福沢諭吉「物理学の要用」~自然科学を学ぶことの大切さ
こんにちは!!
今回紹介する「物理学の要用」はもともとは福沢の演説で、1882年3月22日の『時事新報』に社説として掲載されたものです。
学問を学び始めのものはまずは「物理学」を学ぶべきというのは有名な福沢の持論です。「物理学」は現代の「physics」だけでなく化学などを含めた自然科学全般の広い意味で使われていると思います。
要約
物理学とは自然の原則に基づき、物の性質をあきらかにし、その働きを調べ、これを人のために利用する学問である。経済学や商学などその人の立場よって見方が変わるが、物理の原則は普遍的である。
物理学の発達を妨げるものは、人民の「惑溺」(特定のものや価値観などを妄信し固執すること)である。儒者は仏教を迷信だと排撃しながら、科学的に探究することをしてこなかった。
西洋文明の成果はすべて物理学にもとづくものである。だが、その成果である発明品に驚き、ただ用いているだけではだめで、その元となった基礎理論に目を向けなくてはいけない。物の本質を見る目を養わなければならない。それがなければ、本能的に餌を食べているだけの馬か、それ以下である。
原文に近い現代語要約
物理学とは自然の原則に基づき、物の性質をあきらかにし、その働きを調べ、これを人のために利用する学問で、他の学問と異なる所がある。例えば、経済学や商学は学問ではあるが、全く自然の原則にのっとるものではない。経済商売には自由主義・保護主義の考えがあり、どちらにもとづくかによって意見が異なってくるが、どちらにも道理がある。
物理の原則はそうはならない。世界古今、全く変わることはない。神話の時代の水も現代の水も沸騰する温度は同じである。西洋の蒸気も東洋の蒸気もその膨張力は異ならない。モルヒネを大量に服用すればアメリカ人も日本人も死ぬだろう。これを物理の原則と言い、これを研究し利用するのを物理学という。人間万事この理から外れるものはない。もし外れているように見える者は、物理の法則に疎いものであると自覚すべきである。そもそも物理学の敵で、その発達を妨げるものは人民の「惑溺」(特定のものや価値観などを妄信し固執すること)である。幸いに我が国の上等社会には陰陽五行論などの非科学的な説への惑溺は非常に少ない。しかし、これは儒者が仏教をかつて攻撃することに熱心だったからで、真理原則を探究した知識のおかげではないため、占いや迷信などに関心が薄いのと同じように、物理学に対しても漠然とした態度がある。
儒者は仏教を証拠のない迷信だと排撃しながら、自分自身では雨や蒸発の原理などを科学的に追究したことはなく、関心を持たなかった。儒者の教えで育てられたものは、科学的な原理を聞いても些末なことだと思うだろうが、決してそうではない。
近年の欧州文明はみな、物理学から出てないものはない。西洋文明が発明した、蒸気船・蒸気機関車・鉄砲などの兵器、電信・ガスなどは大いに活躍しているが、小さな基礎理論の探究から始まり、それを実社会に用いたものである。その大(発明品)を見て驚くな、その小(基礎理論)を等閑に付していけない。人として物理に暗く、ただ文明の物を用いてその物の性質を知らないのは、馬が飼料の性質を知らず、ただ上手いものは食べ、そうでないものは捨てるのと同じである。
そうとは言えども、馬はまだその物が毒なのか良いものなのか判断する能力を有する。しかし、現代の不学の徒には、汽車に乗って汽車の原理を知らず、電信を用いて電気の性質知らず、甚だしい場合は自分が何者かをしらず、不摂生になる者がいる。さらにひどい場合は、「医は意なり」と公言して、医術は憶測であるかのように誤認し、根拠が無い漢方を服用してうぬぼれるものもいる。最も愚かな場合には、売薬(富山の売薬か、認可外の薬という意味か)を服用して万病を治したいと願う者もいる。上等社会においても知識が乏しいことには実に驚きである。
結局、物理を軽視している罪であり、馬より劣る人と言われても致しかたない。我が慶應義塾の初学者を導くために物理学を教えて、他の科目の準備とするのもこのためである。
考えたこと
① まずは科学的精神と思考力を養う
今自分が生きている世界の事物を当たり前のものとして思考を停止するのではなく、実証的に真理を解明し問題を解決していく科学的な姿勢を養っていくために「物理学」(自然科学)を福沢は重要視していたのでしょう。
もちろん、人文科学や社会科学にもそのような側面はありますが、研究する観点によって、どうしても人間の価値判断の影響を受けざるを得ません。その点、自然科学は絶対的な真理を前提としているため、価値判断を排除して論理100%で物事の原理を探究することが出来る訳です。
そのため、科学的精神を養うファーストステップとして適していると福沢は考えたのではないでしょうか。
② 本質的な理解の大切さ
西洋文明の発明品をただ用いるだめではだめ、その元となった基礎理論に目を向けなくてはいけないと福沢は言っていますが、現代の我々にも耳が痛いですね。
福沢の時代より著しく科学が発展し、我々の身の回りで利用している技術が、どのようなものから成り、どのような原理で作られているかをすべて把握することは不可能に近いです。
ですが、本質を見究めようとする姿勢がなくなると「惑溺」の状態となってしまうわけです。「惑溺」は福沢が非常に嫌った精神状態で、自分の思考を停止し、特定の事物や価値観を妄信することです。
例えば、現代でも薬や栄養ドリンクの成分に関する知識がなく、効果に目がくらんで、その副作用を知らずに過剰に摂取してしまったり、Wikipediaがどのような仕組みで成り立っているのかを知らないで、書かれていることはすべて正しいと思ってしまったり、ひどい場合にはひろゆきが言っていることはすべて正しいと思いこんだり、例を挙げたらいとまがないのです。
文明が生み出した発明品でも、ただそれが便利だと思って使っているだけでは、それに他の側面で悪影響はないのか、どうすればより良い物になるのか、といった視点は生まれてこず、文明の発展は停滞してしまいます。
物事の本質や仕組みを全て知っている必要はありませんし、そもそもできませんが、少なくとも利用する際にはふと立ち止まって、そこに考えをめぐらすことが主体的に生きるうえで大切だと思います。
