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雪の日に生まれた

ある夜、何げなくつけたテレビで、ふいに涙が出た。

古い家族ドラマの再放送だったと思う。食卓で父親が声を荒らげ、ちゃぶ台の上のものが散らばる。子どもが泣き、それでも祖母が「食べよ」と促す。たった、それだけの場面だった。

なのに、涙が止まらなかった。ボロボロと、自分でも戸惑うほどに。

同じ景色を見たことがある。
体のほうが、そう言っていた。

こうして心がざわっとするとき、辿っていくと、いつも同じ場所に行き着く。

雪の日。私が生まれた日だ。

その話をしようと思う。

生まれた日の記憶は、もちろんない。
けれど、その日の話だけは何度も聞かされた。

雪が降っていたこと。
父が列車を乗り継いで、病院へ急いだこと。
まだ新幹線も通っていない、二月の雪の日だったこと。

そして——生まれた子が最初に上げるその声が、その日はなかなか聞こえなかったこと。

その沈黙が何を意味するのか、若い父にもわかっていた。

医者は父に言ったという。
「早く名前をつけてあげてください。じゃないと、無名仏になってしまう」

駆けつけた父が、最初に受け取ったのは、祝いの言葉ではなく、その言葉だった。
母はその間、凍えた窓の外を見ながら、まだ声を上げない子の名を、心の中で呼んでいたのかもしれない。

父が病院の近くの寺で姓名判断に頼んだその名前は、「末は博士か大臣になる」と言われたらしい。

結局、博士にも大臣にもならなかった。
たぶん、その名に込められた運の大半を、生きることに使ってしまったのだと思う。
それでも、その名前で、私はちゃんとここまで生きてきた。

自分が生まれた時のことなんて、誰も覚えていない。
けれど私は、その話を、何度も聞かせてもらえた。
それは、当たり前ではないのかもしれない。

私は雪の日に生まれた。
けれど、ただ祝福されて生まれてきたわけではなかった。
声を上げない私を前に、父と母は、祈るような時間を過ごしたのだという。
だからだろうか。

私にとって誕生日は、手放しでは喜べない、どこか重さを持った日だった。

第一章 母の声

私の始まりを、何度も語ってくれたのも、母だった。

母は、よく働く人だった。
朝が早く、夜が遅い。
瀬戸内の離島の出身で、中学を出るとすぐに集団就職で都会に出てきた。美人というのではなかったけれど、誰とでもすぐに打ち解ける、愛嬌のある人だった。

男物の、古くて錆びた大きな自転車。
母はそれに乗って、仕事に買い物に走り回っていた。私はよく、その荷台に乗せてもらった。忙しい母と、少しでも一緒にいたかったのだ。荷台からしがみついていた、あの感触が、いまも残っている気がする。

商店街の人たちにも、よく声をかけられていた。「よう働く奥さんやなあ」と言われるたび、照れたように笑って手を振っていた。

その母は、機嫌のいいときだけ、私を”チョコ”と呼んだ。名前にそんな字はないし、略してもいない。理由を聞いても、「チョコチョコしてるからやろか」と笑ってごまかすだけだった。

まだ携帯のない時代だ。友だちから電話がかかってくると、黒電話の前で母が家じゅうに響く声で言う。「チョコー、電話っ!」受話器の向こうで友人が大笑いして、私は顔から火が出る思いだった。家の中だけの名前を、外に出された気がした。

“チョコ”。あれは、母のやさしいときだけの声だった。しんどい日も、疲れた日もあったはずなのに、ふっと体の力が抜けた瞬間だけ出てくる、あの声。

そのやわらかさの裏で、母が何を背負っていたのかを、当時の私は知らなかった。

まだ低学年のころ。時々、母に連れられて、電車に乗せられ、繁華街のマクドナルドへ行くことがあった。当時マクドナルドは珍しく、何よりのごちそうだった。トレイの上にビッグマックとコーラ。それはとても大きくて、嬉しくて、夢中で食べた。

母は、なにも注文しなかった。ただ、私が食べるのを見守っていた。そして途中で、「ちょっと用事」と言って席を立つ。「ここを動いたらあかんよ」と言い残して。

幼い子どもを、繁華街のマクドナルドにひとり残して。今ならとても考えられないが、あの時代は、それで通った。

言われた通り、私は店の窓から通りを眺めて待った。行き交う人の波を、ただ目で追っていた。母はなかなか戻ってこない。人の流れが途切れるたびに、このまま母が帰ってこなかったらどうしよう、と思った。口の中のビッグマックの味が、だんだん分からなくなっていった。

母はやっと、何事もなかったような顔で帰ってきた。
大人になってから知った。あの「ちょっと用事」のあいだ、母は父のこしらえた借金を、サラ金に返しに行っていたのだ。

自分は何も知らずに、ビッグマックをほおばっていた。母はそのお金を、どんな思いで工面し、どんな顔で頭を下げていたのか。
子どもの私には、見えるはずもなかった。

お金にまつわる話は、こんなのもある。

小学校五年生のとき、自転車で転んで膝を十針縫う大怪我をした。仕事場から母が、息を切らせて駆けつけてきた。きっと心配してくれていたのだ。でも、覚えている最初の言葉は、これだった。

「給料日前に怪我したらあかん」

真っ赤に染まったタオルを見て、母は顔をしかめた。「タオルなんか借りたらお礼持って行かなあかんし、新しいのも買わなあかん。どないすんの」

怪我の痛みよりも、その言葉のほうが強く残っている。いつしか、母も私も、それを笑って話せるようになった。そして今では、「病人は犯罪者です」は、私の家の家訓になっている。お金が出ていくから、という、母ゆずりの理由とともに。

でも、あのときの母の顔は、笑っていなかった。あの人は、生活そのものと、たったひとりで闘っていたのだと思う。

第二章 あの夜


母の笑顔には、忘れられないものがいくつかある。自転車を漕ぎながら、ふり返ってこちらに笑いかけた顔。
“チョコ”と呼ぶときの、ふっとほどけた顔。

けれど、その対極にあるあの夜の顔を、私は一生忘れられない。

十歳の、秋の終わりだった。寒さを覚えている。

家から少し離れた遊園地で、毎年「菊人形展」という催しがあった。銭湯のおばさんがくれた無料券で、家族で行けることになった。
うれしくて熱を出した。
中止になりかけたけれど、「下がった」と言い張って連れて行ってもらった。

その日の写真が残っている。少し疲れた顔で、それでもどこかうれしそうに笑っている。

家を出る前から、父と母の様子が、いつもと違っていた。理由はわからない。ただ、ふだんとは違う何かいやなものが流れているのは、子どもにも感じ取れた。私は少し、道化のように振る舞っていた気がする。

夕方になって、風が冷たくなった。帰る時間が近づいてくる。でも私は、もう家に帰りたくなかったのだと思う。家に帰れば、また何かが壊れる。そんな気がしていた。

家に着くと、私は二階に上がり、布団にもぐりこんだ。いや、避難したのだと思う。

下からは怒鳴り声と、何かが倒れる音がした。やがて父が出ていく音がして、家の中が静かになった。終わったのだと思った。

だが、母にとっては、終わりではなかったのだろう。あんなに辛抱強い人が、あの夜だけ、何かを保てなくなった。何が母を、そこまで追い詰めたのか、今もわからない。

そのまま少し眠ったらしい。

名前を呼ばれて目を覚ますと、母がそばにいた。

「お母さん、もうあかん。一緒に死のう」

意味がわからなかった。泣くしかなかった。必死で、嫌だと言った。母も泣いていた。見たことのない顔だった。

どれくらいそうしていたのか、覚えていない。あのとき、世界の音がひとつ、消えた気がした。

やがて母は、静かに言った。
「一緒には、死んでくれへんのか」。
そして、「なら、お母さん、ひとりで行くわ」と。

母は家を出ていった。私はパジャマのまま、外へ飛び出した。駅まで走った。息が切れて、涙で前が見えなかった。

母は、改札の向こうにいた。

「寒いんやから、あんたは帰り」
「おやすみ。バイバイ。起こしてごめんな」

そう言って、母は電車に乗った。

あのとき母が、何を決めて電車に乗ったのか。本当に死ぬつもりだったのか、ただ、何もかもから逃げてしまいたかったのか。何十年経っても、私はそれを、母に聞けなかった。

母は、数日帰ってこなかった。やがて帰ってきたけれど、父にも私にも、長いあいだ、ほとんど口をきかなかった。
あんなにちいさな家なのに、あの夜の木枯らしよりも寒かった。

それでも、誰も何も言わなかった。言えなかったし、口にしてはいけないことのようだった。

ただ、その沈黙の重さだけは、今も胸の奥に残っている。

第三章 四畳半


父の記憶は、いつも食卓から始まる。

箸の持ち方には、特にうるさかった。少しでも無作法にしていると、「食うな」と怒鳴り、手が飛んできた。ちゃぶ台の上にご馳走が並んでいるわけでもないのに、ナイフとフォークの扱いにもやたら厳しかった。教えるために、わざわざ持たせていたのかもしれない。当時はただ怖くて、父のいない晩ごはんのほうが、ずっとほっとした。

あの食卓のことは、長く忘れていたつもりだった。
けれど、大人になったある夜、テレビの前で、不意に涙が出た。あの、古い家族ドラマの場面だ。ただ、体のほうが先に覚えていた。あの食卓を。

よみがえってきたのは、父が怒鳴り、母が泣いた、あの夜のことだ。湯飲みが倒れて茶がこぼれ、その前で、幼い私は泣きながらご飯を口に入れていた。しゃっくりが止まらず、喉の奥がひゅうひゅう鳴って、涙と一緒に、ご飯の味が消えていった。そんな夜が、一度や二度ではなかった。

泣きながら食べるご飯は、塩味がする。今は、少しだけ笑ってそう言える。

だからだろうか。自分の子どもには、食事のときだけは、叱らなかった。どんなに腹が立っても、箸を持つ時間だけは、穏やかでいたかった。泣きながら食べる味を、あの子には覚えさせたくなかった。

父から受け取ったものは、痛みだけではなかった。
魚の食べ方も、そのひとつだった。
「猫がまたぐくらいにしろ」。食卓に頭と骨だけがきれいに残ると、父は無言でうなずいた。それが、何よりの合格だった。

父は、しばしば線を越える人だった。悪さをすれば殴られ、口答えをすれば平手が飛んだ。母に対しても同じで、怒号と物音が混じる夜が、年に何度かあった。その音を聞くたび、私は部屋の隅で小さくなって、息をひそめていた。叩かれる痛みより、それが家の中で”当たり前”になっていくことのほうが、ずっと怖かった。

中学に上がるころ、父は腰を痛めて退職し、家にいる時間が増えた。四畳半の居間に、父はいつも座っていた。当時は、校内暴力が社会問題になっていた時代だ。私の中学も荒れていて、廊下では毎日のように、何かが起きていた。けれど私には、あの四畳半の沈黙のほうが、ずっと怖かった。

高校受験の三者面談には、父が来た。先生は、安全に入れる学校をすすめた。
「こちらなら確実です。無理のない選択だと思います」。けれど私が行きたかったのは、それより上の、少し背伸びの要る学校だった。

父は少し黙ってから、ゆっくりと言った。
「こいつの希望する学校を受けさせます」
「落ちても文句は言わん。親の責任や」
声を荒げるでもなく、強がるでもなく、ただ、そう決めている人の言い方だった。

そのときだけ、四畳半が少し広く見えた。

試験のあと、新聞で自己採点をした。ぎりぎりだと思った。父は新聞を折って、「これならいける」と言った。あとから気づいた。あの言葉は、私に言ったのではなく、自分に言い聞かせていたのだと。

合格発表の日、家に帰っても、父は何も言わなかった。それでよかった。あの日は、それでよかった。

それでも——父との衝突が消えたわけではなかった。

高校のある日、久しぶりに父と大げんかになった。理由はもう思い出せない。きっと私が、どうしようもなく悪かったのだろう。ただ、あの夜の光景だけが、体の奥に残っている。四畳半の畳の匂い。蛍光灯の白い光。その下で、父の影が一気に近づいた。

殴られた。途中で父は叫んだ。「悔しかったら殴り返せ!」

気づいたら、言い返していた。


「親に手ェ上げる教育を、俺にしたんか——」


子が親に手を上げる。
そんなことを許すように、あなたは私を育てたのか。そう言いたかった。

声が震えていた。手ではなく、言葉で返すことしか、できなかった。

怒りでも、反抗心でもない。あの夜に胸の奥へ沈んだのは、ただ深い悲しみだった。守られるべき場所で殴られるという矛盾が、重く沈んでいった。

あれが、父に殴られた最後の夜だった。

それから先も父は父のままだった。
私も私のままだった。

それでも、あの夜を境に、
私たちは少しずつ親子になっていったのかもしれない。

第四章 いつのまにか


父は、線を越える人だった。だから私はずっと、線を越えないように生きてきた気がする。怒鳴らず、叩かず、父のようにはなるまいと思いながら。

……いや、一度だけあった。どうしても手をあげてしまった日が。

息子がまだ小さかったころ、学校から電話があった。「お友だちの十円を取った」と。帰ってきた息子に理由を聞くと、泣きながら絞り出すように言った。「あの……こないだ買ってもらった貯金箱に、入れたかった……」。あの言葉は、今も胸に刺さったままだ。

それでも、人のものを取る痛みだけは、教えないといけなかった。だから、そのときだけは、しっかり叩いた。叩く前に「今から叩くよ」と言うと、息子は小さくうなずいた。妻は泣いていた。

翌朝、息子は何事もなかったようにけろっとしていた。私の子どものころとはまるで違っていて、それがどこか救いだった。叩かれたことよりも、言葉の意味を、ちゃんと受け取ってくれたように見えた。

あのとき小さかった息子も、やがて社会に出る年になった。

就活の最終面接を終えた日、笑いながらこう言ってきた。「全然緊張せんかったよ。面接官より、お父さんに説教されるほうがしんどいし」

胸のどこかが、チクリとした。私は父のように怒鳴ったことはないし、手も上げなかった。できる限り、やわらかく接してきたつもりだった。なのに、あの子にとっては、対峙する相手として、私のほうが手強かったらしい。

父みたいにはなるまいと思っていたはずなのに、気づけば私は、同じように「立ちはだかる背中」になっていたのかもしれない。
そして同時に、こうも思った。私もあの頃、父の背中に勝ちたかったのだ。息子にとっての私も、きっとそうだったのだろう。そうやって父と息子のあいだで、同じバトンを、静かに受け渡してきたのかもしれない。いつのまにか。

息子を叩いたあの夜、手のひらに残ったじんとした感覚を見つめていると、自分が殴られたあの夜の痛みが、かすかに重なった。

父とは違うやり方を目指してきたはずなのに、禁じていた線を、思いがけず越えてしまった。でも、その線の向こうに立ったとき、ようやく気づいた。

過去の痛みは、消すためにあるのではない。渡さないために、私に残ったのだ。

——そう思っていた。

けれど、止められなかったものもある。

息子が私を「しんどい相手」と笑ったあの日、私はわかった。怒鳴らず、叩かず、できる限りやわらかく接してきたつもりでも、あの子はちゃんと、私を一人の手強い大人として受け取っていた。父が私に残した「立ちはだかる背中」は、形を変えて、私から息子へも渡っていたのだ。
父が私に何を渡そうとしていたのか、今もわからない。ただ、私はそれを受け取って、使って、ここまで生きてきた。
そして私自身も、あの子には少し見えにくい形でしか、渡せていない。
受け取るのに、私は何十年もかかった。あの子も、いつか気づくのかもしれない。あの背中の中に、何があったのかを。

第五章 同じ日に生まれた人


私にとって誕生日は、ずっと重い日だった。
雪と、祈るような時間の中で始まった日。

家は貧しかった。
誕生日もクリスマスも、人並みに祝ってもらった記憶は、あまりない。
ケーキが当たり前に出てくる家ではなかった。

そんな日が、少しだけ変わったことがある。

高校のとき、初めて、自分と同じ誕生日の人に出会ったとき、胸の奥がふっと温かくなった。

占いの本を開けば、性格も運勢も、同じページに書かれている。そんな子どもじみた一致が可笑しくて、しばらくそのページを閉じられなかった。

それが、恋とも友情とも言えない関係の始まりだった。

最初は、誕生日が同じというだけで、何か運命めいたもののように感じていた。

けれど、年を重ねるほど、その偶然よりも、続いていることの方が不思議になった。

進学、就職、結婚、子育て。
お互い、親を見送る歳にもなっていた。

暮らしは、何度も形を変えた。

それから四十年以上。伝え方は、手紙から電話、メール、今はLINEへと変わった。

会えない年のほうが多かった。
卒業してからの時間のほうが、ずっと長い。

それでも、どちらかが忘れた年は、一度もない。

誕生日になると、どちらからともなく自然に連絡が来る。

「長い付き合いやな」

最近は、それが定番になった。

若い頃のような特別さはない。

けれど、なくならないものがある。

「おめでとう」。

それだけのやりとりに、いつも、もうひとつの言葉が見え隠れする。

——生きててくれて、ありがとう。



同じ日を、ともに祝える人がいる。
それだけで私の誕生日は、半分だけ軽かったのだと思う。

第六章 雪の日に父になる


息子が生まれたのも、二月だった。
私のときと同じ、雪の降る日だった。

私は仕事を終え、病院へ向かった。けれど雪で電車は遅れ、窓の外を見ながら、何度も時計を見た。間に合うだろうか。妻は大丈夫だろうか。

ようやく病院に着いた。男にはどうにも場違いな場所で、慣れない廊下を歩いていると、どこかから、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。ふだんの暮らしでは、まず聞くことのない声。ああ、産科やな——そう思いながら、私はまだ、その声を他人事のように聞いていた。

あとで知った。私が廊下をうろうろしていたころ、息子はもう生まれていたのだ。父親になった実感などあるわけもなく、妻がどこにいるのかも分からず、迷子のように病院を歩き回っていた——その自分を思い出すたび、少し可笑しくなる。

私が他人事のように聞いていたあの泣き声は、息子の産声だったのだ。その瞬間から、私は誰かの父親になっていた。
元気に泣く息子を初めて抱いたとき、妻と二人で、生まれてくる前から決めてあった名前をそっと呼んだ。

そして、その泣き声は、もうひとつの雪の日を呼び覚ます。私が生まれた日だ。

産声がなかなか聞こえなかったあの日のことは、繰り返し聞かされてきた。父は雪の中を、病院へ急いだらしい。あの日の父がどんな気持ちだったのか、若いころの私にはわからなかった。でも今なら、少しだけわかる。雪の中を急ぐ気持ちも、産声を待つ気持ちも、生まれてきてくれたことに、心から安堵する気持ちも。

父は雪の中を走った。そして何十年かのちの雪の日、私もまた走った。

終章 名前

産声を上げなかった私に、父は急いで名前をつけた。無名仏に、しないために。雪の中を一人で走り、寺に駆け込んで、授かった名前だった。

何十年か経って、私は自分の子に名前をつけた。妻と二人、生まれてくる前から、何度も呼んでみては選んだ。

父は一人で、慌てて。
私は二人で、ゆっくりと。

それでも、子の名を願いとともに手渡すという一点だけは、何も変わっていなかったのだと思う。

その名前は、ずっと私を連れて歩いてくれた。
そしてこの名前は、たしかに私のものになった。

若いころの私は、自分は大事にされていないと思っていた。受け取るのが、下手だったのだ。渡されたものは、いつも私が思っていたのとは違う形をしていた。だから、気づくのに、ずいぶん長くかかった。

父が私に何を渡そうとしていたのか、今もわからない。
母があの夜に、いや、あの夜だけでなく、一人で何を背負っていたのか。
きっと、私の見えないものを、もっと多く抱えて生きていたのだろう。

ただ、私はそれを受け取って、抱えながら、ここまで生きてきた。

そして今、私も渡す側になっている。
うまく渡せているかは、息子がいつか決めることだろう。

それでも、渡すことだけは、やめてはいけないと思っている。

これから先、何年生きるのかはわからない。

けれど、願うことがひとつある。
受け取ったものを、ちゃんと次へ渡していけますように。
そしていつか、私の名前を呼ぶ誰かの声の中に、
確かに渡したものが、残っていますように。


あとがき


―これを書き終えて、ふと思い出すことがある。

この物語には書かなかったが、
私の隣には、いつも
黙って、埋めてくれる妻がいる。

子を大切にするのと同じだけ、妻のことも大切に思っている。

普段は、とても言えない。
こういう時にしか言えないので、書いておく。

——いつも、ありがとう。

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