言葉という牢獄 ——それでも私たちが書くことを選ぶ理由
母の言葉が、理解できなかった
実に恥ずかしい話だが……
赤裸々にいうと、私は長いあいだ、母が何を言おうとしているのかが分からなかった。
中学校と、高校。
反抗期と、その名残がまだ体の奥にこびりついていたころ。
私と母の会話は、しばしば噛み合わなかった。
そして私は、母が「言葉足らず」なのだと断じていた。
しかし今なら、そうではなかったと分かる。
母は、言葉を基準に世界を捉える人ではなかったのだ。
もっと感情に近いところで、直感で捉えている人。
私は逆だった。
論理で考えたがる。
筋道が通らないと落ち着かない。
だから、感情のままに投げられた母の言葉を、うまく受け取れなかった。
翻訳できない外国語を聞いているみたいに、ただ苛立ちばかりを募らせてしまっていた。
当時の私は、それを紛れもなく”母の欠点”だと考えていた。
でも、今は違う。
母のコミュニケーション・スタイルには、私にはない”豊かさ”があった。
言葉に頼らず、直感的に世界と触れ合える力を、母は有していた。
私はそれを、ずっとあとになって知ることになる。
自然界のものに、名前などない
なぜ、人はこれほどにも通じ合えないことがあるのか。
その答えの入り口について、ある一冊の本を読んでいる際にヒントを得た。

簡潔に言うと、私たちが生きているのは、「自然の世界」そのものではない。
私たちは代わりに、“言葉”によって立ち上げられた、”頭のなか”にある「意味の世界」を生きている。
…… どういうことか?
わかりやすくするために、大自然に自分がいるイメージを持ってみよう。




魚が泳ぎ、木が揺れ、光がこぼれ、鳥が鳴く。
そこは、おびただしい量の情報に溢れているが、そのどこを探しても「名前」が存在しない。
自然の世界にあるものには、「名前」がないのだ。
名前はあくまで、私たちの「頭」であり「意識」のなかにある。
まだ人が狩りをして食いつないでいた太古の時代、
私たちの先祖は、
(情報が氾濫する世界の中で)
・餌を得るため
・危機を避けるため
・仲間と意思疎通を図り、協力するために、
世界に「パターン」を見出そうとした。
パターンとはつまり、物事を「抽象的に捉える」ということだ。
似ている物事をグループ化し、それをひとまとめにして「認知」するということ。
…… すなわち、そこで現れたのが「言葉」だ。
言葉とは、無数のものごとを抽象化して表現するためのツールなのだ。
私たちは今、名前のない無数の事物がうごめく「自然の世界」ではなく、
それらが抽象化された言葉を基盤とした「意味の世界」の上で、生きている。
*
そして、ここからが肝心なところ。
「言葉」は、私たちの日々の”無意識”にまで影響している可能性がある。
「兄」と「弟」を区別しない世界
面白い例がある。
英単語の”brother(兄弟)” は、日本語にあるような「兄」と「弟」の区別が存在しない。
必要なときだけ “older(年上の)brother”、”younger(年下の)brother”と付け加える。
なぜ、このような差があるのか。
諸説あるが、一般的には
「年上か年下かが重んじられる社会環境だった」ため、兄と弟という、年齢を区別したbrother(兄弟)の言い方が生まれたと推察されている。
…… が、
何も「語源」の説明をしたいわけではない。
ここで重要なのは、
brother の文化に生きる人の無意識には、兄と弟の区別がそもそも「ない(ないし薄い)」
ということだ。
一方、日本語で育った私たちは、「兄弟」と聞いた瞬間、「上」なのか「下」なのか、
瞬時に(無意識にでも)区別する前提のなかで生きている。
要するに私たちは、世界の意識や理解の仕方を、自分の中の言葉に引っ張られている
(という傾向がある)。
より現実的に言えば、
私たちの”考え方”や”物事の受け取り方”は、言葉という一つの制約に(無意識のうちに)左右されたり縛られたりしている。
これこそが、「言葉という牢獄」である。
*
…… 母と私の会話が噛み合わなかった理由。
それは私たちが、異なる”言語感覚”の上に立っていたからだったのだろう。
同じ日本語を話していても、その感覚や土台となるのもは、驚くほど異なることがある。
靴の中の小石に、名前をつける
社会に出てから、私は一つの習慣を続けてきた。
・自分が感じ取ったことを、納得のいくまで言葉に落とし込む
・理解できない他者の言動に遭遇したとき、「その人が、どのような前提や状況に置かれいたら、その言動が妥当だと言えるか」を観察・想像し、納得のいくまで言葉に(そして腹に)落とし込む
など、これらを地道に繰り返した。
私は決して強い人間ではない。
むしろ、いろいろなことを感じ取ってしまう性分で、そのぶん傷つきやすかった。
靴の中に入った小石のような、言葉にならない違和感。
着々とダメージを与えてくる苦痛。
こうしたものを、なんとか言葉に紡いでいくことを、来る日も来る日も続けていた。……
結果として、いくらか進歩の実感が得られるようになった。
・海外駐在の機会を早期にいただいたり
・シリコンバレーの世界的にも名の知れた企業の幹部から、直接パフォーマンスについて高評価をいただけたり
した。
…… が、
本当に価値を実感できたのは、そうした場面ではなかった。
ふるさとの食卓で
随分と久しぶりに、故郷に帰省したときのこと。
母と、会話が成り立つのだ。
少ない言葉ではあるが、意図したい”全貌”を受け取ることができる。
・表に出ていない前提を推し量る力
・少ない機微から全体を察する力
こうしたものが、いつのまにか自分に備わっていたのだろう。
かつては翻訳できず、私のほうから距離を置いていた母の言葉は、こうして今、胸の奥底にまで、しっかりとした重量をもって届いてくる。
その喜びを、私は深く噛み締めた。
開拓者精神をもって書け
なぜ、「文学」や「詩」というものが存在するか、考えたことはあるだろうか。
たとえば「焔のつらら」という表現。
矛盾しているが、
「いま手持ちの言葉」では言い表せない”何か”を読者に伝えんとする「挑戦」として機能している。
文学とは、いま私たちが「言葉」で表せる領域(円)の限界を、さらに外側へ開拓する営みだ。
彼らは、私たちの「意識の世界」を拡張し、次の世代にバトンを渡そうと身を粉にしている。
人類は太古から、”創造”に魅せられ、挑戦をつづけてきた。
それは冒険家よろしく、制約された「意識の世界」、すなわち「言葉で表現できる範囲」を広げんとする”開拓の精神”だ。
私は、いまこの記事を読むあなたにも、その人類の精神が受け継がれていると信じている。
だからあなたは、”書く”のだ。
壁の内側にとどまらず、より大きく鮮やかな世界を見たい。——
そう思うから、人類は”書く”ことを選ぶのだ。
まとめ
・あなただけの経験
・ふとした違和感や、うまく言えない苦しさ
・妙な癖。偏愛
なんだっていい。
不器用にも、それを、なんとか言葉にしてみる。うまくいかなくても、繰り返しやってみる。
その反復こそが、
・「言葉の牢獄」から抜け出す一つの手段であり、
同時に、
・人類が永らく続けてきた”創造”という営みに参加し、私たちの「意識の世界」を少しずつ広げていく”挑戦”でもあるのだ
だから、私は書くことを選ぶ。
あなたは?
本日は以上です。
*
一つ注意点。
言葉を尽くすことは、「言葉の外」で生きる人を否定することではありません。
言葉に頼らない「直感」や「感覚」の世界の豊かさは、確かに存在します。
一方で、言葉を耕せば耕すほど、その外側の豊かさにも、以前より深く触れられるようになる利益もあります。
いずれにしてもここで言いたいのは、私たちがなぜ書くことを選ぶのか。その理由は「より大きな世界を見たい」「世界を広げたい」という人類が永らく有してきた創造の欲求と同じではないかということです。
そして書くことを選ぶ人にとって、表現できる範囲が増えることは、世界を彩り広げることに直結します。
だからぜひ、これからも一緒に、書いていきましょう。
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このアカウントについて
もともと私は、繊細で考えすぎてしまう不器用なタイプの人間でした。
会議で手を挙げようとしても、「間違っていたらどうしよう」と思い、一歩が踏み出せない。
デキる上司の前で、緊張して言葉が出てこない。
海外拠点のメンバーからは、まくし立てられて、何とか片言で返事をするので手一杯。
「できない奴」と思われることを恐れて、深夜まで仕事をし、何とか”作業量”でごまかしていました。
極めつけは、無名大学卒、TOEIC400台、加えて入社後にパワハラを受けるという、「初期値: ゼロ」の頼りなさすぎるスタート。
自信など、あるはずがなかったのです。……
ちょうど、その頃、私の逃避先だったのが「読書」でした。
ビジネス書というより、好奇心をくすぐるような変わった本を好んで読みました。
哲学、文化人類学、生物学、社会学、文学、芸術評論、などなど。……
実務とは何の関係もないはずのものでした。
が、不思議とその「関係ないもの」が、役立つものでした。
「あの会議での違和感は、この発想を軸にみると納得できる」
「この視点を踏まえて自分の動きを見ると、まだ〇〇が足りていない」
…… だからまず、xxに対して自分の行動を変えてみよう。…… といった具合です。
やがて気づけば、読了した本は500冊を超え、私はGAFAMのエリート社員と英語でタフな交渉をリード出来るようになっていました。
これは英語が話せるようになったからでも、地頭が良くなったからでもなく、
かけている「眼鏡」が変わったからだと分析しています。
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このアカウントは、その「眼鏡」を置いていく遊び場です。
いわゆる「ノウハウ」は少なめで、
何かを過度に売り込むことはしません。
代わりに、あなたが”当たり前”だと思っている視野を0.5歩だけ広げたり、ズラしたりする「発想」を、週に一度必ずおいていきます。
読了後、いつもの身の回りや職場が、少しだけでも違って見えたらなら「成功」と思っています。
もしあなたが、
・モヤモヤはあるけれど、うまく対策まで落とし込めずに悶々とすることがある
・多感で疲れ、一人になりたいときがある
・頭の中に考えはあるのに、会話のなかでうまく言葉にできず、言われるままになってしまう
・世の中の違和感を、誰かと分かち合いたい
このように少しでも考えていたら、おそらくここは、居心地がいい場所になると考えています。
実際私も、まだ探検の途中ですので
「これ面白くないですか?」と色々な”眼鏡”を渡しあえる仲間が増えたら本当にうれしいと感じています。
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