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男は簡単にクソになってしまうということ - 家父長制が生む権力性と他者性の欠如について

東京で出会ったい幾人ものインテリのおじさんは、男はクソって言ってたけど、あれはどういうことなんだろうか?しばらくと思っていた。
だが、帰省して地方に行ってみると、男はやはりクソだとよくわかる。

地方の男というものは、金を稼いでる自分に酔っていて、ふんぞり返って女を所有物で使うものとしか考えていない。これは、ジェンダー格差がまだ残っていて、大きい地方特有の空気感だと感じる。

さすがに、男という括りは雑なのだが、正確に言えば、自分自身の権力性を使って、相手の行動を支配する行為や態度がクソなのだ。
もうちょっと簡単にいうと、「これをしないと君は(あるいは、俺が)困ることになる。だからこれを君はやるべきだ。」と、半ば脅しのような態度が日常のコミュニケーションで常態化してる人間がクソなのだ。

そのため、これは、男でなくても女にも該当する。
例えば、付き合ってるカップルの男側が、複数人の男女がいる飲み会に参加しようとすると、形相を変え、死に物狂いで阻止しようとする彼女がいるとかなんとかを友達からよく聞く。これはクソだ。そして、可愛いからなにしてもいいと思ってる人もいるが、これもクソだ。

これらがクソなのはなぜか、相手の行為を支配するからだ。
支配は、相手の行動を、相手が本当にやりたいこと、求めているものを、対話をすることも、理解することもない。自分の感情の心地よさだけを求めている。

では、なぜこんなことになるのか?
それは、それ支配以外の他者との関わり方、その延長線上に楽しみがあることを知らないからだ。自分がなんらかの形で相手より優位に立ち、支配し、自己の一部として扱うことへの快楽しか知らないのだ。究極的に考えると、彼らの望みといえば、自分の身の回りが、世の中の全てがスプーンやフォークのように、能動的な働きかけに、こちらの快楽に合わせて、想定通りに応じてくれればいいと思っている。

だから、自分自身のコントロール化に置けない他者、認めることができない。つまり、未確定なものは、身の回りに来た時に、快楽を失う。快楽を失うと、怯えや不安が常に付きまとう。そのため、相手が自分の想定内で動いてくれて、手中にいないと怖くて仕方がないのだ。

そして、主題に戻るが、男というのは、この認める努力を怠っていても、生きて来られた。家父長制の社会の中で労働や生産に携わることで、この役割を果たさなくても、免除されてきた。だから、男は普通に生きていれば、すぐに簡単にクソになる。というより、まず生存に能力を最適化されていくため、事実上はデフォルトからクソ設定だ。

人間は、クソな人間と一緒にいたくない。
だから、日本は特に顕著だが、未婚率は先進諸国では、軒並み上がる。
それは、社会にとっては悲報だが、個々人にとっては朗報だ。

男は、地位やポジションを得ることに明け暮れ、得た地位やポジションが、あたかもすごいことかのように勘違いした上で、横柄さが露出するキモさを自覚できてない。よくあるキモいセクハラをするオヤジは、「俺は偉いからなんでも良いじゃ。ん」という世界の中で生きている。それを受ける側は、キモくて仕方ないのだが、そんな相手の見てる世界への想像など、知ったことない。まず、考えたことすらない。彼らにとっては、偉いから、オールオッケイなのだ。

話をまとめると、つまりこの話の本質は何かといえば、権力性を帯びた人間の他者性への欠如なのだ。
他者への理解や感情の想像が欠落しており、こちら側でその相手の内在する感覚を理解することを、違う論理を建前に持ってくる。その建前は、もっぱら権力だ。金やら立場やら、経歴などだ。そのため、相手への身体性や感情は、権力で上書きできると思っている。

そして、実はこのクソさは、人格がクソなのではなく、頭が悪いだけなのだ。
そう、頭に入ってる情報がゴミなのだ。だから、頭の中に入ってる情報を書き換えたら治るということになる。

ただ、人間というものは、身体的な情報と感情が一体化しているので、相応の工夫して書き換える必要があり、ここが大変難儀だ。だから、多くの人は、クソなやつは、クソのまま死ぬ。キモいセクハラや束縛をするやつは、キモいまま死ぬ。

だが、変わるチャンスは常にある。
今ここに目の前にある。

相手を支配し、束縛し、嫌なことは我慢し続ける、減点方式の人間関係のままでいるか、
あるいは、そこから降りて、相手の良いところを見て褒め、苦手なことや困ったことは対話や調節をし、お互いの良いところを伸ばし合う、加点方式の人生にするか、選ぶのは自分だ。

#男性論 #家父長制 #人間関係 #ジェンダー #エッセイ


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