「あえて」括るという戦略——「まなざしの奇跡」の副題が書き込んでいるもの
渋谷ヒカリエホールで「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」が始まった。会期は2026年7月4日から8月26日。1950年代から現在までの女性写真家30名を一望する展覧会だ。


起点はAperture発行の書籍『I'm So Happy You Are Here』である。2024年のアルル国際写真祭で、書籍の共同編纂者であるポリーヌ・ヴェルマール(Pauline Vermare、ブルックリン美術館写真キュレーター)とレスリー・A・マーティン(Lesley A. Martin、Printed Matter)、寄稿者の竹内万里子の3名の共同キュレーションにより展覧会として初出し、欧州を巡回して日本へ凱旋してきた。日本展の担当キュレーターは竹内である。
「日本女性写真家」という括りには賛否があり得る。石内都の身体を感じさせるものと時間、川内倫子の光学的な日常、澤田知子の擬態する自画像——写真の使い方は互いにまったく異なる。共通項を「女性であること」に求めるのは粗い。
ラベルになったものは消費される。括りを警戒する感覚は正当である。だが竹内は、その警戒を誰よりも知り抜いた上で、あえて括っている。
Tokyo Art Beatのインタビュー(2026年5月1日、聞き手・永田晶子)で、竹内は述べる。性別は「数多ある要素のひとつにすぎ」ない。
しかしこの社会では「女性であるというだけで一括りにされたり周縁化されたり」する。「だからこそ、あえて『女性』という名のもとで、一人ひとりのインディペンデントでまったく異なる世界を体感することでこそ、人はようやく『女性』をめぐる固定観念から本当の意味で解放され得る」。
この論理は二段構えである。「女性」は本質ではないと留保し、次にその留保を裏切って括りを再導入する。括りは目的ではなく方法だ。個々の差異を可視化する容器として一度括り、そののち内側から壊す。竹内は、外すために括っている。
副題はこの戦略をそのまま書き込んでいる。
「一人ひとり、歩いてきた。そして今、ここで、見つめあう。」——束ねられたのではない、と副題は先回りして言う。
括りは入口にすぎず、出口では個々の作家に解けている。副題は竹内の発言の圧縮形と読める。
括られることを、作家本人たちも望んでいないかもしれない。その違和感を当事者こそ感じているからこそ、副題は「一人ひとり」と念を押す。
だが「一人ひとり、歩いてきた」には別の含みもある。彼女たちが固まりとして動いてこなかったのは、集団になることを許さなかった男性中心の保守的な業界構造の側かもしれない。
誇りの表明であると同時に、一人ひとりでしか歩けなかった歴史の刻印——副題はその両義を抱えている。
そしてこの編み直しは、外から来た。
竹内自身が「『日本写真』の枠組みがとかく男性写真家に偏っている」と語るとおり、その偏りを正す視点は、まず海外で承認されてから日本へ上陸した。
凱旋とは、外から来た承認のことだ。日本の写真言説には、正史を内向きに温存する一定の慣性がある。
括りは入口にすぎず、出口では一人ひとりに解けている。誰を括り、誰が解くのか——この展覧会が投げているのは、括りという方法の賭けである。
