【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第34話: なめこのパスタと白ワイン
内容紹介
今日の一皿は、芳醇な香り漂う「なめこのパスタ」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、白ワインと心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
細い裏路地に、雨の名残がまだ残っていた。
石畳の継ぎ目にわずかな水がたまり、行燈の光をゆがませている。人通りの途絶えた通りには、どこかしら甘く澄んだ匂いが漂っていた。湿った土と、古い木材のような香り。緒形朱音は小さな吐息とともに、歩みを止めた。
目の前に、白いのれんがかかっていた。
文字のない白布が、風もないのにふわりと揺れる。すぐ脇には、控えめな行燈の灯り。柔らかく、そこだけが浮かんでいるようだった。
思わず、手が伸びた。
布の感触は思ったよりもしっかりしていて、指先にぬくもりが残った。
初めて入る店。看板もなく、名前すらない。でも、気配だけが、なにかを呼んでいた。
のれんをくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
小さな店内には、六席ほどのカウンター。奥には厨房、その向こうに立つのは、紺の作務衣に白の前掛けを結んだ、真城一献。
朱音が腰を下ろすと、真城は静かにうなずいただけだった。
それが、すべての始まりだった。
厨房から、まな板の上でにんにくが刻まれる音が聞こえる。包丁の刃が、リズムを持って素材を切っていく。オリーブオイルが注がれ、火が入り、にんにくにまとわりついた油の表面がかすかに揺れる音がする。その時、嗅ぎ慣れない、とても濃厚な別の匂いが漂ってきた。
そのすべてが、舞台の幕開けのように感じられた。
朱音はバッグから小さな手帳を取り出す。ワインと食をテーマにした展示の構想を練っている。タイトル候補が並ぶページを開く。「香りと記憶」「都市の食卓」「見えない時間」。─どれも核心を突けずにいた。
「なめこのパスタです」
知らぬ間に手帳に夢中になっていると、カウンター皿が置かれた。深い青の器に、艶やかに巻かれたパスタ。細い麺の合間に、黄土色のなめこが絡み、にんにくとともに香りの湯気が立ち上る。あの匂いは、なめこだったのか。
ひとくち、口に運ぶ。
強烈な旨みを含んだぬめりが舌の上をゆるやかに滑り、にんにくの香ばしさが余韻を残して抜けていく。
麺の芯にはごくわずかな弾力があり、オイルの熱を包み込む。そこにあるのは、朱音の知っている味ではなかった。
ふいに、ひとつの言葉が蘇る。
─音楽に似ているんです。
数年前、朱音が「都市の食卓」という展示を準備していた頃のことだった。都市部で小さな家庭菜園を営む人々を取材し、日々の記憶と食の関係を探っていた。
その中に、岩田航という名の教員がいた。小学校の裏手に、小さなトマトの栽培容器を並べていた。子どもたちに日々の変化を見せながら、育てているという。
「畑の何が好きなんですか?」
航は言い淀みながら答えた。
「─土の香り、ですかね。香りに音がある気がするんです。弦楽器の音色に似てるというか、乾いた木の鳴りみたいな。あれを嗅ぐと、静かだった時間を思い出すんです」
そのとき、朱音はうまく返事ができなかった。ただ、その言葉が、まるで自分の奥底にあったものをすくい上げたように感じられたのだ。
朱音の父は、調律師だった。
子どもの頃、家にはいつもピアノの音があった。温かい響きと、コーヒーの香り。父の手が鍵盤をなぞると、音と香りが交錯した。
ある年、父は耳の病で音を失った。
音のかわりに、香りだけが残った。弦の擦れる匂い、ピアノの木材。朱音は、音を思い出すたびに、香りを探すようになった。
いま、目の前のなめこのパスタが呼び起こす記憶は、あの沈黙のなかにいた父の姿そのものだった。
「なめこってこんな調理もできるんですね」
「ええ。実はなめこは炒めると、とても良い強い香りが立つんです。─これに合う一杯、いかがですか?」
「はい、お願いします。」
真城が、そっとグラスを差し出した。
「オーバーストーンの、ソーヴィニョン・ブランです」
淡いレモン色のワイン。冷やしすぎておらず、香りがやわらかく開いている。
朱音はひとくち飲んだ。白い花、若草、柑橘の皮。酸が舌を洗い、再びなめこを迎え入れる。
ふたくち目のパスタは、さっきよりもなめらかだった。オイルの甘みが立ち、なめこの輪郭がほどけていく。そのすべてが、音楽だった。
航の言葉は、比喩ではなく、記憶の形式だったのだ。
朱音は、手帳の白いページをめくった。ペン先を置き、迷いなく書きつける。
『香りはまだ、そこにいる』
それは、ようやく見つけた展示のタイトルだった。誰に説明するでもなく、ただこの場で、香りがそう導いてくれた。
朱音はグラスの底を見つめた。
音は、もう聞こえないけれど─。香りが、ここに残っている。
朱音は再びのれんをくぐった。二回目は、言葉にならなかった音と香りを纏わせて。
真城一献は、朱音の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第35話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

にんにくをみじん切りにし、オリーブオイルを垂らしたフライパンで熱して香りを立てる。
なめこを入れて、炒めて香りを立てる。
イタリアンパセリ、または和パセリをみじん切りにして入れ、さっと油を通す。
そのフライパンの中に水を400ccほど入れ、塩をひとつまみ入れて沸かし、パスタを茹でる。
材料紹介
オリーブオイル : 味と値段のバランス最強。普段使いに。
パスタ : パスタならこれがおすすめ。ブロンズダイスでソースとよく絡む。
オーバーストーン・ソーヴィニヨン・ブラン : きのこのパスタと。
