7/23,長崎大水害ー①
1982年7月23日,長崎大水害が発生しました。この時,長崎県では,死者・行方不明者が299人に達しました。うち262人が長崎市内です。
注)1982年7月23日から25日にかけて,梅雨前線による豪雨が西日本を襲いました。この豪雨による全国の死者・行方不明者は439人,そして被害総額は初めて1兆円をこえ,1兆902億円となりました(1983年防災白書)。こうした水害もあったため,1982年の水害被害額(2015年換算)は,現在も史上3位です。

1)気象概要
長崎県では7月23日から24日までの1日雨量が,(平均)448mmに達しました。最も降水量が多かった東長崎(矢上)では,実に609mmという降水量になっています。

中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会[2005] 「1982 長崎豪雨災害」,p4
降水量はこんな感じで,かなりの集中型です。なお,この雨の降り方を「次から次に来襲する強雨の集合体」」と記している専門家がいます(荒生公雄[1986] 「10分間降水量でみた長崎豪雨の構造」『天気』Vol.33-1,p24)。いまでいう線状降水帯だった可能性があります。

上に同じ
2)人的被害
先に長崎市内の人的被害は262人と言いましたが,このうち230人が土砂災害による犠牲者でした。水死等による犠牲者は32人です。

「1982 長崎豪雨災害」,p11
長崎のどこに,土砂災害が起きるような山地があるの?と思われるかもしれません。長崎市は,江戸時代の国際都市という歴史を背負って,市町村制(1889)が引かれた当初から,「市」でした。当時の市面積は7.0k㎡でしたが,その後市域は拡大し,長崎大水害(1982)当時は,239.03k㎡にまで広がっていました。実に30倍以上の拡大です。

このように市域を拡大する場合,長崎市では丘陵地を宅地開発していくことになります(上図参照)。長崎大水害で土砂災害の被害にあったのは,こうした新興住宅地に住む人々でした。具体的な地名をあげると,川平,鳴滝,本河内・奥山,芒塚などが該当します。川平地区は浦上川沿い(南北に流れる),その他は中島川沿い(東西に流れる)の集落です。

「1982 長崎豪雨災害」,p22
3)河川の氾濫
長崎県内を流れる一級水系は本明川水系(諫早市)しかありません。県庁所在地・長崎市内を流れる河川は,すべて二級河川です。そのなかで,浦上川,中島川,八郎川の3水系が主要水系ですが,それでも浦上川9,364m,中島川5,528m,八郎川6,415mという小さな河川です。そのため,河川の氾濫面積はさほど大きなものではあるません。
ただ,だからと言って中心部の被害が小さいといえなのが,都市型水害の難しいところ。車の被害,ビルの地下動力施設の被害,電気・ガス・水道などのライフラインなどの被害が甚大であったのが,長崎大水害です。
それともう1つ,長崎大水害を象徴するのは,市内を流れる石橋の流出です。観光名所・眼鏡橋をはじめとする石橋が流出しました。そのため,同水害の中継は流出した眼鏡橋のたもとで行われることが多かったです。
→崩壊した眼鏡橋の写真は,下記新聞記事を参照ください。
