いつか死ぬ自他について考える
母方の祖母が去年亡くなった。母方の祖父は私が生まれる前に亡くなっているし、父方の祖父母は私が高校生の時に亡くなった。これで私の祖父母という存在はこの世にいなくなってしまった。私は両親があまり若くないときの子供だし、祖母はとても長生きしてくれたと思う。
母方の曽祖父の家は先日墓じまいしたという。血縁の者たちが順番に同じ墓に入っていき、生きている者がそれを守る。そういう歴史がひとつ、静かに終わった。
子供を持つ親が自身の子供の将来について考えるように、私も親の人生の終い方について考えるようになった。愛情がある親ならば子供の将来ができる限り幸せであるように、と考えて計画するものだが、老いていく親を持つ子供も同じだろう。私も親の人生が今後も可能な限り明るく充実した時間であることを望む。
両親や叔父・叔母は、祖母の介護を通して「介護を自分たちだけで背負わなくていい」ということを示してくれた。離れて暮らす祖母は独りでも自宅で生活したいとは願っていたが、安全と健康を見守ってくれる高齢者住宅に入所し、帰省の都度、母の実家に一緒に帰って短い期間とはいえ自宅での生活を楽しんだ。ホームには祖母の同級生もいて話もできたし、全く不幸ではなかった、と信じたい。いつも一緒にはいられなくても、家族の健康と幸せを担保できる場があるのだ、ということは私の心の慰めである。でもそれは、お金で買う幸せかもしれない。親により良い人生の終わりを提供できるように、自分のためだけでなく親のためにも貯蓄しなくては、などと考える。
人はいつか死ぬものだ。死ぬのに生まれてくる、否、死ぬとは知らずに生まれてくる。私は幼少期に家族も自分もいずれ死ぬのだと知ってとてもショックだった。いつか死ななくてはいけないのに生まれてくるなんて理不尽がすぎる、と当時はならば不老不死になりたい、なんて望みを持つほど知恵が回らなかった私はただただ絶望した。
今の私は、飽きるまで生きたなら死はある程度歓迎すべき終着だ、という概念に納得している。終わりのない不死はむしろ呪いだ、ということも理解できる。
私は創作で気がつくと死のテーマを扱っている、と書いたことがある。
子供の頃に自分や大切な人がいつか死ぬことを知って以来、そしてある程度物事を理解した高校時代に父方の祖父母の死を目の当たりにして以来、死は私にとって揺るぎない一つのテーマである。私は自作の漫画『パラノーマル・ティーパーティー』で死後に自分の築いた富を子孫が受け継ぐことに執着し、逆に子孫を不幸にしてしまう「死にきれない」悪霊・嘉兵衛を描いた。だが、死のテーマをより鮮明に打ち出しているのは岸川珪花と名乗り始めてから最初に描いた漫画『黄泉ノサイメ』だと思う。
この漫画の主人公3人のうち2人は、死にゆかんとする病人ともう生きていないのにあの世にいけない地縛霊である。一見すると、この物語は「死ぬことは幸せだ」というメッセージを伝えようとしていると思われるかもしれないが、そうではない。死を通して見えるのは、死ぬ日までは生き続け、日々を重ねていくという事実だ。この物語は5話で完結する予定である。残り4話で、それぞれ異なる生の形、死の形を取り扱う。今掴んでいる、掴みかけている私なりの答えやその欠片を、『黄泉ノサイメ』の物語の中に刻んでいきたいと思う。
私にとって生きることはいつか死ぬ自己を、他者を受け入れることだと思う。生きている限り旅は続く。私は生と死に納得するために生きていく。
