店長のひとりごと 罪と罰と外野席から飛んでくる石
こんにちは、店長のハイネケンです。
気がつけばもう6月ですね。
ついこの前、年が明けたような気がしていたのですが、もう今年も半分近くが終わろうとしています。
「今年こそは何かしよう」
そう思っていたはずなのに、気づけば半年近くが経過しています。
ええ、もちろんこの半年で何か成し遂げたのかと問われると、特に何もないです。
強いて言えば、ゴルフで何度か池に入れ、店の女の子に何度か裏切られ、いつもの居酒屋で頼むたびに濃さの違う水割りに一喜一憂していたぐらいでしょうか。
人生というのは、油断していると本当に何も起きないまま進んでいくものですね。悲しいですね。
さて、そんなふうに何も成し遂げないまま上半期が終わろうとしている店長ですが、最近日本のニュースを見ていて、また何とも言えない気分になりました。
例の、阿部監督の件です。
姉妹で口論していた娘を注意したところ、言い返されてカッとなり、手を上げてしまった。
娘が児童相談所に相談し、そこから警察に通報が入り、逮捕。
本人は容疑を認め、釈放後に会見を開いて謝罪。
さらに娘さんからの手紙では、すでに父親とは仲直りしていることや、警察沙汰になるとは思っていなかったことなども明かされました。
そして結果として、監督を辞任。
もちろん、暴力はよくないです。
そんなことは、わざわざ場末のカラオケ屋の店長に言われなくても、まともな大人なら分かっている話です。
感情に任せて暴力を振るったことについて、本人が批判されるのは当然でしょう。
ただ、店長が引っかかるのは、その先なんですよ。
悪いことをした。
謝罪する。
処分を受ける。
ここまでは分かる。
でも最近の日本では、何か一つ問題が起きると、なぜかすぐに
降板。
辞任。
契約解除。
活動休止。
社会的抹殺。
このへんまで、まるで流しそうめんのように一直線で流れていきます。
途中にザルがないんですよ。
法律には量刑があって、会社にも懲戒のレベルには差がありますよね。
注意、戒告、減給、出勤停止、降格、解雇みたいな。
そういった、いくつかの段階があり、事情や悪質性や再発可能性や被害者との関係性を見ながら、どの程度が妥当なのかを考えるもんじゃないですか。
ところが、世論には量刑がありません。
SNSの裁判所では、軽微な失言も、不倫も、過去の問題発言も、家庭内のトラブルも、最終的にはだいたい同じ判決に収束します。
「辞めろ」
「消えろ」
「二度と出てくるな」
非常に分かりやすいですね。
しかも裁判官は全員匿名です。
有史以来、人類が血と涙と裁判記録で積み上げてきた罪刑均衡の原則も、SNSにかかれば、コンビニのレシートみたいに丸めてゴミ箱行きです。
罪と罰のバランスなどという面倒な話は、怒っている人にとっては邪魔なんでしょうね。怒りたい人間にとって、比例原則ほど鬱陶しいものはありません。
「いや、悪いことしたんだから罰を受けるべきだろ」
もちろん、その通りです。
店長は加害者を処罰するなと言っているわけではありません。
加害者の処罰を求めることと、その処罰が適正かどうかを考えることは、まったく別の話だよね、と言っているだけです。
ところが最近は、この二つを分けて考えられない人が多いように思うんですよ。
「辞任までする必要があったのか」
「そこまで社会的に追い詰めるべき話なのか」
「被害者本人が関係修復を示しているなら、もう少し別の着地点はなかったのか」
そういう問いを投げかけるだけで、なぜかすぐに、
「暴力を擁護するのか」
「被害者の気持ちを考えろ」
「甘すぎる」
みたいな話になる。
いや、違うんですよ。
処罰の妥当性を問うことは、法治国家の最低限の作法なんですけどね。
悪いことをした奴を罰することと、必要以上に人生を破壊しないこと。この二つは両立するはずなんですよ。
しかし、今の日本はどうも、そこが苦手になっているように見えます。
以前にも言いましたが、戦後の日本は、確かにずいぶん清潔になりました。
モラルも向上した。
マナーも向上した。
コンプライアンスも向上した。
電車の中でタバコを吸うおじさんはいなくなり、職場で怒鳴り散らす上司も減り、飲酒運転も昔に比べれば考えられないほど厳しく見られるようになりました。
それ自体は良いことなんでしょう、きっと。
店長も別に、昔はよかった、などと言うつもりはありません。
昭和には昭和の良さもあったのかもしれませんが、同時に、今なら一発アウトになるような粗暴さや無神経さも山ほどありました。
職場でのセクハラ。
家庭での怒号。
酒席での無礼。
謎の根性論。
なぜか部下を灰皿で叩く上司。
それらが「まあ、それぐらいはね」の一言で見過ごされていた時代を、手放しで懐かしむ気にはなれません。
そう考えれば、モラルやマナーやコンプライアンスが向上したこと自体は、間違いなく社会の進歩なんでしょう。
ただ、その一方で、日本人は他人の逸脱を許容する鷹揚さを、どこかに置き忘れてきてしまったんじゃないでしょうか。
誰かが少しでも道を踏み外すと、社会全体が一斉にそちらを向く。
そして、本人が謝っても、被害者が許しても、組織が処分しても、なかなか怒りが収まらない。
むしろ、当事者同士が和解してしまうと、外野の怒りの置き場所がなくなってしまうのかもしれません。
「ちょっと待て。俺たちはまだ許していないぞ」
そう言って、赤の他人が家族のリビングに土足で上がり込んでくる。
考えてみれば、変な話ですよね。
店長が思うに、親子喧嘩というのは、当然あって然るべきモノなんですよ。
親子と言っても人間だから言い過ぎることもある。
感情的になることもある。
親も子も、いつも理性的でいられるわけではない。
もちろん、暴力はダメですよ。
でも、家庭というのは、そもそも人間の不完全さが剥き出しになる場所でもあるんですよね。
会社では立派な人が、家ではだらしなかったりする。
外では温厚な人が、家族にはきつく当たってしまうこともある。
それが良いと言っているのではなく、人間とはそういう厄介な生き物だという話です。
ところが、今の社会は家庭の中にまで、完全無菌状態を求め始めているように見えます。
そのうち家庭内で親子喧嘩をするにも、事前にリスクアセスメント表とコンプライアンス研修が必要になるんじゃないでしょうか。
「お父さん、その叱責は第三者委員会を通しましたか?」
「お母さん、その冷蔵庫の閉め方には、明確な処罰感情が含まれています」
「妹さん、今の舌打ちはハラスメント相談窓口に報告します」
嫌な時代ですね。
家庭内の口論ひとつにも議事録が必要になり、夕飯の食卓にICレコーダーが置かれ、親が子どもを叱る前に弁護士が同席する。
そんな家で育つ子どもが、果たして健全なのかどうか、店長にはよく分かりません。
もちろん、本当に深刻な虐待や暴力を見逃してはダメですよ。子どもが相談できる窓口があることも大事です。
家庭という密室の中で、弱い立場の人間が助けを求められる仕組みは必要でしょう。
ただ、その仕組みが発動した後に、メディアとSNSが一気に乗っかってきて、家庭内の出来事が全国民参加型の道徳裁判になってしまうことには、やはり違和感があります。
何が起きたのか。
どれほど悪質だったのか。
継続性はあったのか。
本人は反省しているのか。
被害者はどう受け止めているのか。
関係修復の余地はあるのか。
本来なら、そういう面倒くさい要素を一つずつ見ていく必要があるはずです。
でも、今の社会は面倒くさいことが嫌いです。
善か悪か。
被害者か加害者か。
許すか許さないか。
辞めるか辞めないか。
そういう二択に落とし込んだ方が、圧倒的に分かりやすいですからね。
そして、分かりやすい正義ほど、人間を気持ちよくさせるものはありません。
人間というのは不思議なもので、他人の失敗を責めている時だけ、自分の人生が少しマシに見えるんですよね。
店長もたまにやります。
有名人の失言を見て「アホだなあ」とつぶやく。
誰かの不倫を見て「だらしないなあ」と思う。
その瞬間だけ、自分が少しまともな人間になったような気がする。
でも、もちろん錯覚です。
他人の失敗を見下したところで、
店長の人生が一ミリでも良くなるわけではありません。
お店の売上が上がるわけでも、女の子が時間通りに出勤するわけでもない。
なので偉そうなことは言えません。
店長だって、人間なのだから石を投げる側に回ることはあると…
ただ、せめて石を投げる前に、自分の手がどれくらい汚れているかは見た方がいいのかも知れません。
と言いつつも、店の女の子が「雨が降ったから休む」と言ってきた時には、店長も全然寛容ではいられません。
「ふざけるな」
「雨ぐらいで休むな」
「こっちはお客さんに説明するんだぞ」
「お前は農作物か」
と、心の中で盛大に石を投げています。
でも、よく考えたら店長も、日経平均が暴落した時に、
「ちょっとタバコを買ってくる」
と言って、そのままパタヤに逃げたことがあります。
人間なんて、だいたいそんなものです。
自分の逃亡には事情があり、他人の欠勤には甘えがある。
残念ながら一貫性はあるんですよ。
自分に都合が良いように、という一貫性が。
だからこそ、他人を裁く時には、せめて少しだけ手加減が必要なんじゃないでしょうか。
清潔な社会は結構です。
コンプライアンスも大事です。
暴力もハラスメントも減った方がいい。
ただ、その先にあるのが、誰も失敗できず、誰も戻ってこられず、誰も他人を許せない社会なのだとしたら。
それは、ずいぶん窮屈なユートピアですね。
無菌室の中では、確かに病気にはなりにくいのかもしれません。でも、無菌室の中で焼酎を飲んでも、たぶん美味しくないんですよ。
多少汚れていて、多少間違えていて、多少面倒くさい人間がいるから、世の中はまだ辛うじて面白い。
というわけで、今日もマナオクラブは、完璧からほど遠い人間たちで営業しております。
遅刻する子もいます。
機嫌の悪い子もいます。
お客さんの名前を間違える子もいます。
昨日まで好きと言っていたのに、今日はLINEを既読無視する子もいます。
もし世の中の基準をそのまま当てはめるなら、うちの店は毎晩、全員が活動自粛です。
店長も含めて、関係者一同、無期限謹慎でしょう。
でも、それではお店が成り立ちません。お客さんが女の子を許しても、家賃は許してくれませんからね。
皆さんも、誰かを裁つのに疲れたら、ぜひマナオクラブへ。
ここには、正義も量刑も第三者委員会もありません。
あるのは、女の子と酒と、頼むたびに濃さの違う水割りだけです。
そして、それでだいたいの夜は何とかなります。
お待ちしております。
