「見ざる、言わざる、ミュートする」 〜感情を去勢された現代人のバグ〜
かのようなAERAの記事を読んだ。
AERA DIGITAL 2026/05/19/ 11:00 配信
記事の論旨をかいつまんで言うと、およそ以下の3点に集約される。
①過半数が「あえて感情を出さない」時代
職場だけでなく家庭やポジティブな場面でもその傾向が広がっている。
②背景にあるのは「防衛」と「効率」
サービス業の増加、多様性への配慮、間関係の衝突を避ける「タイパ・コスパ思考」が主な要因。
③社会は戻らず、新しい感情の扱い方へ向かう
この流れは不可逆であり、「自分も他者も傷つけない新しい感情の表現方法」を社会が模索し始めている。
――これを読んで、まぁメディアが喜ぶ小綺麗なトレンド分析だし、話半分に聞いておこう……と思ったが、それではこのコラムがオシマイになるので、真面目に考えてみようと思う。
とりあえずこの現象の本質は、そんな地表の浅い話ではないと思う。
私は、人々が無意識に行ってきたコミュニケーションの「コスト選別」の境界線を失い、かつ歴史的な慣習の呪縛と現代の閉塞感によって、内側から徹底的に摩耗していると思った。本来人間は、状況に応じて感情と論理を使い分けてきた。
●低コストな会話ツールとしての「食の話題」
う~ん、一番わかりやすい例を挙げる。
日本人は、食にこだわりがあるとよく評されるが、私は、殆どの人は別にこだわりでもなんでもないと思っている。買いかぶりすぎ。
私は、食の話題は、低コストな会話ツールだと思っています。
日常の雑談や食の場において、「美味しい」「楽しい」といった感情のポーズを共有することは、日本人がお互いの安全を確認し、低コストに和を保つための必須の潤滑油であると。
昔から、政治・宗教・野球を語れば即座に軋轢が起きる社会と言われている日本、食の話がこれほど好まれるのは、それが誰の思想も侵さない「安全な共通言語」だからと思う。
テレビがグルメばかりなのも、誰もが人を誘う際『飯でも行こう』としか言えないのも、みんな食を愛しているからじゃない。
それ以外を語ると、誰かを怒らせたり、自分が傷ついたりするからだ。
●「抑えている」のではない、「出せない」だけ
私は、この低コストな場とビジネスや契約といった高コストな場の境界線が曖昧になってきていると思う。
コンビニのレジでも、友人関係でも、果ては家庭というプライベートな空間にまでビジネスライクな役割分担や論理のロジックが雪崩れ込んできた。
結果として、人々は全方位に対して一律に、最もリスクの低い「高コストモード(=感情を排した論理又はミュート)」で応じるしかなくなっている。
だが、この記事のデータを見て私たちが本当にえぐるべきは、「あえて抑えている」という言葉の裏にある、もっと根深い機能不全と思う。
それは、現代人が抑えているのではなく、幼少期からの環境によって、もはや感情を出そうにも出せなくなっている、という現実である。
●日光の三猿
思い返せば、私たちが子供の頃、日光東照宮に連れて行かれて真っ先に説明されるのは「三猿」の教えだった。
論語に由来する「見ざる、言わざる、聞かざる」は、本来なら「子供のうちは悪いものを見聞きせず、素直に育ちなさい」という幼児教育の美徳だったはずだ。
あの日光の三猿、大人になった今でも私たちを縛り続けていると思う。
これはよく外国人が「日本人は奥ゆかしい」などと評する現象の、文字通りの正体である。
断言するが、それは美徳としての奥ゆかしさなどではないと思う。
本当のところはこうだ。 「人前で感情を露わにする=自制心がない=親の教育が悪い」
つまり、人前で感情を出すことは「親に恥をかかせること」と同義である。公衆の面前において、家族という最小単位のなかでさえ「他人の目を気にして取り繕うこと」を最優先させられる環境だったなら、子供が最初から感情の適切な出し方なんて学べるはずがないでしょうに。
そうして感情の蛇口を閉められて育った私たちの背後に、現代特有の既視感と報われなさが追い打ちをかける。
ネットを開けばあらゆる情報が溢れ、何を見ても「どっかで見たようなもの」ばかりでつまらないことこの上無し。
現実では、いくら働いても税金で毟り取られ、純粋な喜びや幸福を感じるための脳の原資(エネルギー)そのものが枯渇している。
出さないのではない。出すだけの熱量が、もう残ってねーんだわ。
他人からどう思われるかに異常なまでに敏感な国民性は、今に始まったことではない。
かつては井戸端会議や職場の給湯室で「ここだけの話ね」と処理されていたドロドロとした本音は、現代ではSNSの「裏アカ」へと場所を変えただけだ。
昔は良かった? 今は殺伐としている? とんでもない、根本的に昔も今も変わんないっすよ。
だからこそ、過去を美化して「今の世の中は非常識だ」と嘆いてみせる懐古的な識者を、私は一切信用しないことにしている。
表の本アカでは「感情をコントロールするのが大人の当たり前だろ」と能面で冷笑し合いながら、裏では「生きづらい…」と匿名で吐き出す。
そんな歪な二重構造が、この国の日常を覆っているんだ。
感情のミュートは、人間関係の洗練なんかじゃない。 四六時中ビジネスモードの能面を強制され、内側から摩耗し尽くした現代人の、限界の姿だと思う。
●秩父の三猿
ところで、皆さまは「秩父の三猿」を知っているだろうか。
日光東照宮が徳川家光によるものなら、秩父神社は徳川家康によるものだ。
秩父の三猿の教えは日光と真逆である。「よく見て、よく聞いて、よく話そう」――通称、お元気三猿。
…この「お元気三猿」という日光に配慮した言い方、コレだコレだよ、日本のコレ。こういうの本当に嫌になる。
胸張って「秩父神社の三猿」と言えばいいのにと思わない?どうよ?
ま、まあ…ここで少し、歴史の物語に思いを馳せてみたい。
家光は生まれながらの将軍だ。彼が整えた日光の三猿とは、実は戦を知らない世代が組織を縛るための、一種の「統治のための生存戦略(処世術)」ではなかったか。
対して家康は、裏切りと混沌の戦国の世を泥臭く生き抜いた武将だ。
いつ命を落とすか分からないリアルな戦場を生き抜くためには、システムに閉じこもるのではなく、相手を「よく見て、よく聞いて、よく話す」という、能動的で命懸けのコミュニケーションが不可欠だった。
現代の私たちは、過剰にシステム化された、息苦しい平穏を生きている。それはいわば「家光の治世の極致」だ。
しかしそのシステムを一歩はみ出せば、いつ誰に嫉妬の刃で刺されるか分からない「一億総相互監視の戦国時代」が広がっている。
この歪な二重構造の中で、私たちが身を守るために選んでいるのは、家康の野生ではなく、家光の去勢された「処世術」だ。
だからこそ、内側から息が詰まり、システムに押し潰されそうになっている。
●私なりの解決方法
もし、このシステムに付き合い続けることに疲れたのなら、選択肢は一つしかない。
人間関係の分母を減らし、他人に合わせるための「浅い付き合い」を断捨離することだと思う。
どうしても浅い付き合いしなくてはならない時は「浅い付き合い」でいいと思う。
浅い付き合い、どこが悪いの?
裏で生きづらいと嘆きながら能面を被り続ける必要などない。煩わしい有象無象の視線をシャットアウトし、孤独を贅沢な「おひとり様」のエンタメへと昇華させる。
自分のエネルギーを無駄遣いするのをやめ、本当に「よく見て、よく話すべき」大切な身内(味方)の声を聴くために、まずは静かに牙を研ぐ。
それこそが、張り詰めた現代という戦国を生き抜くための、最も賢く、最も血の通った、令和の家康的生存戦略なのかもしれないと私は信じたい。
え? 私たちの解決方法教えてくれ?
そんなの、私は分からない。
私も人付き合いに疲れて動けなくなった人間だ…考え抜いて出したのがこの結論。
成功する生存戦略なんて、書店に並ぶ自己啓発書の中には無い。あなたが泥をかぶって生き抜いたその先にしか落ちていない。
