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優生思想の恐ろしさ

odysee In4mation 2023年05月19日より。

ハイライト:

  • 優生学は、大量虐殺や隔離、社会的な人種差別を正当化する危険な科学的理念の一つ

  • フランシス・ゴルトンが初めて「優生学」という言葉を使った

  • 優生学は人種差別的なイデオロギーを実現するための手段になった

  • 多くの優生学者が地下に潜り、新しい学問分野が優生学の影響を受けるようになった

字幕動画と英和対照表はこちら:

《テキスト》イン4メーション - 私たちの世界で何が起こっているか、最新情報を提供します

科学的な理論は、健康的な食事や、ある手術が役に立つか立たないか、あるいは地球が平らかどうかなど、社会に影響を与えることがあります。

理論が正しいかどうかは関係なく、形だけのアイデアでも他人の行動に影響を与えることができるのです。

そのような理論の一つとして、おそらく20世紀に最も大きな影響を与え、世界最悪の残虐行為の不快極まりない言い訳として使われる理論があります。

科学的な理論に従って、大量虐殺や隔離、社会的な人種差別の法律が生まれました。

それらの法律は、現代の基準ではとても容認できない、個人あるいは政府による残虐の都合のよい言い訳、口の中に嫌な味を残すような便利な言い訳に利用されました。

現代においても、この主題は現代社会に浸透しています。

その殆どが科学的な人種差別や専制政治を悪用するための門戸開放として利用されて来ました。

今日は、特に偏見を証明するために使われたり、冷酷さの言い訳に使われたりする、最も危険な科学的理念の一つを紹介します。

その理論とは優生学です。19世紀から20世紀にかけて長い間影響を及ぼしました。この主題は倫理面から見た尺度では9、最高に近い危険度と位置づけます。

科学の暗黒面へようこそ。

《テキスト》科学の暗黒面

私たちの物語は、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』という、尊敬を集めた科学者によるとても有名な本から始まります。

1859年に発表されたこの著作は、進化生物学の基礎となったものとして広く知られています。この新しい研究分野は、その後数十年にわたり、様々な分野に分かれていくことになります。

進化論が広く受け入れられるようになると、多くの科学者がダーウィンの考えを発展させようと考えました。その一人が、ダーウィンの従兄弟であるフランシス・ゴルトンです。

ゴルトンは、従兄弟の研究に魅せられ、変異と人間の発達を研究することを目指し、精神的な能力から身長まで、顔貌から指紋パターンまで、人間の様々な変化に注目するようになりました。ダーウィンの進化論と遺伝の概念を組み合わせて、新しい考えを展開したのです。

遺伝の概念は、1865年にグレゴール・メンデルが遺伝の基本法則を発見したときに生まれました。

メンデルのエンドウ豆を使った実験では、「それぞれの身体的特徴は2つのユニットの組み合わせの結果であり、ある世代から別の世代へと受け継がれる」ということが示されました。

ゴルトンは、人間の集団に明らかな変異があることを発見し、欠陥や特性が親から子へ遺伝するのかどうかを確かめようとしました。この研究では、個体内のあらゆる特性を相関させるために、膨大な量のデータが必要です。これが、1869年に出版された『遺伝的天才とその法則及びその帰結』へとつながっていくのです。

ゴルトンは、この本の研究中に、ある職業で成功したとされる人物を調べました。彼は次のように推測しています。成功者の息子たちは、高名な人物と密接な関係がない場合よりも、自らもそのような高みに到達する可能性が高いと。つまり、成功者は成功した子供を持つということです。

このことからゴルトンは、人間の知能が遺伝的に伝達される証拠であると理論化しました。この本の研究中に、一親等から二親等、二親等から三親等となるにつれて、高名な親族の数が減少していくことを示しました。

この本は、従兄弟のダーウィンをはじめとする同業者から賞賛を浴びましたが、科学界以外へのアピールには限界がありました。

彼は、人間の最も望ましい形質は遺伝によって伝わると考え、そのため、選択的な繁殖によって種族の改良を図ることができると考えました。そこで、成績優秀な子どもは育て、良い教育を受けさせ、十分な年齢になったら別の成績優秀なパートナーと結婚するよう、奨励するのです。

また、他国からの移民や難民のうち、より優れた種類の者を招き、歓迎し、その子孫を帰化させることも述べています。また成績の悪い人については、「好ましくない人々は、独身主義の修道院や姉妹会に歓迎と避難を見出すことができる」と述べています。

これが、後の優生学研究者のテーマとなるのです。

次に、ゴルトンは、「自然が育ちに勝る」という自分の説が正しいかどうかを調べることにしました。そのために、生まれつき離れて育った双子を研究することを構想しました。すなわち、社会的経済的背景の異なる家庭で育てられた双子を研究するということです。そうすると、兄弟それぞれの知能はどうなるのか? 彼はアンケートを使ってデータを集め、1875年に発表した論文『双子の歴史』で、養育より自然という仮説を検証しました。

次の著書で、優生学という実際の用語が生まれますが、これは『遺伝的天才』で見られたように、彼が初めて使った言葉です。ゴルトンはすでにその主要な考え方を発展させていましたが、まだそれを名付けるには至っていなかったのです。

彼の著書『人間の能力とその発達に関する探究』は、最初に優生学という言葉を使うことになり、その冒頭で次のように述べました。

「本書の意図は、人種の育成、あるいは多かれ少なかれそう呼ぶべきものに関連する、様々な話題に触れることである。優生学的な問題、そして私自身のいくつかの個別の調査の結果を発表する。」

彼は、各人の家柄の良し悪しを点数化し、身分の高い家同士の早婚には金銭的なインセンティブを与える社会とすることを考案しました。著書の中でゴルトンは、イギリスの上流社会では高名な人々の間で晩婚化が進み、その結果、子供の体格が平均的に小さくなる傾向があることを指摘しています。

ゴルトンは、特定の選択方法を提案したわけではなく、金銭的なインセンティブによって、社会が自然に望ましいカップルの繁殖を支持するようになることを期待したのです。

彼は、1900年代の晩年の著書『わが人生の思い出』で、この言葉の定義を具体化することになります。著書で彼は、「優生学の公式な定義とは、社会的管理の下で、将来の世代の人種的資質を肉体的にも精神的にも改善または損なう可能性のある機関の研究である」と述べています。

この分野ではまだ、金銭的な奨励によって、動物と同じように選択的な繁殖を行うことに焦点が当てられていました。

このような考えは、ゴルトンの母国イギリスでは特に流行しませんでしたが、世界の他の地域、特に20世紀初期のアメリカで流行しました。

しかし、大西洋の向こうを見る前に、ゴルトンの考えを整理しておきましょう。それは、正の優生学と負の優生学に分かれます。前者は、優秀な人材が子供を持つことを奨励することで、優れた特性を促進することです。後者は、精神疾患やハンディキャップなど、好ましくない特性を持つ人に子供を作らせないようにすることなのです。

この第二の理論は、多様な人権問題、ひいては大量殺戮の正当性を主張するものでしょう。

さて、20世紀初頭のこの分野の伝播を見てみましょう。先ほどのメンデルの法則の話に戻ります。

1800年代後半には、この理論は殆ど曖昧なまま失われていました。しかし、1890年代に、植物学者のユーゴー・ド・フリースとカール・コレンズが、互いに意識することなく同時に「遺伝性」を再発見し、約40年前のメンデルの理論を独立して検証することになりました。

1900年のメンデル論文の再発見につながるのですが、イギリスの生物学者ウィリアム・ベイトソンは、ダーウィンとゴルトンの著作に触発され、遺伝の研究をさらに進めていました。そして1894年、メンデルの研究を知らないまま、『Materials for the Study of Variation』(変異研究のための資料)という本を発表しました。

メンデルの業績が再発見されると、ベイトソンはメンデル遺伝の概念を普及させ始め、1900年初頭には遺伝学という言葉さえ作り出しました。

さて、話は少しそれましたが、このことは優生学とそれがアメリカに輸入されたことに関係しています。

チャールズ・ダベンポートは、19世紀末に活躍した著名な生物学者です。彼は研究を通じてゴルトンに尊敬の念を抱き、イギリスのエリートにもっと繁殖を促すという彼の理論に理解を示しました。メンデル遺伝の再発見と普及の後、ダベンポートはこの新しい発見を実践に移すことになります。

優生学を取り入れたのは、ダベンポートだけではありません。スタンフォード大学のデービッド・スター・ジョーダン学長は、1902年の人種論的書簡で、人種と血縁という概念を提唱しました。その書簡「民族の血」の中で彼は、才能や貧困といった人間の資質や条件は、血によって受け継がれると断言しています。

1904年、ダベンポートはコールドスプリングハーバー研究所の所長に就任しました。そこから彼は、人間の精神や性格が遺伝する特性について一連の調査を開始し、スプリングハーバーに勤務して6年後、優生学記録局(Eugenics Record Office)を立ち上げました。

これは、アメリカの人口に関する生物学的社会的情報を収集し、優生学や人間の遺伝学研究の中心的役割を担っていました。

EROには暗黒面があり、家族の血統を記録したり、全米の精神病院や孤児院など様々な施設の個人を分析するために、優生学フィールドワーカーを養成して派遣したりしていました。その本質は、子供を持つことを許可すべきとEROが判断した人物と、逆に子供を持つことを許可すべきでないと判断した人物をリストアップすることでした。

この研究所には、ハリー・H・ラフリンという人物が所長として在籍していました。彼については、少し後でまた触れることにします。

アメリカで優生思想の法制化が始まり、1907年にインディアナ州が初めて不妊手術を合法化し、1909年にはカリフォルニア州、ワシントン州が続きました。

ダベンポートは、1911年に代表的な著書『優生学に関連する遺伝』を発表しています。そしてこの著作は、20世紀初頭の優生学運動に多大な影響を与えることになるのです。

この本は、人間の特徴の多くは遺伝的に受け継がれるものであり、それゆえ、望ましい特徴を持つ人間を選択的に繁殖させ、人類を改良させることが可能であると提起しました。

あまりの反響の大きさゆえに、医学部の教科書にも採用されるほどになりました。

アメリカの優生学運動の初期には、多くの資金援助者がいくつかの財団に出資して、ダベンポートを支援しようとしました。

その一つが、1914年にジョン・ハーヴェイ・ケロッグが創設した「人種改良財団」です。この名前に聞き覚えはありませんか? スーパーマーケットのシリアル棚の通路を通ったことがある人なら、私の言っていることがわかるでしょう。そう、同一人物なのです。この財団は、ケロッグが人種の退化を恐れたことから生まれたものです。

ダベンポートは、カーネギー協会、ロックフェラー財団、ハリマン鉄道の財産からも資金を得ています。1911年、カーネギー協会は、アメリカ育種家協会の優生学的選抜委員会の予備報告を支援しました。その目的は、人類に存在する欠陥のある生殖細胞を断つための実用的で最良の方法を研究し、答申することでした。報告書には18の項目があり、8番目に安楽死が挙げられています。金と一緒に政治的な権力も手に入り、アメリカの上流社会には多くの賛同者もいました。

同じ頃、アメリカの著名な心理学者ヘンリー・ハーバート・ゴダードも、優生学に基づく理論に取り組んでいました。彼はIQテストの最初の提案者の一人であり、知能テストを初めて英語に翻訳した人物でもあります。

ゴダードは集団の中の知能に魅了され、アメリカの殆どの教育機関にIQテストを取り入れるよう働きかけました。彼はそのキャリアを通じて、臨床心理学という新しいテーマの発展に貢献し、様々な対処を行いました。例えば1911年、盲人、聾唖者、知的障害者に公立学校での特別教育を義務づける米国初の法律の制定しています。また、正常でない知能は被告人の刑事責任を制限すべきであると主張しました。

しかし、この動画に登場する多くの人物と同様、彼の考えにも暗黒面がありました。1910年、ゴダードはIQに連動したラベル付けを提唱し、IQ51~70を「魯鈍」、IQ26~50を「痴愚」、IQ0~25を「白痴」と呼び、障害の程度を段階的に分類しました。

これらのラベルは、その後何年にもわたって精神医療に残り、英語の辞書の一部にもなりました。もし、あなたが誰かを白痴と呼んだことがあるとすれば、それはここから来ているのです。

さらに彼は、自分の言う「魯鈍」以下に該当する人は、子供を産めないように社会から隔離することを提唱しました。知能テストの一環として、彼はエリス島に試験を設け、彼の言葉を借りれば「心の弱い移民」を探し出したのです。興味深いことにこの試験は、三等旅客にしか行われませんでした。

ロンドンに話を戻すと、1912年に「常設国際優生学委員会」という名の、新しい優生学組織が設立されました。これは、第1回国際優生学会議の流れを汲むものです。

興味深いことに、第1回大会は、チャールズ・ダーウィンの息子であるレナード・ダーウィンがロンドン大学で主宰したもので、20世紀初頭、科学者、政治家、社会的指導者が、人間の遺伝を改善するプログラムの適用を計画し議論する世界的な場となりました。

1921年、委員会は国際優生学会議の第2回会合をニューヨークのアメリカ自然史博物館で開催することを取り決めました。今回は、アレクサンダー・グラハム・ベルが名誉会長に就任しています。優生学に名を連ねる有名人をさらに増やし、人間の遺伝、人種の違い、生殖の規制、優生学などの問題に焦点を当てた会議になりました。

お分かりのように、優生学はアメリカでより肥沃な土地を見つけたのです。そこには、「アングロサクソン以外の人々は遺伝的に劣っており、遺伝群が骨抜きにされてしまう」という恐れがありました。もちろんこれは事実ではありませんが、優生学は人種差別的なイデオロギーを実現するための手段になったのです。

優生学記録局の局長であったハリー・ラフリンは、アメリカ全土で優生学に基づく様々な法律を推進する力になっていました。1920年代初頭、ラフリンは強制不妊手術法を持つ州をさらに増やすこと、また、法制化された州では不妊手術の件数を増加させることを考えました。

ラフリンの考えでは、現行法の不備により各州の不妊手術が、彼が望むほど積極的には行うことができない状態でした。この障害を改善するために、ラフリンは、事態を好転させるべく「優生学的不妊手術法のモデル法」を起草し、1922年の『アメリカにおける優生学的不妊手術』で発表しました。

ここではその全文を読み上げることはしませんが、ラフリンは強制不妊手術の対象となるべき条件として、次のようなものを挙げています。――精神薄弱者、精神異常者、犯罪者、てんかん患者、アルコール中毒者、盲人、聾唖者、奇形者、困窮者。

1960年代までに、ラフリンのモデルによって、アメリカでは優生保護法の下で64,000人が強制的に不妊手術を施されました。

この法律は、「遺伝性疾患子孫防止法」(断種法)の基礎として使われることになります。1933年にナチスが制定した法律で、最終的に40万人が本人の意思に反して不妊手術が行われたのです。

しかし、ラフリンの悪用は不妊手術の法律だけにとどまりませんでした。ラフリンは、1924年に制定されたジョンソン・リード移民法を支持するための、アメリカ議会での大規模な統計的証言にも利用されました。この法律は、アジアからアメリカへ移民することを制限し、東半球からの移民数には割当を設けたものです。

アメリカ国内においても、1924年にバージニア州で制定された「人種統合法」のように、優生学に影響された結婚法が制定され、異なる人種間の結婚が禁じられるようになりました。

1921年の優生学会議の後、1925年「常設国際優生学委員会」は「国際優生学組織連盟」に改称され、後にナチスのオイゲン・フィッシャーが加わり、ここから話は科学的人種差別へと転じていくのです。

1922年、ダベンポートは『ジャマイカの人種交配』で異人種間の危険性を証明しようとしました。この本は、その結論が提供されたデータをはるかに超え、場合によっては矛盾するものであったため、広く嘲笑を浴びました。

アメリカにおける優生学運動は1930年代にピークを迎え、正の優生学と負の優生学の、両方の政策が実施されるようになりました。

優生学的に健全な家庭を表彰するコンテストや、不妊手術を実施する州が増え、優生学的な広告が一般的になっていきます。

ラフリン・モデルに基づく法律の下では、アフリカ系やネイティブ・アメリカン系の女性の多くがが、強制的に不妊手術をされました。恐ろしいことに、「白人以外は遺伝的に劣っている」とみなされました。「彼らは精神的肉体的に欠陥のある子供を産む可能性が高い」とされたのです。それは間違った人種差別的な考えによるものでした。一般に女性がこの法律の対象となり、優生学的不妊手術の約61%が女性に行われました。

そうして、アメリカの優生学運動の影響を受けた優生学に基づく差別の手法が、ヨーロッパに逆輸入されるようになり、ドイツでは新たな憎悪の政治イデオロギーが構築されました。

20世紀初頭のヨーロッパの他の地域と同様に、優生学は多くのドイツ人科学者によって正当な学問であるとみなされました。優生学プログラムは、アメリカの先導を非常に忠実に踏襲しています。

そして、1933年にナチスが政権を握ると、差別は度を越したものになっていきます。

ドイツの優生学は2種類の考え方に分かれていて、穏健派のヴィルヘルム・シャルマイヤーは、この分野での人種的要素を否定しました。

しかし、彼の研究は、1930年代にはアルフレッド・プロッツとその優生学に対するより人種差別的な見解によって、かき消されていました。

プロッツは残酷な人種衛生運動の提唱者であり、1895年に『人種衛生の基礎』を発表し、1933年、人口・人種政策の専門諮問委員会に召されました。

この委員会は、優生学的人種衛生学的な政策をどのように実施するのが最適か、ナチス党に助言することを任務としていました。これによって、ラフリンの強制不妊手術モデルと、その実施方法である「遺伝性死亡子孫の防止法」に戻ることになります。遺伝性疾患の疑いがあるケースは、遺伝保健裁判所の前に立たされるようになったのです。

ヒトラーは内々に、このプログラムを安楽死に向けて推進することに関心を示しましたが、平時で実施するのは踏みとどまりました。しかし、ドイツが再軍備を始め、戦争に照準を合わせるようになると、この政策が持ち込まれるようになったのです。

1939年、安楽死の裁判例として、生後5カ月のゲルハルト・クレッチマーが殺害された事件があります。盲目で身体的発達障害があるとされました。殺害を引き受けたのは、ヒトラーの専属医師の一人であるカール・ブラントです。

ゲルハルトの殺害から3週間後、 病や欠陥のある新生児を登録するための「遺伝と先天性疾病の科学的登録のための帝国委員会」が設立されました。

1939年10月、アドルフ・ヒトラーは、1939年9月1日に遡及して作成された「安楽死ノート」に署名しました。この覚書は、専属医師カール・ブラントとライヒスライター・ブーラーに安楽死プログラムの開始を許可したもので、戦後は「アクションT4」と呼ばれるようになります。

ドイツは、負の優生学を全く新しいレベルにまで引き上げてしまいました。

「ダーウィニズムは、有益な遺伝子を要求し有害な遺伝子を根絶することを正当化するものである」と考え、多くの医師が、自分が担当している患者を不治の病と判断して安楽死させることを許可されました。殺人を許容する条件のリストには以下のようなものがありましたが、これらに限定されるものではありませんでした。――統合失調症、てんかん、ハンチントン病、進行性梅毒、老年性認知症、麻痺、末期神経症状全般。

1939年から1945年のナチス政権崩壊までの間に、ドイツ全土、占領下のポーランド、オーストリア、ボヘミアとモラビアの保護領で、推定30万人が殺害されました。この数には幼児、子供、女性、男性が含まれています。

開業医が行う致死注射から、大勢の犠牲者を扱う毒ガスの最初の導入まで、様々な処刑方法が実験されました。1940年1月、ブランデンブルク安楽死センターが最初の事例です。

ナチスはアクションT4プログラムのガス使用と絶滅活動に感銘を受け、プログラムはホロコーストを目指して産業規模にまで拡大されました。

ヨーロッパでの戦争が連合軍の勝利で終わると、優生学に基づく人種的社会的差別の実態がアメリカやイギリスで公にされるようになります。

ニュルンベルク裁判や安楽死裁判で優生思想の恐ろしさが浮き彫りになり、この分野は廃れていきました。ナチス・ドイツの惨状を受け、医療倫理の方針が正式に定められ、1950年代には人種に関するユネスコ声明が発効されます。

1950年代をピークに強制不妊手術は1960年代まで続けられましたが、いくつかの優生学協会はその定義を現場から後退させました。

優生主義者たちは、ピルの発明後、少数民族や貧困層など自分たちが好ましくないと考える集団に対して、連邦政府が資金援助する避妊策をより推し進めました。

しかし、この分野はナチスとのつながりを拭い去ることができず、そのため多くの協会から会員が流出しました。1959年、イギリスの優生学会の臨時総会では、会員数の減少を食い止める方法が議論され、その中で「優生学的な目的を、より目立たない手段で追求する」という提案がなされました。アメリカの優生学協会で成功を収めたとされる、暗号優生学という方策が提案されたのです。

多くの優生学者が地下に潜り他の職業に就いたので、数々の新しい学問分野が優生学の影響を受けるようになりました。

1950年代、著名な優生学者であるポール・ポペノーが結婚相談所を設立しています。彼は、健康なカップルの健康的な結婚を促進するという優生学的関心から、このテーマを発展させたのです。

優生学に基づく政策の多くは公民権運動で覆され、ありがたいことに政府によって押し付けられた人種差別的、身障者差別的な虐待を根絶することができました。

しかし、時代が進むにつれて、いくつかの優生学的な考え方が可能になってきました。強制や虐待の代わりに、現代科学は特定の遺伝子を隔離することを可能にしたのです。

もちろんこれは遺伝子スクリーニングによるもので、議論の余地はあるものの、負の優生学の恐ろしさを回避することはできます。

優生学に裏打ちされた社会の推進者は、現代でも多く存在します。ロバート・クラーク・グラハムが1980年から99年にかけて運営した、天才精子バンクもその一つです。このバンクでは、成績優秀なドナーの精子で妊娠した子供が約230人おり、その中にはノーベル賞受賞者もいました。

しかし、何よりも優生学という分野は、20世紀において最悪の暗黒の結果をもたらしました。

この思想は、社会の分裂を生み、大量殺戮を正当化し、成功した社会の証であるはずの「思いやり」から多くの人を遠ざけることになりました。

ダーウィンがダウンハウスの敷地を長く散歩していた時、自分の仕事からインスピレーションを得た恐怖を、彼は想像することができたでしょうか。

とても暗く、悲しい、そして長い動画になってしまいましたが、まだ表面をなぞったに過ぎません。

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