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その『また今度』は、もう来ないかもしれない

私たちは、無意識に先延ばししている

制限時間――それがないように見えて、確かに存在しているもの。

それが人生である。


人は誰しも、必ず終わりの時を迎える。

その時がいつ訪れるのかは誰にもわからない。50年後かもしれないし、5年後かもしれない。

あるいは不治の病によって余命を告げられることもあれば、思いもよらぬ事故によって、1か月後どころか明日ふいにその時が訪れる可能性すらある。

それでも私たちは、「また今度でいいか」と言いながら日々を過ごしている。


忙しいから、疲れているから、時間が合わないから――理由はいくらでもある。

そしてその判断は、一つひとつを切り取れば決して間違ってはいない。

だが、その「また今度」を何度も繰り返しているうちに、気がつけば取り返しのつかない「最後」を迎えてしまうことがある。

その「今度」は、本当に来るのだろうか。


その時間は、もう戻ってこないかもしれない

たとえば、親に会う約束。

「また近いうちに帰るよ」と言いながら、仕事や日常に追われて先延ばしにする。

その“近いうち”が一年後になり、二年後になり、やがて会える機会そのものが失われてしまうこともある。


親と過ごせる時間は、無限ではない。

実家を離れて暮らしているなら、実際に顔を合わせる回数はすでに限られている。

年に数回しか会わないのであれば、その「残り回数」は、思っている以上に少ないはずである。

それでも私たちは、「また今度」を選ぶ。


友人との約束も同じである。

「落ち着いたら飲もう」「またゆっくり話そう」――そう言いながら、日々は流れていく。

環境が変わり、生活が変わり、気がつけば連絡すら取らなくなる。

そして、ある日ふと「最後に会ったのはいつだったか」と思い返すことになる。

あのとき会っておけばよかった。あのとき時間をつくっておけばよかった。

そう思ったときには、もうその「また今度」は存在しない。


子どもとの時間も同様である。

忙しさを理由に後回しにしているうちに、子どもはあっという間に成長していく。

手をつないで歩く時間、何気ない会話を交わす時間、一緒に過ごす日常――それらはすべて、気づかないうちに「最後の一回」を終えている。


会社に通う日々も、永遠ではない。

入社した頃には遠く感じていた区切りも、振り返れば驚くほどの速さで近づいてくる。

「そのうちやろう」と思っていたことの多くは、結局やらないまま終わっていく。


この家で過ごす時間もそうである。

いつまでも続くように感じていた日常の風景は、引っ越しや環境の変化によって、ある日突然「過去」になる。


つまり私たちの人生は、「また今度」と引き換えに、確実に何かを手放し続けているのである。


人生は“また今度”の積み重ねでできている

すべての出来事には終わりがある。

そしてその時は、静かに、確実に近づいてくる。

だからこそ、「また今度」という言葉は便利であると同時に、とても危うい。


もちろん、すべてを今すぐ実行することなどできない。

現実には優先順位もあれば、制約もある。

だが少なくとも、「本当に大切なこと」に対してまで無意識に「また今度」を使っていないか、一度立ち止まって考える必要がある。


限りがあると知ったとき、今この瞬間の価値は一変する。

何気ない会話、何気ない食事、何気ない時間。

それらは決して当たり前ではなく、二度と訪れないかもしれない貴重な機会である。

そう気づいたとき、「また今度」という選択は自然と減っていくはずだ。


だからこそ、今を選ぶ

重要なのは、常に死を意識して生きることではない。

そうではなく、「限りがある」という事実を、ときどき思い出すことである。

その小さな意識の差が、選択を変える。

連絡を後回しにするか、その場で一言送るか。

会う機会を見送るか、無理をしてでも時間をつくるか。

その積み重ねが、やがて大きな違いとなって現れる。


残り時間も、残り回数も、確実に減り続けている。

だからこそ、「また今度」と言いかけたその瞬間に、ほんの少しだけ立ち止まるべきである。

その一歩が、後悔の数を減らし、人生の密度を高めていく。


その『また今度』は、もう来ないかもしれない。

だからこそ、今を選ぶのである。




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