百万石の桜ー金沢・冬の悔恨、春の救済
四季の雨が降る街でー旅するように暮らした金沢
北陸の冬は長い。
くるぶしまで埋もれる雪は周りの音を消し、
ただカサカサと肩に落ちてくる雪と
力任せに掻き分ける足音だけが篭っている。
息を白くしながら歩いたあの静寂の道に、
いま、見事な桜並木が満開の
トンネルをつくっている。
人が想像する兼六園や犀川、
金沢城の絢爛な桜ではない。
私の目の前を流れる伏見川。
倉ヶ岳の麓を源とする犀川の支流にして、
西金沢の住宅地を縫いながら、
日本海へと続いている。
遠く医王山の残雪を仰ぎ見れば、
土手には土筆が顔を出し、
桜と水仙、あたり一面の姫立金花が
一斉に咲き誇る。
北陸の待ち焦がれた「北国の春」が
一気に押し寄せてくる。
その伏見川の堤防を愛犬と歩く散歩道こそが、
私にとっての金沢だった。
わざわざ遠くから観光客が訪れる
ような場所ではない。
けれど、近隣の住民が通り抜ける
いつもの日常が、
一瞬にして桜で埋め尽くされる
贅沢な道へと変わる。
春のほんの短い期間だけ、
陸橋の上からライトアップされた
夜桜をも見下ろす。
普段は人影もないその下を、
夜遅くまで行き交う人の粒が、
ベランダからも見受けられた。
家族連れや連れ立った人々。
当然、私たちもまた、
愛犬を引き連れてその「黒い粒」の一つとして
通りを歩いていた。
そういえば、5年前――
この伏見川の桜並木を見て、
私は金沢の住まいを決めたのだった。
ベランダからの眺めはいつもお気に入りで、
冬の澄んだ朝にだけ姿を現す、
遠くに仰ぐ剱岳の勇姿は
嬉しいビッグサプライズだった。
夏になれば、
犀川の花火の光が鮮やかに彩った。
いつの間にか離れたくなくなった金沢。
いつの間にか離れざるを得なくなった金沢。
あんなに最初は嫌だったのに、
いざ去るとなると、
どうしようもなく恋しくなる。
「お払い箱になったのか」――
決してそうではなかった。
ただ、退職を告げたとき、
新しい上司は私を引き止めなかった。
私は専門職から管理職へと移り、
視座は確かに上がった。
だが、その高さは私の心を
湧き立たせるものではなかった。
自分で着込んだ重い衣装を、
ただ静かに脱ぎ捨てた――
それだけのことだ。
ただ舞台を降りたと言ったほうが
しっくりくるだろう。
己の中に燻る「野良の臭い」。
その兆しは、
その前の夏にすでに感じ始めていた。
穴水湾でパドルを漕ぎながら、
「もうここにはいられなくなる。」
ここで過ごす夏はこれが最後と
漠然と感じていた。
感傷と寂しさに包まれながら、
愛おしむようにパドルを刺したあの日から、
気持ちとは裏腹に時間だけが
確実に過ぎていった。
あれほど金沢を嫌がっていた妻も、
いつしかこの街を
深く愛おしむようになっていた。
気がつけば、
私をこの街に呼んでくれた
仕事仲間(飼い主たち)は誰もいなくなり、
あの陽気な日系ハワイ人の上司も去っていた。
子供のような部下たちはみんな巣立ち、
いつの間にか私は見送る側になった。
それでも
「彼らが帰ってこられる場所を護らなければ」
という勝手な使命感を抱いていたが、
もうその役回りもそろそろ終わりを迎えていた。
寄せ書きの半分は空白だった。
それを寂しく思わなかったと言えば嘘になる。
荒削りな熱量で同じ方向を向いていたチームは、いつしか洗練と効率を重んじる組織へと
移り変わっていた。
ミクソロジストが持ち込んだ新しい風は美しく、時代の通過点として一定の成果は得たものの、
そこに私が燃やせる情熱の居場所は、
もう残されていなかった。
私もまた、
心の中の情熱のベクトルの変化を
感じざるを得なかった。
そんな大袈裟なことじゃない。
ただ、次の曲がり角を曲がる時が来たと
いうだけのこと。
「また連絡してください。
これで終わりは寂しすぎませんか?」
引き止めもしなかった上司との最後の面談で、
私は愛想笑いと適当な返事を返して
オフィスを出た。
その後、連絡をしなかったのは拒絶ではない。
感謝している。
ただこれ以上自分の中で、
物語のページを書き進める事が出来ず、
そこから金沢を閉じるための、
私なりの儀式だった。
引越しには1ヶ月半を要したが、
準備はまるで進まなかった。
現実から目を背けるように、
無聊を慰めに能登の海へ車を走らせた。
最後の石川を惜しむように、
加賀、富山、福井と足を延ばした。
「もう二度とこの景色に会えないかもしれない」
という焦燥にも似た感傷が襲ってきた。
歳月が積み上げた荷物の搬出作業には、
丸一日がかかった。
すっかり暗くなったいつもの公園の、
葉桜の幹の傍に停めた車のトランクを閉めて、
高速のインターへ向けて
急ぎハンドルを切った。
時計は午後9時を回っていた。
観光客が押し寄せる兼六園の桜には、
私の居場所はなかった。
だが、愛犬と歩く伏見川の桜のトンネルと、
ベランダから見えた剱岳の姿だけは、
紛れもなく私の慣れ親しんだ金沢の景色だった。
手元にある一枚の写真には
満開の伏見川の桜のトンネルを背に
花びらが舞う中で、私と愛犬が写っている。
写真の中の私は、
一抹のノスタルジーを瞳に宿しながらも、
真っ直ぐ前を向いて晴れやかに笑っていた。
こうして私は、二度と金沢に戻ることはなかった。
その桜色に包まれた景色が色褪せる事なく。
次章:⑦漂泊の錨―あとがき
