hug
ハグってなんか愛を感じるから好きだ。小説を書いていても気を抜くとすぐに人物同士をハグさせてしまう。愛を感じるんで。詩人の最果タヒも、詩を書いているとすぐに「海」がモチーフとして立ちあがってきてしまうとエッセイで述べていた。小説において、そして私において、それはハグにあたるのかもしれないなどと考えていた。
「目を閉じた人から順に夏になる光の中で君に出会った」という一首で有名な木下侑介の歌集『君が走っていったんだろう』(株式会社書肆侃侃房、2021.10.6)に、次のような歌がある。
完璧な死体と夏が誤解するほど僕たちは抱き合っていた
この歌で目を見張るのは、「完璧な死体と夏が誤解するほど」という長い修飾だ。歌はすべてひとつの描写に費やすかたちで、主題の抱きあっているふたりを描く。横たわり抱きあっているのだろうと思うので、セックスの場面をまず彷彿とさせるが、恋人同士かはわからない。ただ、その状況からしてもそれなりに親密な関係の二人であることが推定できる。ぼやけた語彙でざっくり言えば、「愛の場面」といったところだろうか。
夏は古代から、自然豊かとなる季節で、生命が活発に活動する、いわば「生」、そしてそれと可分ではない「性」のイメージを纏って語られてきた。そして、その跳ねっ返りか、「死」も強く意識させるところがあるのではないかと思う。
「歌のためのポエトリー_1」という音楽作品の歌詞にも書いたのだが、地元の地面には色んな生き物の死骸が転がっている。真夏は、「入道雲の下 農道で蛙や飛蝗が干からび」と書いた通り、蛙やバッタ、トンボなどが多い。秋ごろになっていくとカマキリがよく車に轢かれている。見たことのない蝶が死んでいるなと思ったら、ピックみたいな形の包装が開いて落ちているだけだったりもする。
大学生時代に下宿させてもらっていた板橋でも、名前を具体的に挙げるのは避けるが、見たことがある。盛夏の裏で、たくさんの生き物がその生をさまざまなかたちで終えているのだ。私にはどちらかと言うとそのイメージが強く、夏は「生」の季節であるとともに、「死」の季節でもある。お盆もあるし。姿勢が悪いから下ばかり見て歩いているだけかもしれない。
その「夏」に見逃されるほど死に肉薄するという表現からは、静けさを感じる。じっとして、きつく抱きあい、そこから動こうとしない。そういった質感をいだかせる。面白いのは、それが対照的に生の衝動によって到達した境地なのではないかという点だ。
死の気配をセックスや抱擁、つまり、抽象化すれば、二つの肉体が強く接触するシチュエーションに忍ばせる表現はほかにも知っている。
2024年に発表された、米津玄師のアルバム「LOST CORNER」には、「YELLOW GHOST」という楽曲が収録されている。そこにも死体を使った比喩が登場する。
死体みたいに重ねた僕らの身体(離れないで)/最後くらい笑ったままさよなら
この歌でも、性愛を思わせる場面が連続する。「まだ触らないで/息をしないで/怖がらないで/この目を見つめて」や「乾ききっていない首の匂い」、「肋が浮いた君の/肌を撫でながら」からは、どちらかというと情熱的な愛の場面とは違う様子がうかがえる。
ここで特異なのは、ふたつの肉体が密接に触れあう時間とは裏腹に、「震えないで/生き足りないね/この夜だけ離れないでいて」と重ねられる、別離への恐れである。最後のパートでも離れないでというワードは繰り返され、死体みたいにという比喩と併せて、静かで美しいイメージを際立たせてくれる。
同人音楽サークルである幽閉サテライトの「束縛アネモネーション」という曲に、死と愛を表現した歌詞があったなと思いだす。
むしろ恋愛感情は君から引きちぎっちゃいましょう/損得の無い家族みたいな愛を育もう/今という証がここで死んでしまっても構わないの/二人狭き部屋で押し花となり彩りは枯れない
タイトルに束縛とある通り、束縛系彼女というか、有り体に言えばメンヘラっぽい女の子の愛を歌った歌詞がつづくのだが、彼女は浮気性な相手に手を焼いているのである。そこで飛びだすのが引用した歌詞である。
ここで目立つのは二人の愛を永遠とするための(恋愛感情の)死を「押し花」と喩える一節である。生花はいつか枯れてしまう。それは自然状態でも、手折って瓶に飾ったとしても同様である。花弁は茶け、滑らかな質感は失われ、触れるだけでパズルが崩れるようにぱらぱらと壊れてしまう。だが、押し花とすることで美しい色彩が現在のかたちのまま時を止める。二人の恋愛関係を断ち切ることで、逆にその状態を永遠のものとしようという意志が、押し花によって比喩されているのだろうし、「二人狭き部屋で押し花となり」という描写自体も、愛の場面をセクシャルに色っぽく書きとっているように思う。ここで重要なのは、本来絶対的な終わりである死が、正反対の、いわば「永遠への意志」の表象として使われている点である。
Tohji、Loota、ブロディンスキのアルバム「KUUGA」にはセックスをモチーフとしていると思われるリリックが頻出することはライター・批評家のimdkmも指摘しているが(1)、そういったリリックのひとつに「夜が明けるまで鍵が閉まったままの玉手箱」(「iron d**k」、Apple Music)というものがある。
閉ざされた部屋の二人にとって、この夜は永遠に思えても、朝が来て、それ以降はもうわからない、そういう夜もある。のかもしれない。私にはそういった体験はないのでよくわからないが。ただ、玉手箱が開いてしまったら、もう時間が変えてしまった自分自身がそこにいて、二人はこれまでのままではいられないのだと思う。それはどの恋愛関係においても共通する、「そういうもの」である。
時間と人の変化という普遍の理に対して、死という終わりをあてることで、永遠を表現する。こういった構図をもとに「YELLOW GHOST」や、木下の歌を読み直すと、それが、終わってしまった愛に対して「永遠への意志」を捧げるようにも映る。死体のようにという比喩をあの日の二人の姿へ捧ぐその精神には、何か切実に信じられた純粋な愛の尊さを感じないこともなくなくない。
死によって愛を永遠と為すというのもある種のロマンスだ。定番どころだと、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が挙がるだろうか。ジュリエットに殉じたロミオの愛は確かにそこで停止して固着し、永遠のものとなった。かもしれない。確かに、そのまま生きていて、次の恋人ができて、そのまま結婚とかしていたらなんかヤな感じだ。それはあとから命を絶ったジュリエットにしても同様のことが言えよう。
だが、死んだらそこで終わりではないかと思ってしまう部分もあるのだ。愛を永遠に、など見ている私たちが感じているだけにすぎないのであって、現代的な科学を前提とした世界観でみれば、何か死んで以降のことにドリーミーな期待を託しているようにみえる。ただ、それは私たちの多くにとって自然なことなのだろうと思う。「死ねば楽になる」という定型句などもそうだが、死の向こう側について、私たちは自明に語る衝動のようなものを胸のうちに秘めているようにも思える。
しかし「死ねば楽になる」というのも、そうして死を選ぶ瞬間や、それを望む心情においては切実な祈り、ないし願いであるのは前提として、そのへんにやまほどいる「宗教的行為に自覚的ではなくそれを享受する自称無神論者」にしては、ほんのりと宗教観を感じる表現だ。科学的には「死・以降」は存在しないのだから、死によって苦しみがなくなった状態もまた存在せず、味わえないわけで、よって「死ねば楽になる(かもしれない)」という考えは、じつは成立していないのではないか。どこか死後というものを意識していないとそのような言葉はでてこないというか、心の底から、死を、タンパク質その他の物質でできた肉体におけるエネルギー生産活動が停止し、燃焼すればただ灰になるだけのことと信じていたのなら、なかなかでてこない表現であるように思う。
死によって永遠と為すロマンスも同様に、ほんのりとそうした「彼岸」を感じさせる、いわば信仰のようなものを思わせる。どこかで、死の向こう側を信じているからこそ、此岸のルールでは成し得ない永遠をそこに見出すのかもしれないと思う。だからこそ、生の対極にある死から、生の極限を見つけだすのである。それは科学的な前提からみれば幻想にすぎない。しかしそういった、永遠への意志のようなものが、私たちを私たちたらしめる、言うなれば「瞳に宿る光」の正体なのかもしれない。
(1)Real Sound「TohjiとLoota、コラボ作『KUUGA』の異質さとは何なのか 意表を突く表現の尖り」2024 imdkm
(2026.7.1 最終閲覧)
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