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競馬短編小説 第23話「展開待ち -2026年 天皇賞・春-」

 荷台の扉を閉めた瞬間、シゲは舌打ちをした。
 春の日差しが降り注いでいるはずなのに、妙に空気が重たい。配送センターのアスファルトはぬるく湿っていて、靴底にまとわりつくようだった。
 ――確認くらいしろよ。
 午後、営業部の部長に浴びせられた言葉が、まだ耳の奥に残っている。
 発注ミスは、どう考えても向こうの落ち度だった。それでも、部長は一歩も引かなかった。
「配送前にチェックするのが当然だろ」
 吐き捨てるように言われ、周囲の視線が一斉に集まった。誰も何も言わない。シゲも同じだった。
 言い返そうとして、やめた。どうせ、勝てない。最初から、決まっている。

 その夜、タカシに連れられて訪れた競馬バー『セントライト』の壁一面のモニターでは、週末の天皇賞・春の調教映像が流れていた。
「顔、やばいぞ」
 タカシが笑いながら言った。シゲはハイボールの炭酸で苛立ちを流し込む。
「どうせクロワデュノールだろ。ああいうのが勝つんだよ。最初から決まってるレースなんて、面白くもなんともねえ」
「まあ強いのは間違いないけどな。でもさ、淀の坂を2回も越えるんだ。何があるかわからんって」

「そうですよ」
 カウンターの向こうから、バーテンダーのミヨが顔を出した。
「今年は、芦毛が2頭に女の子も3頭も出るんです。ちょっと楽しみじゃないですか?」
「芦毛ねえ……」
 シゲはモニターを睨んだ。白く見えるその毛並みは、積み重ねた時間の分だけ、色が抜けていくのだという。
「俺は好きだよ、そういうの。アドマイヤテラもアクアヴァーナルも、派手じゃないけど、ちょっとずつ力つけてきた感じがしてさ。ホーエリートみたいに、ずっと頑張ってる牝馬も、俺は応援したいしね」
 タカシがそう続けて、ちらりとミヨを見る。だが、ミヨはグラスを磨く手元に目を落としたままだった。
「努力型ってやつか。でも、そういうのって結局、報われないことも多いだろ」
 言いながら、自分の言葉に少しだけ引っかかる。

「でも…」
 ミヨが手を止めて言った。
「長距離って、一瞬のミスが響くじゃないですか。ちゃんと走って届かないのと、最初から無理だって諦めて走るの。それ、全然違うと思うんですよね」
 軽い調子のままの声だったが、不思議と耳に残った。
 シゲは何も返さなかった。モニターの中では、1頭の馬がゆったりと坂路を駆け上がっている。呼吸のリズムを整え、ただ前だけを見据えている。

「人気薄なら、楽に逃げられそうなミステリーウェイとか面白いかもしれません」
 カウンターの端で飲んでいた男が、ぽつりと口を挟んだ。
「長距離レースは展開ひとつ。自分のペースを信じて、どこで我慢し、どこで勝負にでるか。結局は自分との戦いですよ」
「人生みたいなこと言いますね」
「まあ、似たようなもんでしょう」
 男は肩をすくめた。

 シゲはスマホを取り出し、出走予定馬の一覧を眺めた。
「ヘデントール……これ、“救世主”って意味らしいぞ」
「へえ、じゃあそれに賭けるか?」
「どうせならな。WIN5で1億だ。人生逆転だろ」
 バカみたいだと思う。でも、そのバカみたいな希望が、少しだけ救いになる。

――確認くらいしろよ。
 昼間の声が、ふとよみがえる。あの時、何も言えなかった自分。
 本当に、全部あっちのせいだったのか。
 もし、あの瞬間に「おかしい」と感じた違和感をスルーせず、もう一度だけ書類を見直していれば…。わずかな妥協が、今のこの最悪な気分を招いたのではないか。
 正しさと納得は、必ずしも同じじゃない。けれど、自分の手綱だけは離すべきじゃなかったのかもしれない。

「なあ、シゲ。今週、東京競馬場行かないか? せめて雰囲気だけでも」
 タカシが少しだけ間を置いてから、付け加えた。
「ミヨちゃんも、もしよかったら……」
「あ、ごめんなさい。その日、予定あって」
 食い気味に返された言葉に、タカシが目に見えて肩を落とした。
「そっか。……まあ、出遅れは俺の得意分野だからな」
 タカシは苦笑いしながら、自分のグラスに残った氷を揺らした。
「でも、まだ1周目だ。直線まで脚を溜めておけば、いつか届くかもしれないだろ?」
 その強がりに、シゲは思わず吹き出した。
「お前、ポジティブすぎんだろ」
「勝負は最後まで分からねえよ」

 店のモニターが競馬YouTuberの動画に切り替わり、出走馬の名前が画面に並ぶ。
 まだ何も始まっていない。けれど、もうどこかで勝負は動き出している。
「……まだ、決まってねえよな」
 シゲは空になったグラスをカウンターに置いた。
 氷が溶け、わずかに残った琥珀色の液体がキラリと光った。

©emunishi

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