現代写真マガジン「POST/PHOTOLOGY」 #0021/PIDAN「宇宙の一粒を持ち去ろうとした妄想 / Arrival Without Movement」@Gallery SUGATA KG+
テーブルの上の銀河
京都・室町通二条のギャラリー素形。入口で、アクリル板に挟まれた4点の小さな写真が出迎える。タイトルは《石を運ぶ人》。
そこから時計回りに進んだ先で、目が止まる。
テーブルの上に銀河が広がっている。
並んでいるのは、石とページがくり抜かれた本と、そして“繰り出された”本の一部だ。

インスタレーションビュー @Gallery SUGATA 筆者撮影
PIDAN(ピータン)による KYOTOGRAPHIE KG+ の展示「宇宙の一粒を持ち去ろうとした妄想 / Arrival Without Movement」。
東京綜合写真専門学校で講義を担当していた頃から彼女の作品を知っており、本展についても以前から相談を受けていた。しかし、実際に目の前に広がる情報の宇宙を目にした時に受ける感覚は紙の上でのやり取りからは得難いものであった。
本のページはくり抜かれ、その空隙は石によって置き換えられる。「質量」という条件を通して、両者は等価交換されているのだ。意味は一致しない。歴史も内容もすれ違う。それでも両者は「同じもの」として振る舞う。識別の手前で、物質と情報が入り乱れ、白いテーブルの上に広がる。
展覧会タイトルの「宇宙」とは、遠い天体でも形而上学でもない。この展示室そのものが、PIDAN の「物質と情報の宇宙」だ。石は、その宇宙の一粒である。
これをどう理解するのか——それがこの論考の出発点である。
「動かしてはいけない」石
本展の出発点は、PIDAN が友人から聞いた一つの伝承である。
「石を動かすと、世界のバランスが崩れる。」
山梨県にある丸石信仰を引くまでもなく、自然物を勝手に動かすことは古来よりある種の禁忌とされてきた。これは現代のカオス理論における「バタフライ・エフェクト」——些細な行為が世界全体に予期せぬ巨大な影響を及ぼす——とも共鳴する、物理的世界への介入に対するわたしたち人間の根源的な畏怖である。
PIDAN はこの禁忌を真正面から受け止め、そして、この禁忌が私たちに突きつける一見して不可能なミッションを軸として作品制作へと向かう。
「世界のバランスを崩さずに、石を展覧会へ運ぶことは可能か?」
それがこの展覧会で提示されたPIDANの問いだ。
シミュラークルに覆われた現代
しかし、この問いは、現代という条件下でもう一段のねじれを孕む。
今や私たちは、飲んだことのないベトナムのコーラの味を語ることができ、会ったことのないトランプ大統領の存在を、自明のものとして受け入れて暮らしている。
物理的な接触は、もはや存在の前提ではない。事物の存在は、メディアを介した情報——ジャン・ボードリヤールが「シミュラークル(オリジナルなき模倣)」と名指したもの——へとずれ込んでいる。
では、この社会において、「石を運ぶ」とはどういう行為なのか。
物理的に運ぶことは禁忌である。しかし情報として運ぶことは——気づけば既に、私たちが日々やっていることだ。
写真というシミュラークル化装置
この問題に対する PIDAN の手段が、「写真というメディアの再考」である。
写真は、物理的世界を光学的に情報化し、物質をイメージへ変換することで、人々の認識に関与してきた。
写真とは、世界をシミュラークル化する装置そのものである。
この事実を私たちはふだん意識しない。
石を「物質」として物理的に移動させるのではない。「情報」へ変換することで、世界の均衡を保ったまま会場内へ現前させる——この「変換」こそが本展の中心にある操作だ。
本のページをくり抜いて石を置く行為は、情報(ページ)と物質(石)とを置き換える操作である。石をフロッタージュで写し取る行為は、物質(石)を情報(紙の凹凸)に変換する操作である。両方向の変換が並置され、しかも識別不能なまま入り乱れる。
「石の物質的質量は、情報の質量へと再編成される。」これは写真というメディアの根源的な力を示す。その一方で、PIDANは展覧会において、情報の側にも入れ替えによって、石という物質的な身体を持たせ物質的に扱う。
PIDANの展示作品は「情報」「物質」の双方向に開いた術式なのだ。
メルカリで運ばれてくる石
ここまでであれば、PIDAN の試みは「石」に関する個人的な体験をもとに、「石」を媒体として「写真の機能を概念的に拡張した展示」として記述することができる。
しかし、この展示の決定的な深さは、その先にある。
本に挟み込まれている石はPIDAN がメルカリで購入した石である。
この事実は作品全体の意味を一気に転回させる。
「石を動かしてはいけない」という倫理をこの作品世界の根拠に据えながら、PIDAN が自分で川辺や海岸に降りて石を拾ったら、その瞬間に作家本人がその倫理の違反者になる。アーティストの身振りで自分のコンセプトを否定する、自己矛盾である。実際、この手の矛盾を抱えた作品制作をするアーティストが実は多い。
ところが、メルカリ経由なら——石は自分が動かさずに、運ばれてくる。
つまり、倫理は守られるのだ。
そして同時に、この事実は別の重要な意味を立ち上げる。
メルカリとは、ボードリヤール的シミュラークルの現代的な物流実装である。1970–80 年代以降の消費社会が予告し、ヤフオクが車や生き物といったものまでを「情報」のみを媒介とし売買可能にしたあの構造の延長線上に、メルカリは存在している。メルカリはまさに現代における「物質と情報の交点」である。
実体なき画像に対して欲望を発動させ、物質が事後的に運ばれてくる——これは、写真変換装置のメタ的な制度実装にほかならない。
質量を媒介に入れ替えが行われるあの白いテーブルの上もまたまさに「物質と情報の交点」である。つまり PIDANの術式は、ギャラリー内のテーブル上で発動する以前に、作品の素材調達フェーズから既に発動している。
展示は、術式の出力結果ではない。術式そのものの可視化である。

インスタレーションビュー @Gallery SUGATA 筆者撮影
スーパーのチラシの肉や野菜の写真を石の写真で置き換えたコラージュ作品が、ここで自己言及的にもう一度立ち上がってくる。「記号として消費される石」をアイロニカルに提示するこの作品は、批評的なコメントであると同時に、作品制作のフローそのもののメタ表現である。

インスタレーションビュー @Gallery SUGATA 筆者撮影
メルカリで石を買うという行為は、情報の話(画像で選ぶ)をしているうちに、いつのまにか物質の話(石が届く)になっている。それは、平らに並走していたはずの二つの位相が、ねじれを介して連続化する瞬間そのものといえる。
また、PIDAN がメルカリで購入しているのは石だけではない。本もまたメルカリで購入されている。しかも、断裁済みの本を選んでわざわざ買い、自分でその本を製本し直したうえで、石を挟み込むためのページのくり抜きを始める。
これは二重の役割否定である。書物が役目を終えて廃棄されかけた状態(断裁済み)から、一度書物として復活させ、そして石によって再びその書物性を否定する。死んだ本を蘇生させ、また殺す。情報の役割と物質の役割の境界が、この過程の中で何度もねじれる。
メビウスの輪、そのねじれの可視化
本来世界は、物質と情報がテープの表と裏のように並走するモデルだった。両者は隣り合わせに存在しながら、明示的に交わるようには設計されていなかった。
ところが情報化社会の進展は、テープを切り、裏返し、繋ぎ直していく。表と裏が連続化する一点——そこを通る瞬間、私たちは「情報の話」をしているつもりが、いつのまにか「物質の話」をしていることに気づく。
つまり現代は、物質と情報の関係において、メビウスの輪になっている。
PIDAN の展覧会は、このメビウスの輪の構造そのものを可視化する装置として組み上げられている。
入口の「運ぶ人」シリーズは、世界を回している匿名の人々のメタファーであり、循環そのもののアイコンだ。
写真の中の人物が運ぶ石は実際の石ではない。撮影された石をプリントアウトし、元の場所に戻したところから運び直している。一連の工程を2周するこの動きこそがまさにメビウスの構造そのものであり、展示室の入り口に宣言として置かれている。

インスタレーションビュー @Gallery SUGATA 筆者撮影
テーブル上の本と石の質量等価交換は、展示室の内部に発生したクロスポイント。フロッタージュは石の表面情報を、もう一つ別の物質に裏返して連続させる。「ゴロゴロ」は物質の移動によるバランスを崩す世界という啓示。チラシのコラージュは、消費社会の記号循環という外部のメビウスを、展示室の中に引き込んでくる。

インスタレーションビュー @Gallery SUGATA 筆者撮影

インスタレーションビュー @Gallery SUGATA 筆者撮影
そしてメルカリでの石購入は、展示の外側で既に発動している、もっとも巨大なメビウスのねじれである。
これらすべての位相のねじれを、ひとつの展示空間に同時に配置すること——それが PIDAN の固有の方法論であり、その方法は変換を軸とした「入れ替え」という術式だ。
この術式は、ギャラリーの内部で完結するのではない。作家の身振り、作品の素材、鑑賞者の経験、作品の流通——展示を取り巻くすべての位相を貫いて作動している。
写真を撮ることが世界を変える時代へ
本展のサブタイトル「Arrival Without Movement / 運動なき到来」は、ここまで述べてきた議論の全てを一行に圧縮している。
物理的な運動なしに、しかし確かに、石は会場にやって来ている。「世界のバランスを崩さずに石を運ぶ」という不可能なミッションは、写真というメディアの根源的な力——シミュラークル化=情報化を通して、確かに遂行されている。
それは情報のバイパスを通った、しかし実体を伴った到来だ。そしてここで、もう一段引いた歴史的な見立てを置いておきたい。
物質と情報のクロスポイントを増やし続け、世界をメビウスの輪へとねじっていったメディアの正体は、ほかでもない写真である。
写真は誕生以来ずっと、世界を光学的に情報化し続けることで、物質と情報の境界を侵食してきた。スマートフォンと SNS の時代になって、その作用は飽和する。私たちは画像で見ただけの場所を「行ったことがある」と語り、画像でしか接していない人物の存在を当たり前に前提しながら生きている。
「運動なき到来」がたどり着く先は、私たち全員が既に住んでいるこの場所だ。
そしてもう一歩。
「石を一つ持ち帰ると世界が変わる」という伝承は、いまや写真にも当てはまるということをPIDANは逆説的に語る。
「石を持ち帰ることと石を写真に撮ることは同じことだ」と
まさに、現代において、一枚の写真を撮ること、一枚の画像を世界に放流することが、現実そのものを動かしてしまう時代に、私たちは入りつつある。
フェイク画像、AI 生成、SNS の連鎖、選挙への影響——例を挙げるまでもなく、写真は今、撮るだけで世界を変えるメディアになりつつある。PIDAN の展示は、その自明化された日常を、石という一粒の物質に焦点を絞り直すことで、もう一度問題化する。
「宇宙の一粒を持ち去ろうとした妄想」というタイトルの「妄想」は、実は私たち自身の生きる姿勢の正体だったのではないか。そして同時に、写真もまた、誰かが何気なく撮った宇宙の一粒なのではないか。それが世界に放流された瞬間、世界のバランスは、本当はもう、すでに崩れているのではないか——と。
冒頭の、テーブルの上の宇宙に戻ろう。
本のページがくり抜かれ、空隙に石が置かれている。意味は一致しない。歴史も内容もすれ違う。それでも両者は「同じもの」として振る舞っている。
識別の手前で、物質と情報が入り乱れる、その一点に、私たちは既にいるのだ。
まとめ──現代写真研究者としての視点
「石を持ち帰る」という個人的な体験を拡張し。情報化する現代社会という領域にまで拡張させた展示。
入れ替え(変換)を写真の本質と捉え、自らの術式として磨き上げた先に作られた洗練された空間宇宙
物質と情報のクロスポイント(ねじれ)が多様な位相で可視化されることで、展覧会全体はメビウスの輪の構造として立ち上がる。
PIDAN
「宇宙の一粒を持ち去ろうとした妄想 | Arrival Without Movement」
日時:2026年4月11日(土)- 26日(日)
場所:Gallery SUGATA 京都市中京区室町通二条下ル蛸薬師町271-1
