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福沢諭吉「教育の価必ずしも高からず」から考える教育とお金の関係

引き続き同じく『福翁自伝』からの紹介で、福沢が教育の費用について持論を述べたものになります。教育費って高いですよね。これを読めば少し気持ちが楽になるかも?(笑)

現代語要約

 教育の功能(原文ママ)は、世間の人々が想像し期待するほど大きくはなく、また不可思議なものでもない。人生の能力は先天的な遺伝に依存して限界があり、教育はただこれに手入れして本人の天性を発現させるに過ぎないという。そうであるからこそ子弟のために学校を選び、または特別に教師を家に招くなど、子どもが学業で大きな成果を得られることを祈って、少なくない資金を費やし、ついに目的を達成できない者が非常に多い。
 
 また、広い視点では公立学校の費用も国としては大金を費やしながら、これを生徒で平均して学業の進歩の程度を見れば採算に合わないと言われても仕方がない。世間には、大切な公私の資金を費やしてこれに見合うだけの功能があればあえて資金を惜しまないのだが、学問修業者の平均数を計算すれば、教育は割に合わないものとして密かに不満に思っている者もいる

 数の上からすればもっともらしく聞こえるが、一歩議論を進めて、大切であるとされる資金は実際にどのような性質のものでどれほど貴重なのかと尋ねたならば、貴重であるとともに思ったほど貴重ではない実態を発見するだろう

 家庭に巨万の財産を蓄えて衣食住以外に何のために使うだろうか?思い通りに蓄え続けて子孫に残しても、子孫が代々これを守れた事例は少ない。加えて、自身一代の間でも貧富は時の巡り合わせで、財産はただ有る時に在るのみである。昔の人の言葉で「富貴風雲の如し」とは正にこの事実を良く言い表している。

 現代の人が財産を貴重なものとして執着することは理解できるが、その本質は遺伝の性質や社会の習慣の影響を受けて一心不乱に金は大切なものと思い込み、ついには大切である理由も忘れて金を崇拝するものが多いため教育の価(あたい/値段)を高いというのである。これは教育が高価なのではなく、金の価値を高く評価しすぎなのである。

 教育の功能も思うほど大きくなく、之に費やす資金も思うほど貴重ではないと理解したならば不平はないはずである。まして身に付いた知識は失う心配もないのに対して資産は消えてなくなってしまう例が多いのは言うまでもない。「公にも私にも子弟の教育に銭を愛(お)しむ勿れ。」

考えたこと

① お金の価値とは

 教育の費用について語るにあたって、そもそもお金ってそんなに貴重なものなのか?と投げかけているのが面白いですよね。中学生で習いますが、お金には「交換」、「価値保存」、「価値尺度」3つの機能があります。本来お金は「交換」して有用なモノ・サービスに変えてこそ意味がある物なのに「価値保存」にこだわりすぎたり、「価値尺度」に目がくらんだりして、お金を貯めること自体が自己目的化しがちですよね。
 そういったお金の性質を相対化して、人々がお金の価値を高く評価しすぎて、教育が高価なものと思い込んでいると指摘するのは、「惑溺」(本質を見ずに妄信すること)を嫌った福沢ならではなのかなあと思います。

② 金は一時のもの知識は一生もの
 お金は無くなったり、その価値自体が下がったりしてしまいますが、身に付けた知識はすぐには役に立たないかもしれませんが、一生ものですよね。人のことあまり言えませんが、将来への投資だと思って、教育にお金はけちらないようにしましょう。ですが、気を付けて欲しいのはあくまで「良い教育に対しては」です。良い教育にはそれ相応の費用を払うべきだと思いますが、「悪い教育」または「無駄な教育サービス」に高額は払う必要ありません。現代は教育サービスにあふれていて、長期的にみて本当に子どものためになるか分からないようなサービスが沢山あります。どうか、近視眼にならず、本質的に子どものためになる教育を授けてあげてください。


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