【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第42話: 鶏と南蛮野菜の彩りそうめんと日本酒
内容紹介
今日の一皿は、色鮮やかな酸味と旨みに夏の箸が動き出す「鶏と南蛮野菜の彩りそうめん」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、日本酒と心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
海老原澪がその店に辿り着いたのは、ロケ帰りの午後7時を過ぎていた。
機材車の助手席でうたた寝していた彼女は、ふと目を覚まし、窓の外に流れるネオンの粒に目を留めた。映像では掴みきれない、空気の揺らぎや、誰かの残した温度。そんなものを追い続けてきたが、手応えは曖昧だった。
今日もまた取材先の農家の話を一通り撮り終え、編集プランを頭の中で組み立てながら街を歩いていた。ふと足が止まったのは、初めて見たはずなのに昔から知っているかのような、白い無地ののれんの前だった。淡い光が灯っている。
どことなく、記憶の底で絡まっていた香りがほぐれるような感覚があった。澪は力の抜け切った身体にもう一度空気を送って、そののれんをくぐった。
店内は静かで、今日の喧騒が嘘のようだった。カウンターの向こうにいた真城一献が、彼女に軽く頷くだけで言葉を交わすことはない。にもかかわらず、その仕草には妙な安心感があった。
木の椅子に腰を下ろすと、身体から緊張がゆっくりと抜けていった。カウンターに置かれた水が、ほのかに涼やかに揺れている。
ふと、この数ヶ月のことが脳裏を過る。
自分がディレクターを務める地方テレビ局の番組で、地域密着型のブライダル特集を企画した。ある農家が、畑で育てたハーブをテーマにした結婚式を挙げたのだ。新郎新婦はカメラが入ったことで余計に緊張していたが、終始和やかな空気が流れていた。
その空気感を番組に落とし込もうとしたとき、澪はひとつの壁にぶつかった。カメラには映らない香りを、どうやって視聴者に伝えるか。
そのとき彼女が手にしたのは、式場で撮られた一枚の写真だった。テーブルに置かれた小さなハーブボトルと、その横で笑う新婦。その写真に添えられたクレジットには、「丹羽瑠花」の名があった。
その名前を、どこかで聞いたことがあるような気がした。そして今、香りと色と、そして名前の記憶が、すべて一本の糸で結ばれていく気がした。
「鶏と南蛮野菜の彩りそうめんです」
カウンターの奥から、器が静かに運ばれてきた。白と藍が交錯する皿に、細いそうめんが円を描く。その上には、火を通して艶やかになった茄子とパプリカ、皮目がこんがりと焼かれた鶏肉の切り身。中央には鮮やかなトマトと、バジルの葉がそっと添えられていた。
一口すすると、冷たい出汁の中に、鶏の旨みが溶け出ている。そして何よりも、あの結婚式のブーケに似た香りが、ふわりと鼻をくすぐる。思わず顔がほころびるのが自分でもわかった。口元に手を当てて笑ったその瞬間、真城がそっとグラスを置いた。
「新政No.6、R-typeです」
澪が視線を向けると、薄い茶色のような、あるいは黄色のようなその瓶に、大きく6と書かれたラベルが見えた。グラスの中には、微かに甘い果実めいた香りが立ちのぼる。少し迷ってから口に含む。
─No.6。
清らかな口当たりと、キレのある酸がすっと伸びていく。輪郭のはっきりしたその味は、野菜が吸った酢と共闘して、野菜の甘みと鶏の香ばしさを引っ張り上げてくる。まるで、網が料理を拾い上げているようだった。
もう一口、そうめんを啜る。出汁の冷たさと酒の余韻が交錯し、舌の上に小さな波紋のような幸せが広がっていく。
かつて、ある漁村の取材で出会った老漁師のことを思い出した。言葉少ななその人は、漁の話ではなく、海の音の消え方について語った。「何も聞こえなくなる瞬間が、いちばん海が近いんだよ」と。その話も番組に使うことはできなかった。だが、その沈黙の中に確かな真実があるように思えた。
あの時も今も、自分はカメラで切り取れないものばかりを追いかけている。香り、温度、沈黙。すべて画面の外にあるものたち。
再びグラスに口をつける。No.6の軽やかな酸が、澪の思考をすっと澄ませていく。すべてを捉える必要なんて、ないのかもしれない。むしろ捉えきれないものが、その映像に奥行きを与えているのかもしれない。
「映らないものが、一番大事だったりするんですよね」
誰にともなく呟いた澪に、真城は小さく頷くだけだった。それだけで十分だった。言葉の代わりに、微かに皿が重なる音が返ってきた。
長く黙っていたはずなのに、なぜか心がやわらいでいた。急いで編集しなければならない映像が、頭の片隅でそっと輪郭を変えていく。たとえば、光の滲みをそのまま残してみる。風に揺れる布の音を消さずに使ってみる。いつもならカットしていた余白を、今回は残してみよう。
帰り際、澪は一枚の名刺を取り出して見つめた。そこには、瑠花の名前と「Bridal & Life Photographer」の肩書きが印刷されている。
次の特集で、彼女を追ってみようか。そう思ったのは、ただの衝動ではなかった。言葉にしないものを、映す方法を探す旅は、まだ続いていた。
澪は再びのれんをくぐった。二回目は、まだ見ぬ画面の向こう側への想いを纏わせて。
真城一献は、澪の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第43話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

茄子、パプリカを素揚げして、酢に対して半量の醤油、砂糖、みりんとおろし生姜を少し加えて漬けておく。
鶏もも肉の皮に塩をして、フライパンで皮面に焼き色をつける。
鶏もも肉をひっくり返して、皮面が浸らない程度に水を加え、塩を小さじ1加えて蓋をし、蒸し焼きにする。
鶏もも肉を蒸し焼きして出来た汁を冷蔵庫で冷やす。
そうめんを茹でて氷水で冷やす。
トマト、バジルとともに盛り付ける。
材料紹介
そうめん : 1,000円ポッキリ。夏の定番。
新政No.6 R-type 特別純米生原酒 : 高価だけど。自分へのご褒美にも、贈り物にも。
