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【芸術って何だろ? #18】「あなたの美を見せてくれ」— 清掃員の1.5万ページと596億ドルの嘘

「フォローザマネーが人の真相。人間の足元は嘘つかない。」

「そもそも、美って、誰のものだ?」

清掃員の遺品

1973年、シカゴ。ヘンリー・ダーガーという老人が病院に運ばれた。彼はそこで死んだ。

彼の部屋に、大家が足を踏み入れた。ゴミだらけのワンルームだった。しかし、隅に積まれた段ボール箱の中から、とてつもない量の原稿と絵が見つかった。

15,145ページ。単行本で言えば、30冊分。一貫した物語だった。「非現実の領域で」というタイトル。7人のヴィヴィアン幼女が、大人の奴隷制に立ち向かう超長編ファンタジー。挿絵は水彩で、A3用紙を継ぎ足した3メートルにおよぶ巻物が何十枚も。

ヘンリー・ダーガー(1971年)。死後に15,145ページの原稿が見つかった。

ダーガーは清掃員だった。生涯独身。友人もいない。彼の絵を見た者は、誰もいなかった。彼が絵を描いていることすら、誰も知らなかった。

彼はただ、毎朝暗いうちに起きて病院の床を拭き、帰ってきて自分の世界を描いた。それを60年続けた。

今、ダーガーの絵はニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されている。1枚が数万ドルで取引される。でも、彼はそれを知らない。

ナニーの隠した10万枚

2007年、シカゴの競売。査定人のジョン・マルーフが段ボール箱を落札した。中身は大量のネガフィルム。彼は適当にスキャンして、Twitterに投稿した。

反応が来た。「この写真、誰が撮ったんですか?」

マルーフは調べ始めた。フィルムの主は、ヴィヴィアン・マイヤー。職業はベビーシッター(ナニー)。彼女は死の直前、家賃を滞納していて、保管庫の中身が競売にかけられていた。

彼女は生涯で10万枚以上の写真を撮っていた。ストリートフォトグラフィー。1950年代から60年代のシカゴとニューヨーク。その構図の斬新さ、光の捉え方、被写体への距離感は、プロの写真家を凌駕していた。

誰も彼女の写真を見たことがなかった。彼女は現像すらしないことが多かった。ネガを箱に詰めて、押し入れに積んでいただけだ。

今、ヴィヴィアン・マイヤーは「20世紀最高のストリートフォトグラファーの一人」と評されている。展覧会は世界中で開かれた。ドキュメンタリー映画にもなった。

彼女の写真は、今いくらで取引されているか? 1枚、数万ドル。でも、彼女はナニーの給料でフィルムを買い、休みの日には街を歩いてシャッターを切った。誰のためでもない。自分のためだけに。

78歳からの画家

アンナ・メアリー・ロバートソン。彼女を「グランマ・モーゼス」と呼ぶ。アメリカの農婦だった。夫と農業を営み、子供を育て、普通の人生を送った。

彼女が絵を描き始めたのは、78歳。関節炎がひどくなって刺繍ができなくなったからだ。代わりに、ペンキを買ってきて、思い出の農場の風景を描いた。

彼女は美術教育を受けたことがない。遠近法もデッサンも知らない。ただ、自分の目で見てきたもの——雪の朝の納屋、秋の収穫、冬の川——を、素朴なタッチでキャンバスに乗せた。

グランマ・モーゼス(1950年頃)。78歳で絵を始め、101歳で亡くなるまでに1,500点以上を描いた。

彼女の絵は、たまたまニューヨークの画廊主の目に留まった。83歳で初めて個展を開いた。大反響だった。

グランマ・モーゼスは101歳で亡くなるまでに、1,500点以上の作品を残した。今、彼女の絵は100万ドル以上で取引される。

彼女は言った。「もし絵を描いていなかったら、鶏の世話をしていたでしょうね。」

彼女にとって、描くことは、鶏の世話と同じくらい自然なことだった。

「みんなアーティストだ」— ボイスの宣言

1973年。ドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスは宣言した。

「Jeder Mensch ist ein Künstler.」(全ての人がアーティストである)

ボイスは言う。芸術とは、絵を描いたり彫刻を彫ったりすることだけではない。人間の創造性は、あらゆる活動に宿る。ゴミ収集員も、看護師も、医者も、エンジニアも、農家も。それぞれの仕事の中で、彼らは独自の「フォルム」を生み出している。それをボイスは「社会彫刻(Soziale Plastik)」と呼んだ。

ヨーゼフ・ボイス。「誰もがアーティストである」と宣言した。

しかし、この言葉に気をつけろ。ボイスは「誰でもアーティストとして認められる」と言っているのではない。「誰もがすでにアーティストである」— その事実に気づいていないだけだ、と言っているのだ。

ダーガーは知らなかった。マイヤーは知らなかった。モーゼスも知らなかった。でも、彼らは確かにアーティストだった。美術館が認める前から。オークションが値段をつける前から。

596億ドルの嘘

2025年の世界のアート市場は596億ドル(約9.3兆円)だ。前年比4%増。オークションだけで207億ドル。

サルバトール・ムンディ(Leonardo da Vinci 作)は4億5,030万ドル(約700億円)。ジェフ・クーンズの「ラビット」は9,030万ドル(約140億円)。

ここで問う。

ダーガーの1枚の絵と、サルバトール・ムンディ。どちらに「美」が多く詰まっている?

馬鹿げた質問だと思うか? でも、アート市場は答える。4億5,030万ドル対数万ドル。それが市場の答えだ。

でも、もう一度聞く。

晩年のダーガーの部屋で、彼は何を見ていた? 押し入れに詰まったネガの中に、マイヤーは何を閉じ込めていた? 鶏の世話の合間にモーゼスは何を描いていた?

市場は、それらの「美」に値段をつけられない。だから無視した。死んで、偶然見つかって、初めて値段がついた。つまり、596億ドルという数字は、「値段をつけられた美」だけの合計だ。無数の「値段がつかなかった美」は、そこに含まれていない。

フォローザマネー。金を追え。金は人間の本音を暴く。この596億ドルという数字が暴くのは、アート市場の巨大さではなく、その穴の大きさだ。

不完全こそが美しい

日本には「侘び寂び」という考え方がある。

ひび割れた茶碗。継ぎ足した跡。朽ちかけた木造の寺。不完全なもの、儚いもの、未完成なものに美を見出す。

資本主義は「完璧」を売る。新品、ピカピカ、非の打ちどころのないデザイン。でも、人の心に刺さるのは、たいてい、そっちじゃない。

子供がクレヨンでぐちゃぐちゃに描いた絵。彼方の老人が何十年もかけて育てた盆栽。名もない大工が梁に刻んだ印。社畜が休日に撮った夕焼けの写真。引きこもりがノートに描き続けたキャラクター。

それらに値段はつかない。オークションには出ない。美術館も展示しない。

でも、それが「美」ではないと、誰が言える?

あなたの美を見せてくれ

KTは言った。

「みんなどんな人でもこの問いに関しては大家である」

「どんな人にも確かに「美」がある。名もなき労働者にも、引きこもりにも、社畜にも、老人にも、子供にも。」

「私はあなたの美を見てみたい」

この連載のここまで、17回。私たちは「フォローザマネー」で足元を見てきた。資本が隠す醜さを暴いてきた。でも、それだけでは足りない。

資本が触れられなかった美。資本が値段をつけられなかった美。それを見つめること。それこそが、このシリーズのもう一つの使命だ。

ダーガーの1.5万ページは、誰のためでもなかった。マイヤーの10万枚は、誰にも見せるつもりがなかった。モーゼスの1,500点は、手慰みだった。彼らは「美」を生み出しているという自覚すらなかったかもしれない。

でも、それは確かにあった。彼らが生きている間に、誰も評価しなかった。でも、確かにあった。

あなたの中にも、ある。

あなたが撮った何気ない1枚。あなたがノートに落書きした1ページ。あなたが何気なく積んだ石。あなたが選んだスーツの色。あなたが作った夕飯の盛り付け。

「美」は美術館にあるのではない。「美」はオークションにあるのではない。

「美」は、あなたの中にある。

誰も評価しなくていい。値段がつかなくていい。

あなたの美は、あなただけのものだから。


「フォローザマネーが人の真相。人間の足元は嘘つかない。」

「そもそも、美って、誰のものだ?」

答えはもう出ている。誰のものでもない。誰のものでもある。

私はあなたの美を見てみたい。

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