1990年代のゲイ事情
色々書きたいことはあるのだけれど、書いては「これって客観的に見て面白くないだろうな」と思い下書きに保存。下書きばかりが増えてしまった。今は国内外で多くの問題が起きていて「何でこうなるんだろう?」と感じ、そのような問題に対する私見を種々書き連ねていったことがその要因だろう。
ということで今日は肩の力を少し抜いて1990年代のゲイ事情について書いてみようと思う。
偉そうにゲイ事情と言っても正直私自身はこの世界に疎かったのであくまで私の事情ということになる。(東京に住んでいてもその頃”2丁目”のことも知らなかった)
1990年代と今で一番違うのはやはり通信事情だ。例えば1990年前後で”携帯電話”というのは、大きな弁当箱位の大きさがあり、それでもかつて肩からベルトでかけていた様な最初の携帯電話を知っていた私は驚いたものだった。当たり前の話だけどその頃の電話はあくまで通話するもので電話を使って”お仲間”を探す手段などなかった。おまけに2丁目を知らないくらいだから”発展場”という言葉も知らなかった。
最初に仲間を見つける方法を知ったのはサウナだった。サウナといってもゲイサウナではなく一般のサウナで当時新宿のコマ劇場の近くにあった24時間営業のサウナでその休憩所の1室が深夜こちらの溜まり場になっていることに気づき、たまの週末会社の飲み会の帰りにそこに通っていてそこが唯一確実にゲイ仲間に巡り会える場所だった。その点で、SNSで確実にお仲間に会える今はほんとに恵まれていると思う。ただしいずれにしてもそのサウナはパートナーを見つけられるような場所ではなかった。1度だけ二十歳位の子に気に入られ自分のアパートに迎えいれて色々話をしたことがありそこで初めて2丁目のことやゲイ向けの雑誌のことを知った。考えてみれば当時そういうことを知る手段などなかったのだと思う。その彼は別れ際「また連絡するね」といってくれ、当然その時はまだ携帯など誰も持っていないので固定電話の番号を渡したのだが残念ながら連絡をくれることはなかった。その後転職した私は半年ほど研修のため初めて東京を離れ、全く孤立無縁の身となった私は大阪のサウナ(これも普通のサウナ)に時折通い、そこで知り合った人にゲイサウナを教えてもらいそこでゲイ向けの雑誌の存在を初めて知った。その後東京に戻り、初めて2丁目に雑誌を買うために行った。行ったのは昼間だったからあまり人はいなかったと思うけれど「ここが2丁目なんだ」と思ったのを覚えている。
当時すでにPCは普及し始めていたけれどSNSのようなものはなく、Nifty Serveというのが多分似たようなものだった(あまり覚えていない)。そこで仲間に出会うための数少ない手段の一つだったのはプリミティブな”手紙”だった。私が買った雑誌は何種類もある中で比較的真面目?だった”アドン”というものだった。その後に通信欄があり、そこに掲載されていた30前後の仲間募集のグループに手紙を書き応募した。その時メンバーを募集した2人が1人1人の面接をしてその時の私の面接相手が実は今の私のパートナーとなった。
その時のグループは何回か応募を重ね、おそらく延べで言えば100人近くがいたかもしれない。今ではパートナー以外の誰とも会うことはなくなったけれど、その内の初代の仲の良かったメンバーの1人が2年位前に亡くなったと聞いた。彼は長年付き合っていたパートナーと死別するなど結構大変な人生だった。死因はわからないが、正直私もずっと1人で生きてきたら今生きているかわからないと思うことがある。
10年以上前アムステルダムに行った時、多くのゲイのカップルが普通に時に手を繋いで歩いている光景を目にした。そして今や日本でも多くの人の理解も進んでいる。考えてみれば、30年前に比べればゲイも生きやすくなったと思う。(勿論それでもまだまだ困難があることも理解している)ただやたらと声のでかい一部の人々が明治以降に作り上げられた価値観を押し付け一部の人の幸福になる権利を奪っている。そしてその類の人間はほぼ例外なく自分に甘い。同性婚に関する高裁の判決も出揃い、私たちの勝利は目前に迫っているのだと思う。あと5年、10年すればLGBTQの人間が普通に生きられる時代が来るんだと信じてこの文を締めたい。
