「幸せになってね」、と言い続けた私が、その言葉の意味をやっと理解した話
第一部
夜が明け、窓の外が少しずつ輪郭を取り戻し始めた頃だった。気がつくと、私は泣いていた。
久しぶりの雨が、窓を静かに濡らしていた。
リビングには、昨日のパーティーの名残がそのまま残っている。紙皿、食器、子どもたちが友人たちにもらったプレゼント。
片付けなくてはいけないものが視界には山積み、、、。
昨日、一年間のカナダ親子留学を締めくくる Farewell Party を我が家のパーティルームで開いた。この一年で4回目のパーティ。一年前とは、同じ場所とは思えないほど、違う景色がそこにあった。
無事に終わった安堵と、「やり切った」という満たされた気持ちに包まれ、そのままベッドへ倒れ込んだ。 そして迎えた朝だった。
寝起きの一杯の水を飲みながら、カウンターの上に無造作に置かれていた9歳の息子が数日前に書き上げたカナダ生活最後の宿題が目にとまった。
「この一年で、あなたが学んだ一番大切なこと。」を発表するという課題。詩でもいい。歌でもいい。劇でもいい。 そんな自由な課題に、息子は紙芝居を作った。
"This year taught me that the world is much bigger than I thought."
「世界は思っていたより広かった」そう始まる文章を、私は微笑みながら読んだ。
最後の一節で、胸の奥から何かが込み上げてきた。
"Be yourself. Be thankful for who you are, and be proud of what makes you unique."
「自分らしくいていい。 ありのままの自分に感謝しよう。 自分らしさを誇りに思おう。」
私は40年生きてきて、ようやくその意味を少しずつ理解し始めた。 それを、この子は9歳で、自分の言葉として書いていた。
成績が飛び抜けて良かったわけではない。でも先生たちが育ててくれたものは、点数では測れないものだった。 それが、たまらなく嬉しかった。
山あり谷あり、これまでの人生を振り返るとなかなか濃厚な日々を歩んできた。没頭できる事にも出会えた、仕事にも友人にも恵まれた。かわいい家族も築けている。私は幸せである。
子どもたちには、言葉にせずとも、「幸せになってね」と願い続けてきた。今は私たちが全力で子どもたちを幸せにできる、でもいつかは子ども達も自分で自分を幸せにしていかなくてはならない。
いつか来るそんな日に向けて我々は「自らを幸せにできる子にする!」を子育ての目標に掲げてきた。
しかし、この瞬間、私は初めて立ち止まった。
私は本当に、「幸せ」の意味をかみくだけているのだろうか?
そんな事を思いながら、床に無造作に置かれた子どもたちが持ち帰ってきた学年末の荷物に重たい腰を上げ近づいた。
娘が学校から持ち帰った荷物に手を伸ばすと、
一冊の絵本が出てきた。 タイトルは『Be You』。
表紙をめくると、先生から娘への手紙がページいっぱいに書かれていた。
"Your sense of humour brings so much joy to our classroom... You make our classroom a better place just by being you... You are truly special just the way you are!"
「あなたがあなたでいるだけで、この教室はもっと素敵な場所になる。」
ここでこみ上げていた思いが涙としてあふれた。
どうして私は、今朝こんなにも泣いているのだろう。
息子も、娘も、先生も、同じ言葉を私に届けてくれていた。
「Be yourself」
もしかすると、この一年で一番学んだのは、子どもたちではなく私だったのかもしれない。
その答えを探すように、私はこの一年を振り返り始めた。
第二部
カナダでの最後の宿題を書き始めた頃、
息子はうまく言葉をまとめられず、ブレストがてら色々な話をしてくれた。
そういえば、すっかり忘れていたのだけれど、、、と語り始めてくれた内容に驚いた。
小学一年生の時に「本当に日本人なの?」と友人に言われ傷ついた事があったという。肌の色が少し濃いこと。家で英語を話していること。そういう「みんなとの違い」を指摘されて、嫌な気持ちになった事があったと。
幼稚園までは英語を話せる自分を誇らしく思えていたのに、小学生になって、なんだかそんな違いを嫌に思っていたと。
それを今まで知らずにいた自分に、胸が痛んだ。打ち明けづらい母だったのだろうか。過去の自分を恥じた。
でも本人はけろっとしたもので、「言い忘れてただけだよ」と笑っていた。傷ついていたのは、もしかすると私の方だったのかもしれない。
そして彼は嬉しそうに続けた。
「今の自分はそんな事まったく気にもしなくなった!」と。
自分の成長と変化を喜ぶように微笑んだ。
カナダ人だけではなく、スペイン、南アフリカ、インド、イラン、韓国、香港。 背景も育ちも全然違う友人たちとの出会いが、彼に「違いは恥ずかしいものではない」と自然と教えてくれていた。
誰に何を言われても、自分らしくいたいという軸が、今の彼にはある。
日本にいた頃の息子は、人と違うことを怖れていた。今は違う。
そしてふと気づいた。それは、私も同じだったかもしれない、と。
第三部
「あの頃の自分が、今は愛おしい。」
25年たって、やっとそう思えるようになった。ぎゅっと抱きしめてあげたい、と。私が15歳でアメリカへ渡った頃、その子はとても真面目だった。
ちゃんと挨拶をすること。失敗しないこと。目上の人に失礼のないようにすること。人に好かれること。4人姉弟の長女として、良いお手本であること。それが、幼い頃からの私の、当たり前だった。
父方の祖母は厳しい人だった。古き良き家庭に生まれ、そんな家庭に嫁いだ彼女には、挨拶、姿勢、言葉遣い、立ち居振る舞いに細かな正解があった。私たち子どもが失敗すると、叱られるのは母だった。
だから私は小さい頃、必死だった。失敗してはいけない。ちゃんとしていなければいけない。母を困らせてはいけない。
祖母の家の玄関をくぐる瞬間が、小学校受験よりも何よりも、幼少期で一番緊張した記憶だ。
玄関には大きな古時計があった。カッコウが鳴く時と、庭に住み着いた大きな亀が出没した時だけ、子どもらしくはしゃぐことが許された。
それ以外の時間は、応接室で微笑んだまま座り続けた。
畳の部屋へ移動すると、襖の向こうからふわっとお香の香りがした。少しだけ、緊張がほどける瞬間だった。
和装、洋装それぞれピシッと着こなした大人たちが集まる席にも参加した。
そして、ちゃんとしていると、大人たちは私を褒めてくれた。「しっかりしたお嬢さんね」、「素敵なお嬢さんね」、「本当に礼儀正しい子ね」身内からはなかなかもらえなかった肯定の言葉を、外の大人たちはくれた。
だから、人に好かれることを少し誇りに思うようになった。どんな表情をすれば場が和むのか。どんな言葉を選べば「感じのいい子」になれるのか。
私は人をよく見る子になった。
目上の方々に好かれることは、いつの間にか小さな私の小さな職人技になっていた。
16歳で、アメリカの寮制高校へ渡った。
正解のない世界に、私は戸惑った。
授業中、先生が質問を投げかける。するとクラス中の手が一斉に上がる。
私は机を見つめていた。「お願いだから当てないで。お願いだから、私を見ないで。」間違えるのが怖かった。誰かの期待から外れるのが怖かった。
私はずっと、答えだけではなく、正しい振る舞いを探していた。でもそんな状況でも、渡米間もない頃ですら、環境に開放感を感じていた。自分の意見を言っていいこと。自分らしさを探せること。それが嬉しかった。
でもその一方で、自分が日本人であること、アジア人であることを否応なく意識させられる出来事にも、何度か出会った。十代の私には、それを受け止める強さも、うまく言葉にする術もまだなかった。だから私は、嫌われないように、日本で身につけた「感じのいい子」でいるための技を、ますます磨いていった。
英語はまだまだだった。友達も少なかった。でも不思議と、苦しいはずなのに、息がしやすかった。
日本へ帰れば帰国子女らしさを消した。久しぶりに会った友人に声の大きさを指摘された時は、どちらの自分が本当の自分なのか、わからなくなった。
一人で食堂で食べることが多かった時期でも、体の中からみなぎる気合と希望で胸が高鳴っていたのを覚えている。
笑った方がいい時には笑い、話についていけない時はとりあえず微笑んだ。気づけば微笑みすぎて頬がぴくぴくすることもあった。
あの笑顔は、喜びから自然にこぼれたものではなかった。孤独から抜け出すための笑顔だった。仲間を見つけるための笑顔だった。生き抜くための笑顔だった。
二年目になる頃には英語も追いついた。スポーツのおかげで友達も増えた。世界は少しずつ広がっていった。
三年目は楽しくて、自分らしさを出せるようになってきた。最終学年直前、学校中の生徒が集まる場で、生徒会役員の発表があった。封筒が開かれる。名前が呼ばれる。私の名前が呼ばれた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。私?周りの友達が一斉にこっちを向いて拍手している。背中を押され、壇上へ向かった。
先生にも信頼され、友達にも恵まれ、スポーツもできた。今振り返れば、不思議なことではなかったのかもしれない。
でもその時、真っ先に浮かんだ言葉は——
「私なんかが?」
大学へ進み、社会人になり、外資系企業で働き、いくつもの成功体験を積んでも、その感覚はずっと消えなかった。
自分が不幸だと思ったことはない。でも「自分らしくいていい」という言葉だけは、長い間、自分のものにならなかった。
そして25年後、カナダで私は、どんな国の人とも自然に話せる人になっていた。
多種多様な人々が集まるこの国で、気がつけば私は、現地のクラスの親御さんや子どもたちの様子を誰よりもよく知る「ママ」になっていた。 それぞれのバックグラウンドの壁を越えて、みんなの真ん中で笑い合っている自分がいた。
「あなたの子どもたちに、うちの子のそばにいてほしかったわ」 「私たちの会社でビザを出せたら、このままカナダに残ってくれる?」
そんな言葉までかけてもらえたとき、初めて思った。
私は長い間、「出すぎた杭にならないこと」、「馴染むこと」、「好かれること」に重きをおいてきた。そして、それは自分らしくない生き方だったかもしれないと自分を卑下した事もあった。
でも違った。あの時間は、人を見る力を育ててくれていた。それが、私が人生をかけて育ててきた強みだった。
祖母の応接室で緊張しながら過ごした静かな時間も。アメリカで孤独をごまかすために微笑み続けた日々も。帰国子女である事を悟られないように努力した社会人1〜2年目の生活も全部が、今の私につながっていた。
同時に、15歳の私にも伝えたい。 そんなに頑張って好かれなくても、大丈夫。 そんなにちゃんとしていなくても、大丈夫だよ、と。
25年前の私は、その言葉を理解できなかっただろう。 正直に言えば、最近まで消化できていなかった。
今だからこそ、あの頃の私にようやく言える。
「あなたは、自分らしさを探してよかった。 自分らしさを好きになってよかった。そしてその旅は、もうずっと前から始まっていたんだよ」
遠回りだったかもしれない。でも、その遠回りがあったから、人の痛みがわかるようになった。誰かの違いを受け入れられるようにもなった。
そしてようやく、自分自身にも同じ言葉を向けることができる。
だから今は、あの頃の自分が心から愛おしい。
第四部
「もし私たちがあと数年しか子どもたちと過ごせないとしたら、何を残したいだろう。」
そんなことを本気で考えた時期があった。コロナ禍だった。
当時、我が家には3歳と1歳の子どもがいた。夫婦共にフルタイム勤務。2LDKの都内マンション。家族4人が朝から晩まで同じ空間で過ごしていた。会議中に膝によじ登ってくる。兄妹喧嘩が始まる。静かになったと思ったら何かが壊れている。笑っていたと思ったら泣いている。
スクリーンタイムなしの育児から、YouTubeの画面を押し付ける日々へ。
砂糖なし育児から、おしみなくグミを渡す日々へ。
理想としていた育児は、ことごとく崩れた。私と夫は一日中オンラインミーティングを続けた。私はいつも笑顔を作っていた。ミーティングとミーティングの間には必ず子どもたちを抱きしめた。でも心は追いついていなかった。
「ごめんね、ごめんね」と心の中で繰り返しながら、定期的に涙を流していた。世界中の同僚から悲しい知らせが届くようになった。親を亡くした同僚。故郷に帰れなくなった人。医療崩壊の恐怖の中で働く人。ニューヨークでは死者を収容する場所が足りないというニュースが流れていた。
だから私は思っていた。私なんかが弱音を吐いてはいけない。もっと大変な人がいる。そうやって自分を追い込み続けていた。
そんなある日、夫が激しい頭痛を訴えた。立っていられない。歩けない。コロナ禍、子どもたちを連れて病院へ行く勇気はなかった。
夫は一人で車を運転し、受け入れてくれる救急病院へ向かった。どれくらい時間が経っただろう。やっと電話が鳴った。「動かないでと言われて、ベッドに寝かされている。」それだけだった。
頭の中が真っ白になった。
私自身もその頃、長引く咳が続いていた。発熱はない。でも味覚が消えていた。まだ抗原検査キットもない時代だった。もし夫が帰ってこなかったら。もし私も感染していたら。もし私たち二人ともいなくなったら。
私によじ登ってくる小さな子どもたちを見ながら、私は初めて本気で考えた。この子たちに残したいものは、何だろう。
資金だろうか。英語力だろうか。学力だろうか。学歴だろうか。非認知能力だろうか。何時間も考え続けて、たどり着いた答えは驚くほどシンプルだった。
「自らを幸せにできる力をつけてあげたい。」
それが、我が家の子育ての原点になった。
そしてあの日から事あるごとに考える。
子どもたちに感じてほしい幸せの定義は何なのかと。
でもその問いを、自分自身に向けたことは、まだ一度もなかった。
第五部
カナダの現地校で息子が折り紙クラブを立ち上げた。
校長先生に直談判して、場所と時間をもらった。
校長先生とミーティングが予定されている日の朝、緊張で朝ごはんが食べられなかった彼。けれどやりきった。沢山の子が毎週月曜日のお昼休みに折り紙を学びにクラブへ通ってくれた。
誇らしかった。そして少し、羨ましかった。
あの「お願いだから当てないで」と机を見つめていた頃の米国生活1年目の私には、できなかったことだ。
折り紙クラブだけではない、自分らしくいていいと知った息子は生き生きしていた。いつもクラスの男子の輪の中心にいて遊びを作り出しては人を動かしていた。
娘も変わった。感情との付き合い方に悩むことも多かった娘が、カナダでの生活を通して、少しずつ自分の感情と向き合えるようになってきた。自分の思い、考えを説明できるようになってきた。
まじめな彼女はある日こう言った。「ママ、私、自分のことをもっと知りたい。」7歳が、そう言った。
私は7歳のとき、自分に何を問えていたか。
この一年、完璧な親ではなかった。
完璧な日々でもなかった。
骨は折るし、遅刻はするし、忘れ物もする。
宿題を忘れて自分をせめる事もあった。
その度に私もどうしてもっとちゃんとした親になれないのか自分を責めた。
私が自分を責める傍ら、子どもたちは自分らしさを探し始めていた。
自分を好きになるヒントを吸収し続けていた。
その姿を見ながら、私は自分自身に問い返していた。
では、私は?
第六部
先月、Googleを辞めて四年が経った。 フリーランス、スモールビジネス、そしてカナダでのほぼ専業主婦生活。元の同僚や友人が確実に前に進むなか、肩書をなくした私は何者でもなくなり、定期的に激しい焦りを感じていた。
退職してはじめの半年は、とにかく楽しかった。長めの夏休みとして、子どもたちとやりたいと思っていた事をすべてやった。
でも、1年が経とうとしていた頃から、焦りは月に一度、決まって波のようにやってくるようになった。「時が解決してくれるだろう」と思っていたがそんな事はなく、揺れ動く波は2年目も続いた。
仕事の工夫を重ね、月の収入が会社員の時を超えた月もあった。でも、そんな時でさえ、慣れ親しんだ渋谷や六本木のオフィスビルの立派なエントランスに行き、颯爽とゲートをくぐる着飾った女性を見かけると、なんだか自分が小さく思えた。その姿は、つい最近まで、14年間も自分がやり続けていた姿そのものだったのに。
3年目くらいからは、この感情の波を自分なりに攻略できるようになってきた。月1のタイミングがきたと察したら、あえて考え事をしないように、明るい事だけを頭に浮かべるように工夫した。 毎日忙しくしながら、工夫の連続。自分なりにうまくいった事も沢山あった。でも、昇進などのわかりやすい前進も、フィードバックをもらう機会もない日々の中で、どうしても考えざるを得なかった。
「この月日に、意味はあったのだろうか」と。
その問いを抱えたまま、カナダへ来た。 カナダにいると、これまでの人生で出会った人たちのことをよく思い出した。アメリカの寮制高校で出会った、アフリカやアジアから奨学金で来た仲間たち。彼らには圧倒されっぱなしだった。自分の人生を変えるという覚悟があった。自分の力で未来を切り拓くという、まっすぐなエネルギーがあった。
私は長い間、 「どこで生きるか」 「どんな会社で働くか」 「何歳までにいくら稼げるようになりたいのか」 「世帯収入はどれくらいが良いのか」 そんな目に見える短中期目標ばかりを考えていた。
でも本当は、もっと大切な問いがあったのだ。 私は、どう生きたいのだろう。
退職時から持ち続けていた「いつかやりたい」事への思いは、消えるどころか、この地で静かに強くなっていた。前に進めていないと思っていた時間は、寄り道ではなかった。他人の物差しを捨てて、自分の本当の声を聞く時間だったのだ。
そしてようやく気づいた。私に足りなかったのは、能力でも、情熱でもなかった。 自分の情熱を、自分の人生のために使うことを、自分に許すことだった。
「これでいい。」 その感覚が、この一年で静かに育っていた。カナダで過ごした一年が、その最後の後押しになった。
ここノースバンクーバーのマンションから見える雨上がりの山は、いつもそこにあった。雨の日は雲に隠れる。でも、見えなくなるだけで、なくなったわけではない。晴れると、そこには変わらず美しい緑の山が現れる。私はその景色が、大好きだ。
「ママ!山が見えてきたよ!」 この一年、その声を子どもたちから何度聞いただろう。そのたびに、私の心も少しずつ晴れていった。
振り返れば、私の中には、私を育ててくれた両親の気質がしっかりと息づいていた。 父から受け継いだ、「面白そうだからやってみよう」という軽やかさや柔軟性。小さな幸せを見つける力。 母から受け継いだ、大胆に人生を動かす力。
そのどちらも、私の中にちゃんとあった。
母は私をレールに乗せてくれた人だった。でも同時に、レールの先にあった成功を手放し、レールを降りる時も、一番静かに背中を押してくれた人でもあった。
そして私はようやく、レールから降りた「ちゃんとする」の外側で、自分の人生を歩き始めた。
「Be yourself」。
その言葉は、ずっと知っていた。でも、本当の意味で自分のものになったのは、異国の地カナダで迎えた、この瞬間だった。
第七部
学校最終日、お別れパーティーが終わった翌朝。 早朝に一人で片付けを始め、気がつくと泣いていた。
この1年、現地のお母さんたちは、いつも温かい目で見てくれた。批判ではなく、ただ温かく。先生たちも同じだった。完璧でなくても全肯定してもらえる環境に、私は生まれて初めて出会ったのかもしれない。
この場所との別れを静かに受け入れ始めた、その時だった。聞き慣れた音が鳴った。地震速報だった。日本に一人残っている夫のことを思う。 1ヶ月後、家族は合流し、日本の新居での暮らしが始まる。平坦な道なんてないことくらい、もうよく知っている。でももう、以前のような怖さはなかった。
カナダを通して、私はレールの上に立たない人生に、やっと誇りを持てるようになった。 今までも好奇心旺盛に人生を楽しんできたけれど、それはどこか外側の正解に合わせたワクワクだった。今は違う。自分の生きたい人生を、自分のやりたいことで歩んでいく確信が、初めて内側から湧いている。
訪れた事のなかった国で「親子留学」というちょっと風変わりな経験を多民族国家で経て、コンフォートゾーン(快適な場所)の外へ出た人生を、心から肯定できるようになった。家族4人、この1年で自分を知り、自分を好きになり、強くなった。
新たな夢もできた。私たちなら、きっと乗り越えられる。
「Be You」。
それは、ずっと子どもたちへの言葉だと思っていた。でも本当は、私自身が、一番自分に伝えたかった言葉だったのかもしれない。
私はずっと、自分は幸せだと思って生きてきた。
木漏れ日に立ち止まること。
美味しいものを味わうこと。
好きなことに夢中になること。
大切な人たちと笑い合うこと。
そんな小さな幸せを見つけることは、私の確かな強みだった。
そして、この一年で、もう一つの幸せを知った。子どもたちへ向けて、心の中で何度も抱き続けてきた願いがある。
「幸せになってね。」
その願いは、これからも変わらない。ただ、その言葉の意味の解釈だけは、昔とは少し違う。
私にとって幸せとは、「どんな自分でいても大丈夫だと、自分で自分を受け入れられること。 そして、そんな自分で迎える明日を、楽しみに思えること。」
四十年かかって、ようやく私は、その意味を知った。
気がつけば、私は自分の生き方を好きになっていた。
Be You.
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