貴重品を取りに戻り、命を失った――オンワードHDの新ルールが企業に突きつけたもの
貴重品を取りに戻り、命を失った――オンワードHDの「常時携行義務」が企業に突きつけたもの
オンワードホールディングスが、緊急事態に備えて従業員に携帯電話や家・車の鍵など、帰宅に最低限必要な貴重品の常時携行を義務付けると発表しました。
きっかけは、熊本地震後にイオンモール熊本で発生した爆発事故です。
同施設に入居していた「WEGO」と「anySiS」で勤務していた従業員のうち3人が亡くなりました。
報道によれば、3人は一度避難したあと、貴重品を取りに施設内へ戻り、爆発事故に巻き込まれたとされています。
あまりにも痛ましい出来事です。
そして私は、このニュースを見て強く思いました。
人は非常時でも、スマートフォンや鍵を置いたままでは帰れない。
この当たり前の現実を、企業の防災計画はどこまで想定していたのでしょうか。
「避難してください」だけでは、人は避難し切れない
災害時のマニュアルには、たいていこう書かれています。
「身の安全を確保してください」
「速やかに屋外へ避難してください」
もちろん間違ってはいません。
しかし、現場の従業員には生活があります。
スマートフォンがなければ家族と連絡できない。
車の鍵がなければ帰宅できない。
家の鍵がなければ自宅に入れない。
財布や交通系ICカードがなければ移動できない。
だから避難後に、
「少しだけなら大丈夫だろう」
「すぐ取って戻ればいい」
という判断が生まれます。
これは単なる不注意ではありません。
そう行動したくなる状況を、企業側が作っていた可能性があるのです。
常時携行は正しい。しかし、それだけで終わってはいけない
オンワードHDは今回、携帯電話や鍵などの常時携行を義務付け、さらに従業員同士や営業担当者による確認体制を強化するとしています。
避難後に再入館する理由を減らすという点で、非常に現実的な対策です。
しかし、少し厳しい言い方をすれば、
これはようやく最低限の運用に気づいたとも言えます。
災害時に必要な物を常に身につける。
避難したら絶対に戻らない。
再入館の許可を出す権限者を明確にする。
点呼で全員の所在を確認する。
これらは特殊な設備を必要とする対策ではありません。
日頃のルールと訓練で実現できることです。
だからこそ、今回の教訓は全国の企業が重く受け止めるべきでしょう。
防災マニュアルが「紙の上だけ」になっていないか
多くの企業には防災マニュアルがあります。
しかし、実際に読んでみると、驚くほど抽象的です。
「安全を確認する」
「責任者の指示に従う」
「状況に応じて避難する」
これでは現場は動けません。
安全は誰が確認するのか。
責任者が不在なら誰が判断するのか。
避難後に荷物を取りに戻ってよいのか。
施設側とテナント企業の指示が違ったら、どちらを優先するのか。
再入館は誰の許可があれば可能なのか。
ここまで具体化して、初めてマニュアルは機能します。
システム運用でも同じです。
「障害時は適切に対応する」
と書いてあるだけでは、何の役にも立ちません。
担当者、判断基準、連絡先、禁止事項、代替手段まで決めておく必要があります。
防災もまったく同じです。
「貴重品」より命が大切。でも現場では簡単ではない
当然ながら、財布やスマートフォンより命の方が大切です。
しかし、事故が起きたあとに
「なぜ戻ったのか」
「戻らなければよかった」
と語るのは簡単です。
重要なのは、誰も戻らなくて済む環境をあらかじめ作ることです。
制服のポケットに携帯電話や鍵を入れられるようにする。
貴重品を収納できる小型ポーチを支給する。
私物の携行を禁止している職場なら、非常時用のルールを設ける。
スマートフォンを持ち込めない場所なら、緊急連絡手段を別に準備する。
鍵や財布をロッカーに置く運用なら、避難時に持ち出せる仕組みに変える。
「自己責任で持ってください」と言うだけでは不十分です。
常時携行を義務化するなら、会社側も携行しやすい制服や設備、ルールを用意する必要があります。
管理職の一言が、部下を危険な場所へ戻すこともある
さらに怖いのは、現場の空気です。
「売上金はどうする」
「店舗の鍵は誰が持っている」
「レジを閉めたか」
「商品は大丈夫か」
管理職や責任者がこうした言葉を発すれば、明確な命令でなくても、真面目な従業員は
「確認しに戻らなければ」
と考えるかもしれません。
会社は「戻れとは指示していない」と説明できるでしょう。
しかし、災害時に本当に必要なのは、
戻れとは言っていないことではなく、戻るなと明確に命じることです。
「売上金は捨ててよい」
「商品は後回しでよい」
「鍵や端末は置いて逃げてよい」
「再入館は禁止する」
ここまで言わなければ、責任感の強い人ほど危険な行動を取ります。
会社への忠誠心や職業意識が、命を奪う理由になってはいけません。
BCPの最優先事項は、事業継続ではなく人命
BCPは日本語で「事業継続計画」と訳されます。
そのため企業は、
店舗をいつ再開するか。
システムをどう復旧するか。
売上への影響をどう抑えるか。
といった話を中心に考えがちです。
しかし、事業を継続するのは人です。
従業員が亡くなれば、事業継続も何もありません。
今回の事故は、
BCPの最初の一行には「人命を優先する」と書くべきだ
という、あまりにも重い教訓を突きつけています。
全国の企業が今すぐ確認すべきこと
今回のオンワードHDの対策は、アパレル業界だけの話ではありません。
商業施設、スーパー、飲食店、ホテル、病院、工場、コールセンター、オフィス。
あらゆる職場で確認すべきです。
従業員は携帯電話や家・車の鍵を身につけているか。
避難後の再入館は禁止されているか。
再入館の許可権限は明確か。
施設管理者とテナントの指示系統は整理されているか。
売上金や商品より人命を優先すると明文化されているか。
責任者が不在でも避難判断ができるか。
避難後の点呼と安否確認方法は決まっているか。
これらを一つでも即答できない企業は、防災マニュアルを作っただけで安心してはいけません。
最後に
携帯電話や鍵を常時携行する。
文字にすれば、わずか一行のルールです。
しかし、その一行が先に存在していれば、失われずに済んだ命があったかもしれません。
企業の安全対策は、大規模なシステムや高価な設備だけではありません。
小さな運用ルールが、人の生死を分けることがあります。
今回の事故を「特殊な災害だった」で終わらせてはいけません。
全ての企業が、自社の従業員に問いかける必要があります。
今この瞬間に避難命令が出たとして、従業員は二度と建物へ戻らず、そのまま安全に帰宅できるでしょうか。
答えが「分からない」なら、見直すべき時は今です。
