量が多すぎる世界で生きている。

SNSを開けば、成功者がいる。

動画を見れば、効率的な勉強法が流れてくる。

転職サイトを見れば、他人の年収が見える。

口コミサイトを見れば、会社の悪評も分かる。

投資、副業、資格、転職、美容、恋愛、旅行、健康。

毎日、選択肢が押し寄せてくる。

一日は24時間しかないのに、比較対象だけは無限にある。

そんな環境で、

「全部じっくり考えましょう」

と言われても無理がある。

だから、要約を見る。

ランキングを見る。

口コミを見る。

結論だけ知ろうとする。

これは、ある意味では自然な防衛行動だ。

全部を丁寧に処理していたら、頭がパンクする。

つまりタイパとは、単なる怠けではない。

情報過多の時代を生き抜くための、処理方法でもある。



ただし、要約だけでは人生の判断力は育たない

ここから少し毒を入れたい。

タイパ思考は便利だ。

だが、便利すぎるものには副作用がある。

要約だけを見る癖がつくと、結論だけを欲しがるようになる。

結論だけを欲しがると、途中の過程を面倒に感じる。

過程を飛ばすと、なぜその結論になったのかが分からない。

そして最後は、自分で考えず、誰かの結論を借りるようになる。

これが怖い。

例えば、ニュース記事の見出しだけを見て怒る。

SNSの短い動画だけで政治を判断する。

インフルエンサーの一言で投資先を決める。

口コミだけを見て会社を選ぶ。

AIの回答を、そのまま自分の意見にする。

これは合理的思考ではない。

単なる判断の外注である。

本当の合理性とは、考えなくてよい部分を減らし、重要な部分に思考を使うことだ。

すべてを省略することではない。



倍速視聴で作品を見たことになるのか

映画やドラマを倍速で観る人が増えたと言われる。

内容を把握するだけなら、それでもよいのかもしれない。

しかし、作品には間がある。

沈黙がある。

視線がある。

空気がある。

音楽が入るタイミングがある。

登場人物の迷いがある。

それらを全部飛ばして、あらすじだけ知る。

それで「観た」と言えるのか。

私は少し疑問に思う。

もちろん、観方は自由だ。

ただ、人生には、効率化すると価値が薄れるものがある。

映画。

音楽。

読書。

恋愛。

旅行。

会話。

人間関係。

これらは、結論だけ取ればよいものではない。

遠回りそのものに意味がある。

むしろ、無駄に見える時間の中に、人間らしさがある。



失敗を避けすぎると、判断力も育たない

タイパ思考と相性がよいのが、「失敗回避」である。

失敗したくない。

恥をかきたくない。

時間を無駄にしたくない。

損をしたくない。

だから、事前に正解を調べる。

レビューを見る。

成功事例を見る。

効率的なルートを選ぶ。

これは賢い。

しかし、失敗を完全に避けようとすると、自分の経験が増えない。

他人の失敗談には詳しいが、自分で判断した経験がない。

正解がある場面では強いが、正解がない場面では止まる。

仕事でも同じだ。

マニュアルどおりの作業はできる。

答えがある問題は解ける。

しかし、前例のない障害が起きた瞬間に動けない。

誰かの指示を待つ。

AIに聞く。

検索する。

それでも答えがなければ、考えること自体を諦める。

これは、若者だけの問題ではない。

今の日本企業全体に起きていることでもある。



合理的思考と、思考停止は似ている

ここは、かなり重要だと思う。

合理的思考と、思考停止は、見た目がよく似ている。

会議を短くする。

無駄な作業を減らす。

結論を早く出す。

これは合理的である。

しかし、

面倒だから議論しない。

時間がないから説明しない。

上司が言ったから従う。

多数派だから正しいと思う。

AIがそう答えたから信じる。

これは思考停止である。

両者の違いは、自分の頭で一度検証しているかどうかだ。

合理的な人は、考えたうえで省く。

思考停止する人は、考える前に省く。

ここを混同してはいけない。



若者だけを責めるのは簡単だ

「最近の若者は考えない」

これは、いつの時代も大人が言う言葉である。

だが、私は若者だけを責める気にはなれない。

なぜなら、考えないほうが都合のよい社会を作ったのは、大人だからだ。

学校では、正解を当てる訓練が中心だった。

会社では、上司に逆らわない人が評価された。

会議では、空気を読む人が重宝された。

失敗すると強く責められた。

挑戦すると、「前例がない」と止められた。

自分の意見を言うと、「生意気だ」と言われた。

その一方で、今になって、

「若者は主体性がない」

「自分で考えない」

と言う。

少々、都合がよすぎる。

考える人を潰してきた組織が、急に考える人材を求めている。

それは無理な話だ。



会社が求める「自分で考える人」の正体

企業は、採用情報でよくこう書く。

「自ら考え、行動できる人材を求めます」

立派な言葉だ。

しかし実際に入社すると、

勝手なことをするな。

報告してから動け。

前例に従え。

上司の意向を確認しろ。

余計な提案はするな。

となる会社も多い。

これでは、自分で考える人は育たない。

会社が欲しいのは、本当に自分で考える人ではない。

会社の望む答えを、自分で考えて出してくれる人である。

そんな器用な人ばかりではない。

本当に考える人は、ときに反対意見を言う。

矛盾を指摘する。

無駄な仕事をやめようとする。

上司の判断にも疑問を持つ。

会社がそれを受け止められないなら、主体性など求めないほうがよい。



AI時代は、さらに考えなくても生きられる

これからは、AIがますます身近になる。

文章を書く。

要約する。

資料を作る。

検索する。

翻訳する。

計算する。

アイデアを出す。

相談に乗る。

便利である。

私も大いに使うべきだと思う。

だが、AIが便利になればなるほど、人間側の思考力が問われる。

AIに質問するには、何を知りたいかを考えなければならない。

出てきた答えが正しいかを判断しなければならない。

自分の状況に合うかを見なければならない。

つまり、AIは考えることを代わってくれる道具ではない。

考える速度を上げる道具である。

ここを間違えると、AIに使われる側になる。

何でもAIに聞く。

答えをそのまま信じる。

自分の意見のように話す。

それでは、知識は増えても知性は育たない。



考えるとは、時間がかかるものだ

考えるという行為は、そもそもタイパが悪い。

すぐに答えが出ない。

迷う。

調べる。

間違える。

考え直す。

人と話す。

また迷う。

非常に効率が悪い。

しかし、その効率の悪さが人間の判断力をつくる。

仕事の重大な判断。

結婚。

転職。

介護。

相続。

病気。

子育て。

人生の重要な問題ほど、検索して一発で答えが出るものではない。

答えは、人によって違う。

だから考えるしかない。

タイパが悪くても、向き合うしかない。



タイパを否定するのではなく、使い分けるべきだ

私は、タイパを悪者にしたいわけではない。

無駄な作業は減らすべきだ。

意味のない会議は短くすべきだ。

単純な調査はAIに任せればよい。

動画も、必要なら倍速で観ればよい。

すべてを丁寧にやる必要はない。

大切なのは、何を省き、何を省かないかである。

作業は効率化してよい。

判断は効率化しすぎてはいけない。

情報収集は早くてよい。

結論は急ぎすぎてはいけない。

他人の意見は参考にしてよい。

最後は自分で決めなければならない。

ここが、タイパと合理的思考の境界線だと思う。



若者は考えることを捨てたのではない

改めて言う。

若者は、考えることを捨てたのではない。

無駄を疑うようになった。

苦労の意味を求めるようになった。

会社や社会を、無条件では信じなくなった。

これは悪いことではない。

むしろ健全だと思う。

ただし、効率を求めるあまり、

自分の頭で疑うこと。

遠回りすること。

失敗すること。

人と話すこと。

答えのない問題に向き合うこと。

これまで捨ててしまってはいけない。

タイパで得られるのは、時間である。

しかし、考えることを手放して失うのは、人生を選ぶ力である。



最後に

タイパは、現代を生きるうえで必要な感覚だ。

合理的思考も大切だ。

だが、すべてを効率だけで測る社会は、少し息苦しい。

無駄に見える会話。

遠回りした経験。

失敗した記憶。

何も生まれなかった時間。

そうしたものが、後になって人を支えることもある。

最短距離だけを歩いた人が、必ずしも一番遠くまで行けるとは限らない。

考えるとは、時間を使うことである。

迷うことである。

立ち止まることである。

そして、自分なりの答えを持つことである。

若者が考えることを捨てたのではない。

もしかすると、社会全体が考える時間を奪いすぎているのではないか。

私は、そう思っている。

タイパで時間は節約できる。

だが、人生まで要約してはいけない。

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