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誰が武士になったのか?~「学習プリント」⑬つき

割引あり

こんにちは コウちゃんです。
プリントは有料ですが、解説は全文読めます!

今日のテーマはずばり「武士」です。
海外からも「SAMURAI」として人気が高く、日本人もナショナルチームの愛称に「サムライJAPAN」と付けるなど、国内外で「侍」・「武士」は愛されています。

では、そもそも「武士」って誰がなったのでしょうか?


学校の授業で「農民が自分の土地を守るために武装して武士となった」と教わった大人も多いんじゃないでしょうか?

実はこれ、マルクス主義的な歴史観の影響を受けた古い歴史観です。武士階級は農村から貴族などの古代の支配階級を破る階級として生まれ、中世を切り開いたという階級闘争史観のもと戦後に提唱された見方なんです。50年以上前からこれを批判する学説は提唱されているのですが、教科書は長らく前者の方が中心の書かれ方でした。

現在どのような見方が主流になっているかを簡単にいうと、

武士は支配階級であった「貴族」出身であった

となります。
では、どのような貴族がどのようにして武士となっていったのか、解説していきたいと思います。

解説

① 軍団制の解体

 まずは武士の登場以前の歴史を軍事面から見ていきたいと思います。奈良時代に出来た律令制のもとでは、対外戦争を想定して公民から徴兵した兵士からなる中央集権的な軍団制が叱れていました。しかし、この軍団制は公民の浮浪・逃亡による戸籍・計帳制度の崩壊によって揺らいでいきます。
 そして、桓武天皇の時代に健児の制が導入され、郡司の子弟を兵士として採用し、東北・九州以外を除いて軍団が廃止されたことによって軍団制は解体されました。また、俘囚(従った蝦夷)も各地で軍事力として用いられるようになり、徴兵制から傭兵的な軍事システムへと転換していきました。

② 受領への権限集中(9C半ば~)

 一方、戸籍・計帳制度の崩壊は地方政治にも大きな変化をもたらします。朝廷は税収の確保のため、国司の権限と徴税責任を受領に集中させました。その結果、受領はいわゆる負名体制を導入し、富豪層(有力農民)への徴税を強化していきました。その結果、受領と富豪層の対立も生まれ、9世紀半ば以降、各地で群盗海賊の横行や待遇に不満を持った俘囚の反乱が相次ぎました。

③中下級貴族の地方での活躍

 このような事態に対応するために9C末に朝廷は受領の軍事裁量権を強化することによって対応します。例えば、受領の命を受けて反乱を鎮圧することを任務とする国ごとに押領使が設置されました。
 このような押領使や国司として赴任した中下級貴族たちが群盗海賊勢力の鎮圧で功績を上げていきました。この時期に活躍した代表的な人物を上げると桓武平氏の祖である高望王(平高望)藤原秀郷です。どちらも武士の始祖として語られている人物ですね。高望王は桓武天皇の孫、秀郷は藤原氏でどちらも血筋はよいのですが、朝廷での官位は高くなく中央で出世することは絶望的でした。しかし、騒乱の鎮圧を通じて「兵(つわもの)」として功績をあげ、一部は地方に土着していきました。だからといって、彼らはずっと地方にいたわけでもなく、都と地方を行き来して、都では滝口の武者として宮中の警護をしたり、上級貴族の「侍」として警護などをしていました。

④承平天慶の乱

 このような軍事貴族たちが代々武芸を専門とする一族として確立して武士となる大きなきっかけとなったのが、承平・天慶の乱でした。この2つの乱を鎮圧した人物の家系は「兵の家」と称されて代々軍事を担う武士として活躍していくとになります。

平将門の乱(939~940)
 平高望は土着し、その子どもたちは下級国司となり常陸・上総・下総土着していきました。平将門は高望の孫にあたります。将門は父の遺領問題で叔父の国香たちと対立して戦い勝利しました。この段階では朝廷は私闘であるとして将門は罪に問われていません。つまり、将門の乱の起源は平氏の内部争いだったのです。
 しかし、将門は武蔵国や常陸国の豪族と受領との対立に介入したことをきっかけに常陸の国府を占領してしまいました。朝廷と対立することになった将門はこれをきっかけに「新皇」を自称して東国一円を支配下に置こうとしました。
 しかし、朝廷から派遣された下野国押領使藤原秀郷と同族の平貞盛(国香の子)に敗北し、将門は打ち取られてしまいました。
ちなみに将門の首は京都に首は京都にさらされた時に、再起を期して関東へと首単体で飛んでいき、力尽きて現在の首塚(将門塚)付近に落ちたと言われています。
 都心の一等地にある将門塚が再開発を逃れているのには理由があります。将門の怨霊伝説をぜひ調べてみて下さい。

藤原純友の乱(939~941)
 藤原純友は伊予(現在の愛媛県)の下級国司であった。彼は海賊の鎮圧などで功績をあげたのだが、その功績後からやってきた受領に横取りされて朝廷に認められなかったらしい。これに対する不満が反乱のきっかけだと考えられている。純友は伊予・讃岐の国の国府、大宰府を襲撃した。しかし、追捕使の小野好古源経基(清和源氏の祖)によって鎮圧された。

平貞盛は有名な平清盛の先祖、源経基は有名な源頼朝の先祖にあたることからも分かるように、承平天慶の乱鎮圧の功労者とその子孫「兵の家」として敬われるようになり、軍事を専門とする武芸の名門としての地位を築くことになったのである。これにより武士身分が成立することになる。
そして功労者の子孫たちはそれぞれ都・地方で勢力を伸ばしていくことなる。

⑤ 武士の2つの方向性

 武士の活動は都と地方を往来するものでした。その中でも、都で勢力を伸ばした武士もいれば、地方での在地性を強めた武士もいました。それぞれの武士を中央軍事貴族(「都の武者」)、地方軍事貴族(「住人」)なんて呼びます。 

〇中央軍事貴族(都の武者)
 彼らは警護などの武的奉仕を通じて摂関家や皇族と関係を築いていきました。彼らに取り入ることで受領の地位を手に入れて地方での基盤も作っていきます。都の武者として地位を初期に築いたのが清和源氏です。安和の変などをきっかけに摂関家と関係を結んでいきました。それに対して桓武平氏の都への進出は遅れます。どちらかというと最初は「住人」タイプでした。ですが、院政期に平正盛が白河法皇に北面の武士として登用されて以降、院と結び付いて政治的に台頭していくことになります。
 彼ら中央軍貴族は戦乱の鎮圧などを通じて、各地の中小武士団を組織する武家の棟梁へとなっていきました。

〇地方軍事貴族(住人)
 当初の桓武平氏や藤原秀郷の子孫はどちらかというと「住人」タイプでした。秀郷を先祖とする武士の家系はたくさんいます。全部が本当ではないのかもしれませんが、それだけ秀郷に武士の始祖としての権威があったということでしょう。秀郷が先祖とされる名字を調べてみて下さい。たくさんでてきますから。
 彼ら地方軍事貴族は基本的に国衙と結び付いて勢力を伸ばしていきます。国衙に在庁官人として使えるとともに、国衙の開発奨励策のもと開発領主にもなっていきました。これにより武士の在地領主化が進んでいきました。荘園制の歴史の話でも出てきた開発領主の中にはこういった地方武士もいたわけです。
 彼らは血縁関係を中心として中小武士団を組織していき、武家の棟梁である清和源氏や桓武平氏の嫡流の軍事動員に応じて、都での警護を担ったり、戦乱の鎮圧に協力したりしていきました。

いかがでしたでしょうか?
武士の起源に対するイメージは変わりましたか?
もし変わっていなければ、教えてくれた先生がしっかり勉強している先生だったのでしょう。
ここまで根気強く読んでくれてありがとう!!!!
プリントにはその後の源平の進出をまとめた図をまとめたものを載せておきました。

学習プリント⑬(フローシート)

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