【芸術って何だろ? #502】クリムトはなぜ「金」を貼り続けたか——ウイーン分離派と、黄金の裏側にある絶望
1907年、ウイーン。冬の朝。一人の男がアトリエに座っていた。
ウイーン第7区の狭いアトリエに、冬の薄い光が差し込む。手元には金箔。薄さ0.1ミクロン。息を吹きかけたら飛んでいく。それを一枚ずつキャンバスに貼っていく。何千枚も、何万枚も。指先が金色に染まり、服が金色に輝き、アトリエの空気まで金色に翳んでいた。
その男の名はグスタフ・クリムト。1862年、ウイーン近郊のバウムガルテンに生まれた。父エルンストは金細工師。ボヘミア出身の貧しい金版彫刻師だった。一家は貧困の中で、6回も引っ越しを繰り返した。
少年時代のクリムトの手は、金に触れて育った。
なぜ、あの時代のウイーンで、彼だけが金に取り憑かれたのか。答えは、一枚の金箔の裏側に隠されている。

ウイーン分離派——「芸術は死んだ」と叫んだ男たち
1897年。ウイーンは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、欧州随一の文化都市だった。人口は200万人。フロイトが精神分析を構築し、マーラーが交響曲を書き、シュニッツラーが戯曲を書いた。世界で最も知的な街。
でも、その文化は息が詰まっていた。
アカデミー芸術院がすべてを支配していた。絵を描くなら歴史画を描け、神話を描け、皇帝の栄光を描け。それ以外は「芸術」ではなかった。インテリジェンチアが「美」を定義し、民衆はその定義を黙って受け入れる。
そんな中、一群の青年が現れた。グスタフ・クリムト、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマン、オットー・ヴァグネル。彼らは「ウイーン分離派(Wiener Secession)」を名乗り、「分離する」と宣言した。
アカデミーから分離する。伝統から分離する。既存の「美」の定義から分離する。
「各時代に、その時代の芸術がある。」(Jedem dem das Seine)
1898年、分離派展覧会館が完成した。ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ設計の、金色のアーチが特徴の建物。入口の銘板にはこう刻まれていた。
「芸術は、時代に応じて。」
この建物自体が宣言だった。

天井画事件——「ポルノ」と言われた男
クリムトが金に没頭するきっかけを作ったのは、一件の侮辱だった。
1894年、ウイーン大学から大規模な依頼が舞い込んだ。大学の学術大講堂の天井画。「哲学」「法学」「医学」の三大テーマを描く、公的依頼(public commission)。画家としての最高峰の栄誉。
クリムトは6年かけて描き上げた。
1900年、「哲学」が完成した。観客の前には、暗闇の中を漂流する人間の群像が現れた。歯車の回る宇宙。孤独な魂たち。伝統的な「学問の勝利」とは全く違う、生と死の曖昧な境目。
反応は凍りついた。大学教授たちは「これはポルノだ」と叫び、医師たちは「医学を冒涜している」と怒り、新聞は「退廃的だ」「丑悪だ」と書き立てた。ある教授は「この絵を見た学生は、哲学を学ぶ気が失せる」と書いた。
1903年、「法学」と「医学」も完成し、さらに批判は激化した。批評家たちは「クリムトは文明の敵だ」とまで書いた。
結局、この天井画が公に公開されることはついになかった。クリムトは2万クローネを返還して依頼を放棄した。天井画は大学の倉庫に閉じ込められた。
これは彼の人生を決定づけた。
「公的依頼(public commission)はもう受けない。」
これ以降、クリムトは商業的な依頼だけで生きる道を選んだ。金箔を使うことで、商業的価値と芸術的価値の両立を試みた。依頼主は裕福なユダヤ人商人。彼らは、アカデミーの批判よりもクリムトの才能を信じていた。

黄金時代——金箔が意味するもの
1903年から1911年まで。クリムトの「黄金時代」が始まった。
この時期の代表作は「接吻(Der Kuss)」。1907年完成。180×180センチの正方形のキャンバスに、金色に包まれた男女が抱き合っている。男の背中には黒と白の幾何学模様。女を包むのは金色の円環。二人の足元は花咲く草地。男は女の頬に唇を寄せ、女は目を閉じて身を委ねている。
美しい。でも、この絵の裏側を見ると話は変わる。
クリムトは金箔を貼る前に、キャンバス全体に薄い下塗りをしていた。バミック酸という金色の顔料。それを塗ってから金箔を一枚ずつ重ねていく。さらに金箔の上にエナメルを塗って保護し、一部を磨き上げて光沢を出す。
一枚の絵に、数十層の金色のレイヤーが積み重なっている。これは単なる装飾ではない。
金箔は光を反射する。つまり、観客が絵の前に立つと、自分の顔が金色に映り込む。絵の中の人物と観客の顔が、金色の帯で繋がる。クリムトは観客を絵の中に引きずり込もうとしていた。これは当時のあらゆる画家も試みなかった根本的な革新だった。
なぜ金なのか——帝国の黄昏
クリムトが金を選んだのは、単に綺麗だからではない。1900年代のウイーンは、帝国が崩壊し始めていた。
ハンガリーの民族主義が高まり、チェコの独立要求が激化し、帝国内のあちこちで亀裂が走っていた。ボスニア・ヘルツェゴビナ併合(1908年)が国際的な批判を呼び、バルカン半島では火種が燻っていた。1914年には第一次世界大戦が勃発し、1918年にはオーストリア=ハンガリー帝国は消滅する。
クリムトはこの「終わり」を予感していた。
金箔は、古代エジプトのミイラを包むもの。ビザンティウムのイコンに使われるもの。中世の写本を飾るもの。黄金の夜会に輝く宮殿の天井を覆うもの。つまり金は「永遠」の色だ。
帝国が終わり、世界が変わる。でも、金だけは変わらない。クリムトは、消えゆく帝国の最後の光を金箔に閉じ込めていたのだ。
「接吻」の金色の帯は、抱擁でもなく、永遠の束縛でもない。崩壊する世界の中で、一瞬だけ金色に輝く、二人の孤独な祈りだった。
ユダヤの女王——「ユディト」の衝撃
1901年、クリムトは「ユディト I」を発表した。旧約聖書のユディトは、アッスリアの将軍ホロフェルネスを誘惑し、寝込みを襲って首を斬った。正義のための殺し。民衆を救うための英雄的行為。
でも、クリムトのユディトは違う。金色の帯を纏い、半裸の胸を晒し、片手にホロフェルネスの首を持ちながら、彼女は微笑んでいる。その微笑みは勝利の笑みではない。何かを見透かした冷ややかな笑み。
この絵は当時のウイーンで大スキャンダルを呼んだ。「こんなに淫らなユディトがあるか」。ある批評家は「売春婦の肖像だ」と書き、別の批評家は「クリムトは道德を廃棄した」と断じた。
でも、クリムトが描いたのは聖書の物語ではない。1900年のウイーンで、ユダヤ人女性がどのように扱われていたか。知的で、美しく、でも社会の周縁に追いやられた存在。
クリムトの妻エミーリエ・フローゲの親友は、アデル・ブロッヒ=バウアー夫人だった。ユダヤ系の裕福な実業家の妻。彼女の庇護がクリムトの黄金時代を支えた。「ユディト」は、感謝の絵でもあり、皮肉の絵でもあった。

水の中の女たち——エロスとタナトス
1904年、「水蛇II」が完成した。水面の下を泳ぐ女たち。長い髪が水の中で広がり、身体は金色と銀色の模様に包まれている。魚が群れをなして泳ぎ、水草がゆらゆらと揺れる。
美しく、でもどこか不気味。クリムトは水の中の女を何度も描いた。「水蛇I」「水蛇II」「金魚」「生の川」。どれも水の中を漂う女性の身体。水着も何も着てない、完全に裸の、でも金色に包まれた女たち。
なぜ水なのか。水は生と死の境目だ。水の中では呼吸できない。でも、水なしには生きられない。クリムトの女たちは水の中で息を止めている。生きたまま、溺れている。
これはエロス(愛欲)とタナトス(死欲)の融合だった。当時のウイーンで、フロイトが無意識の理論を発表し、ハルトマンが「無意識」の概念を展開していた。ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、シュペングラーは「西洋の没落」を予言していた。
クリムトは画家として、その無意識を視覚化していた。水の中の女たちの微笑みは、意識と無意識の境界に浮かぶ、もう一つの顔だった。
ブロッヒ=バウアー家の肖像——黄金の代価
1907年、クリムトは「アデル・ブロッヒ=バウアーの肖像 I」を完成させた。ウイーン最大の実業家フェルディナンド・ブロッヒ=バウアーの妻アデルの肖像。138×190センチ。金箔が全面に使われ、アデルの胸元にはエジプト風の三角形のモチーフが散りばめられている。当時、この絵は「金色のアデル」と呼ばれた。
でも、この絵の裏側には複雑な人間関係があった。アデルはクリムトのパトロンであり、二人の間には恋愛的な関係があったのではないかという噂が絶えなかった。クリムトはアデルの他にも、ブロッヒ=バウアー家の肖像を6点描いた。そのすべてが金箔を多用した圧倒的な作品だった。
1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると、ブロッヒ=バウアー家のコレクションは没収された。「金色のアデル」はオーストリア国立ギャラリーに「国家財産」として収められた。
戦後、アデルの姪マリア・アルトマンが、50年かけて国に返還を要求した。2006年、最終的にアメリカの裁判所がアルトマン側の勝訴を言い渡した。その年、「金色のアデル」はクリスティーズで1億3500万ドルで落札された。当時の世界最高額。
クリムトが金箔に込めた想いは、100年後、1億ドルの価値を持つようになった。
シーレへの継承——崩壊の先
1918年2月6日。クリムトは脳卒中で倒れた。医師が駆けつけたとき、クリムトはこう言ったとされる。
「黄金の島を見たよ。」
数日後、彼は息を引き取った。55歳。オーストリア=ハンガリー帝国崩壊の9ヶ月前。
クリムトの最晩年の弟子にエゴン・シーレがいた。シーレはクリムトの黄金を引き継いだのではなく、その裏側を引き継いだ。クリムトが金箔で隠した「絶望」を、シーレは剥き出しにした。骨董品のない、骨だけの人体。狂気じみた表情。崩壊する身体。皮膚の下に見える血管と骨。
シーレの絵は、クリムトの絵の「表」と「裏」だった。クリムトが黄金で包んだ文明の終焉を、シーレは裸のまま呈示した。
1918年、シーレもまたスペイン風邪で亡くなる。28歳。妻エディットは妊娠中だった。師も弟子も、同じ年に死んだ。帝国と運命を共にした。
なぜ今、クリムトなのか
2006年、「アデル・ブロッヒ=バウアーの肖像 I」が1億3500万ドルで落札された。当時の最高額だった。なぜ、100年前の金の絵にそんな金がつくのか。理由はシンプルだ。
クリムトの金は、今もなお観客の顔を映し出すからだ。あの金色の帯の中に、自分が映る。自分が包まれる。自分が、消えゆく帝国の一部になる。
それはSNS時代の「自撮り」の原型かもしれない。クリムトは100年前に、selfieの本質を見抜いていた。金色の虚栄心。金色の孤独。金色の絶望。それが、クリムトの金だ。
黄金の技法——比較で読むクリムトの選択
クリムトの「金」を理解するには、同時代の画家との技法比較が早い。
画家 主な素材 帝国への態度 代表作 死没年 グスタフ・クリムト 金箔・エナメル 黄金で包む(祈り) 接吻・金色のアデル 1918(55歳) エゴン・シーレ 線・薄彩 裸で曝す(絶望) 座位の男・家族 1918(28歳) オスカー・ココシュカ 厚塗り油彩 嵐で映す(情動) 風の花嫁 1980(94歳) コロマン・モーザー 幾何学装飾 秩序で構築 フラット・デコール 1918(50歳)クリムトは帝国の終焉を「永遠の色」である金で包んだのに対し、弟子シーレは同じ崩壊を「剥き出しの肉体」で示した。同じ時代、同じ運命を、全く逆の素材で語った。この比較にこそ、クリムトの「金」の意味が浮かび上がる。

さらに、クリムトの作品は「どこで見られるか」も知っておきたい。代表的な収蔵先とその背景を整理する。
作品 収蔵先 現在の価値/状況 接吻(1907) ウイーン・ベルヴェデーレ宮殿 帝国最後の傑作として常設 金色のアデル I(1907) ニューヨーク・ノイエギャラリー 2006年1億3500万ドル落札 ユディト I(1901) ベルヴェデーレ宮殿 スキャンダルの代表作 生と死(1915) ウイーン・レオポルド美術館 晩年の絵画的傑作まとめ
- クリムトの金は装飾ではない。消えゆく帝国への祈りだった
- ウイーン分離派は「各時代に、その時代の芸術がある」と宣言した
- 天井画事件が、クリムトを商業的な道に追いやった
- 金箔は観客を絵の中に引きずり込む装置だった
- 水の中の女たちは、エロスとタナトスの融合を描いていた
- ブロッヒ=バウアー家の肖像は、黄金の代価を100年後に手にした
- 弟子シーレは、クリムトの黄金の裏側を剥き出しにした
【加藤芸術って何だろ?出版記事 #502 】
