【いだろぐ252】私とは何か。
平野啓一郎さんの
私とは何か
個人から分人へ
を読んでいます。
本当の自分とは?
最小の単位は個人だけど、
自分の中には、いろんな自分がいる。
日常の色々な場面で、
居心地の悪さを感じた時に、
場の空気に合わせたキャラを演じる。
学校や家庭、部活、気の合う友達といるとき。
私たちは、そのときどきに応じて、
特に居心地の悪い空間にいたとき、
「場の空気」に合わせたキャラを使い分ける。
そしてあとで「あれは本当の自分じゃない」
と自分に言い聞かせる。
「本当の自分/ウソの自分」モデルは、
手軽でわかりやすい。
しかし著者は、そのそれぞれで演じられる自分に序列はない。
つまり、演じられるどれもが本当の自分の姿であり、
個人は場面場面で顔を出す「分人」の集合体であるといっている。
人間は唯一無二の「(分割不可能な)個人individual」ではなく、
複数の「(分割可能な)分人dividual」である。
そして分人それぞれには価値の序列はない、
とするのが著者の考え方。
「本当の自分/ウソの自分」モデルは、人を苦しめる。
そのときどきでキャラを作っているのだとすると、
私たちの人間関係とはいったいなんなのか?
さっきまで親しくしていた友人や恋人との会話は
全部見せかけなのか?
「本当の自分」を隠し続けて、
ウソの自分で中学高校時代を生き続けていたのか?
そんなことはない。
そのそれぞれが本来の自分の姿であり、
それが一通りの「本当の自分」である必要などない。
まだ序盤なのですが、
このようなことが書かれていました。
■
本当の自分は?
学生時代から
問い続けていた気がします。
学校や、麻雀している時に
心からハッチャケている友達に
比べるとなんか乗り切れない。
一人でいるときが、本当の自分であって
人といる時は、本当の自分ではない、
と思っていた。
でも、楽しくないのか、
と言われたら、楽しかったし、
今でも、関係が続いている友達もいる。
ウソの自分ということはない。
その思いが自分を苦しませる。
一通りの本当の自分である必要はない。
結局、自分というのは
他者との関わりの中で、
その時、自分が演じられる役割。
その時の空気・環境で、
自分が導き出した答え。
全部、自分が
無意識的に、意思決定したキャラ。
中学・高校・大学・職場で
キャラが違ってくるようなことも
こういうこと。
すべてが自分だ。
■
それなら逆に、
他人との関わりの中で
自分がありたい姿を投影していけないのか?
理想とするような
自分でいる時間が
増えていけば、
仮面だったものが
引っ付いてきて
本物になっていく。
自分を魅力的に見せる。
なりたい姿になりきる。
とは、
他人との関わりの中にある自分を
自分自身で定義するもの。
■
本の中に挟まっていた栞に
松尾芭蕉さんの言葉が書いてありました。
「不易を知らざれば基立ちがたく、
流行を知らざれば風新たならず」
時代を経ても変わることのない
本質的な事柄を知らなければ基礎はできあがらず、
変化を知らなければ新たな展開を産み出すことはできない。
矛盾があるのも自分、
一通りである必要はない。
目標・理想、
他者との関わりを通して
自分を定義していく。
今日も、積み重ねていきます!
今日も良い1日にしましょう!!
