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現代写真マガジン「POST/PHOTOLOGY」 #0022/中川もも「Clonal Images」@HOSOO LOUNGE KG+


KYOTOGRAPHIEのサテライトプログラムKG+の展示として、中川もも「Clonal Images」がHOSOO LOUNGEで開催されている。HOSOOは西陣織の老舗、後援はDior——テキスタイルとファッション、つまり「布」と「身に纏うもの」をめぐる二つのブランドが、写真展のフレームを成している。

今回の展示は、壁面に貼られた壁紙、会場中央に立てられた湾曲する鏡とその反対の面に貼られた壁紙、そして天井と壁面の一部から切り出されたイメージと会場にもともとある鏡——これらの要素によって構成されている。

中川もも「Clonal Images」インスタレーションビュー
@HOSOO LOUNGE 筆者撮影

今回は、ヒラヒラと揺れる天井からのイメージだけではなく、壁紙のイメージも展示構成の一部である鏡によって、鑑賞者の動きに呼応して変化を続けている。

鏡という新たなレイヤーは、空間的な奥行きだけではなく、彼女の作品コンセプトの根幹へ鑑賞者をたどり着かせる効果としても機能し、生命の胎動の中に鑑賞者を誘うようであった。

中川もも「Clonal Images」インスタレーションビュー
@HOSOO LOUNGE 筆者撮影

写真のシステムを傍観するか、自覚的に関与するのか——有限ゲームと無限ゲーム

中川の写真表現は、いわゆる写真家の「撮る(TAKE)」ではなく、イメージを「育て」「観察する」という特有の身ぶりによって支えられている。「イメージ生態学」という独自の概念を背景にイメージのブリーダー兼生態研究者として、写真のシステムそのものに向き合う。

『Wired』誌の創刊編集長であり作家のケヴィン・ケリーは『テクニウム』の中で、神学者ジェームズ・カースの概念を応用して、テクノロジーと生命の進化の軌跡を「無限ゲーム」として捉える。

「有限ゲーム」とは、勝つことを目的としたゲームであり、空間、時間、行動に明確な境界があり、プレイヤーはその境界内でプレイする。ルールは一定に保たれ、誰かが勝者になることで終わる。

一方「無限ゲーム」とは、ゲームそのものを「続ける」ために行うゲームであり、プレイヤーは「境界とともに」プレイし、ルール自体を変化させることでゲームを継続し続ける。勝者は存在せず、終わらせないことそのものが目的となる。ケリーによれば、進化、生命、知性、そしてテクノロジーの総体としてのテクニウムは、すべて「無限ゲーム」である。

現在の中川の作品制作は、まさにこの「無限ゲーム」のフィールドでプレイされ、写真というテクノロジーの既存システムの境界を変化させ、現代写真の生態系の中で新たな表現の場所を切り拓いている

生成フィクション——イメージ生態学というコンセプト

アーティスト、ヒト・シュタイエルは自身の著書『デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術 星を覆う内戦時代のアート』の中で、現代を理解する上で決定的となる一文を書いている。

ゲームとは、世界を非現実化させるコンピュータの成果物なのではない。全く逆に、ゲームを通じてコンピュータが現実化したのだ。ゲームとは、いわば生成フィクションなのだ

『デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術 星を覆う内戦時代のアート』p. 284

ここで、シュタイエルが示しているのは方向性の逆転である。一般的には、ゲームは現実を仮想化、非現実化する装置と考えられる。しかし高度に進化した情報化社会においては逆に、ゲームという仮想世界を介してコンピュータが現実化されたのだと説く。これが「生成フィクション」である。

中川の作品では、この「生成フィクション」がコンセプトを背後から支える。

「イメージ生態学」という中川の作品に通底する独自の概念は、ある種のフィクション・仮説を写真というメディアのシステム(OS)の上で発動することで機能している。

その仮説は「これから先の未来に、「イメージ」というものが、「生物的な振る舞い」をする時がくるかもしれない」ということである。

太古の地球のマグマの中で生命を誕生させる源となったアミノ酸のように、未来の新たな種の生命の源、原生的な状態として今現在のイメージがあるということだ。その繁殖と成長を支えるブリーダーであり、生態研究者というポジションに自らをおくこの身ぶりこそが、中川を稀有なアーティストたらしめている。

中川は、「イメージ・メイキング」という写真のルールに囚われることなく、果てしなく続く新たな生命の誕生の物語という「無限ゲーム」をプレイしているのだ。

中川ももの作家的進化——『有限ゲーム』からの離脱

中川は自身の「Clonal Images」という概念を段階的に更新しながら、自身のコンセプトを具現化してきた。

同じ京都芸術大学であったため、筆者の現代写真研究自体が中川の作品の段階的な更新と並走しながら進められてきたとも言える。

学部・大学院の前半の頃の作品は、感受性の高さと多様性を受け入れる姿勢こそ現在のそれと同様であった。一方で、自身と作品の置かれた場所に対する息苦しさ、居心地の悪さを抱えていた印象を、筆者は常に持っていた。

それは、写真というものを取り巻く、表現におけるある種の権威や固定化された制度、教育のシステム。写真における乏しい批評言語でのラベリングや何者であるかの押し付け、新しいジャンルを開発できない保守的な土壌…

まさに過渡期である写真表現の世界では、作品の周りに息苦しさを生み出す構造があり、彼女自身も自分を守る必要が当時の作品づくりの一部を成していたのではないかと思う。写真におけるこれらの既存の枠組の中にあること、つまり「有限ゲーム」であることが彼女の作品の息苦しさの原因そのものであったのだろう。

今回のKG+の展示に関してのNumeroによるインタビューの冒頭の見出し「自分自身の形を変えながら、自分を続けていく」は印象的である。

現実をイメージに追い付かせるという「生成フィクション」的なビジョンは学部当時からあり、作品だけではなく自身を変化させることはすでに作品に内包されていた。

「作品/自身」という主語の境界を曖昧にしながら作品について「壁紙になりたい」「包装紙になりたい」と話をしていたことが思い出される。

修了制作後から使われ始めた、イメージを生命のようなものとして捉える「Clonal Images」という概念は、単なるイメージ生成の戦略ではなく、境界をつくり、既存のルールの中で勝者を決める「有限ゲーム」から「アーティスト中川もも」を離脱させ、ルール自体を変えながら「境界とともに」続けることを目的とした「無限ゲーム」へと移行させた。

Clonal Imagesの実装の進化

中川が「Clonal Images」という名前をつけた展覧会をKG+で行うのは今回がはじめてではない。

2025年5月、MOGANAで行われた展覧会「Clonal Images」では、修了展とその前のグループ展の作品の一部、そして、来場者が持ち帰り可能な包装紙によって構成されていた。

中川もも「Clonal Images 2025」インスタレーションビュー
@MOGANA 筆者撮影

「Clonal Images」というタイトルだけを見て、今年も同じ作品でどうなるのかと思ったと漏らす関係者もいたが、これこそが「Clonal Images」という作品制作が「無限ゲーム」であることの証左である。

完成品である作品を制作し、展覧会ごとに区切りをつけ、新しい作品を生み出すというのが従来の写真家を含むアーティストのモデルである。

一方で、中川の「Clonal Images」はこのMOGANAののち、高島屋でのグループ展CAPS展、名古屋のPHOTO GALLERY FLOW NAGOYAでの「clonal images : specimens」、T3 PHOTO FESTIVAL TOKYOでの「clonal images : breed on walls」、スロバキアのOFF Bratislava「Clonal images」、FLOWでの「clonal images : thanatosis」、TERADA ART STUDIOの「clonal images: dormancy」と同名を冠した展示として継続する。

当然、巡回したものも含まれるが多くの場合は、アーティストのイメージ生態学という研究の中で繁殖され、進化をした「Clonal Images」が写真の概念を更新する形で提示される。

2025 年の展示では、包装紙という小さな単位でイメージの増殖と循環が実装された。一枚一枚の包装紙は、コレクターを介し、別の文脈へと移動し、わたしたちの手を経由する。「Clonal Images」は作家の手から放たれ、展示空間の外側で、静かに増殖し、変容し、循環する。

実際に筆者も持ち帰った作品を包装紙として活用している。イメージを物理的な流通のシステムに流し込むことで、鑑賞者を「Clonal Images」の成長戦略のサイクルの中にダイナミックに組み込むことを実現している。

中川の「無限ゲーム」における鑑賞者は単なるイメージの「消費者/受容者」ではなくイメージの生産者としても機能するという転回を行われているのだ。

2026年の HOSOO LOUNGE 「Clonal Images」展では「Clonal Images」は会場の「壁紙」として提示される。筆者がこの展示における重要なポイントであると考えるのは、天井や壁面にヒラヒラとイメージを跨ぐ「Clonal Images」はあるものの、作品の大部分が「壁紙」であるということだ。

展覧会、特に美術館や芸術祭におけるセノグラフィー(空間演出)においてリプロダクションによって制作されたシート張りは主流な制作方法のひとつである。当然、写真表現をする多くのアーティストも中川と同様に「壁紙」を表現の一部として用いることは多くある。

中川もも「Clonal Images」インスタレーションビュー
@HOSOO LOUNGE 筆者撮影

しかし、「Clonal Images」はこの展示がセノグラファーとの共同作業によって制作されるという制作的な制約をむしろ「Clonal Images」そのものの成長の戦略として活用している。

有機的で抽象度の高い「Clonal Images」は壁紙との相性が極めて高い。それはイメージとしては当然であるが、一方で写真が従来的に囚われてきたフレームという問題をすんなりと克服してみせる。

撮影を背景とする従来の写真は撮影時のフレーミングを制約として、アーティストが規定するイメージの内と外を厳密に分ける。しかし、中川の今回の壁紙となった「Clonal Images」には厳密にはアーティストが規定する内と外がない。どこからどこまでがひとつの平面作品であるということは作品が壁紙という形式を擬態することで、アーティストによる制約ではなく貼られる壁の大きさによって規定される。柱で曲がるところがイメージのどこになるのか?どこまでをイメージとして使うのか?その決定は壁紙という形式によって決められる。

つまり、アーティストによる、フレームという写真表現における制約は取り除かれ、今回の展示においてそれは他者の決定という外的要因としてイメージの自律的な変化の一要因として取り込まれる。

結果として展示の中にはイメージが従来の写真表現では見せない表情を見せることになっている。

中川もも「Clonal Images」インスタレーションビュー
@HOSOO LOUNGE 筆者撮影
中川もも「Clonal Images」インスタレーションビュー
@HOSOO LOUNGE 筆者撮影
中川もも「Clonal Images」インスタレーションビュー
@HOSOO LOUNGE 筆者撮影

キュレーターのClothilde Morette氏が展示のキャプションで示した

精神を身体よりも優位に置く傾向のある文化的文脈の中で、中川はむしろ身体の知性を提示する。環境を吸収し変改していくその能力によって、混成性(ハイブリディティ)は危機ではなく、むしろ私たちが生き延びるための不可欠な条件としているのである。

Clothilde Morette 展示キャプションより

ということばこそが中川作品の倫理的・存在論的身ぶりを的確にしめしている。「Clonal Images」とそれにまつわる、制作の方法論はただの芸術技法ではない。それは、現代を生きる私たちの生存倫理として提示されているのだ。

まとめ──現代写真研究者としての視点

  • 「Clonal Images」という「生成フィクション」による「無限ゲーム」へのアーティストのポジションチェンジが明確になった展覧会。

  • 展示の大部分を「壁紙」とする展示戦略が示す混成性がもたらすフレーミングの克服(境界の変更)。

中川もも
The Art of Color – Dior Photography and Visual Arts Award for Young Talents presents:「Clonal Images」
日時:2026年4月18日(土)-5月17日(日)
場所:HOSOO LOUNGE 京都府京都市中京区柿本町412
https://kgplus.kyotographie.jp/exhibitions/2026/momo-nakagawa/


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