「おともだち」呼びに、違和感を「ないない」出来ない話
公園で見かけた見知らぬあの子、あなたは何と表現しますか?
4歳になる娘がまだ今より小さい頃から、ずっとモヤモヤしていたことがあります。
それは、親御さんが見知らぬ子どもを【おともだち】と呼ぶ場面でした。
その「おともだち」は「友達」ではないよね?
まだ小さい頃の娘を連れてとある公園に行った時の話。
遊んでたら他所の子と軽くぶつかってしまった。まぁ、子供同士ならよくある光景。怪我もしてなそうだしまぁまぁまぁ、だ。
相手の親御さんは駆けつけるや否や、
「コラっ!おともだちにごめんなさいは?」
ーおとも、だち…あぁ、娘の事か…初対面だけどな。
親御さんの血相とは裏腹に、この幼児語独特の「言い回し」に、今となっても戸惑いを感じているのです。
なぜ違和感を感じるのか?
ひとえに、「言葉に対して誠実にありたい」に尽きると思います。
「友達」とは、ある程度心の通いあった関係、通い合いの多少はあれど、少なくとも初対面や通りすがりではないはず。そう考えるがゆえ、「間違ったニュアンスの言葉を子供相手に無意識に使ってはいけない」と考えてしまいます。こういうシチュエーションで僕は、「他の子」とか「その子」と言った言い回しをしています。
おそらく、大多数の親御さんは特にそこに引っ掛かりなどなく、ナチュラルに使えてしまうんですよね。
僕が幼児語を使わない理由
使わない、使えないの両方があるなと思っています。
①言葉に誠実でありたい
→先に挙げたとおり。間違ったニュアンスを間違ったまま伝える事の方に弊害を感じます。
②「概念」を孕む言葉の重みと、その後の教え直しの困難さどう向き合うか
→他の幼児語ー例えば「ブーブー」「ちゅるちゅる」なんかを、「車」「麺」とか名詞レベルであれば、教え直す必要はあるけどそれほどの手間ではないです。
しかし、「おともだち」のように、概念を孕む言葉は一筋縄ではいかないような気がします。「おともだち」と思っていた子を「自分ではない他の子」と説明し直した時、きちんと「自分と他者の違い」を説明しきれるのか?
まだ先の話だけれど、小学一年生になったら「ともだち100にんできるかな」といった歌も、おそらく避けて通れなくなる。その歌に触れるような時期になったら、これまでの事実との乖離について、子供たちにどう説明をしていけばいいのか…。
或いは「ともだち100人〜」を理想とし、縛られながら生きていくのか…。それはそれで、実現できたら素晴らしい事だけれど、もし実現できなかったなら、「僕は友達が居ないダメな子なんだ…」と、自己肯定感の著しい低下を招く結果となるのではと思ってしまう。
かつて、自分の子供時代のように。
僕たちはきちんと言葉を自分の中で咀嚼して子供たちに紡ぎ出しているのだろうか?
「おともだち」呼びを呼吸をするように使う人たちは、果たしてその覚悟あっての、「おともだち」呼びなのだろうか…?
ついつい、そう考えてしまいます。
我が家の場合
ここまで幼児語に対する意見を書き連ねて恐縮ですが、妻はナチュラルに使う人です。
どうしても許せなく思う時期もありましたが、最近では、「これ自体は多様な考え方として共存してもいいのかな」と思えるようになりました。
過ぎたるは及ばざるが如しで、「正しさ」ばかりを押し付けてもそれはそれで毒になる。だったら家庭内でも「幅」があってもいいんじゃないかな、と考えました。本当に伝えたい思想は、都度伝えればいい。
あと、夫婦どちらも
「どうしてそう思った?」「どんな気持ちになった?」とか、娘に対してなるべく言語化を促す質問をするようにしているから、いずれにせよ言葉を大切にする土壌づくりは出来ています。
もちろん、感情をしっかり受け止めるまでセットです。そうして初めて娘にとっての「安全基地」たり得ると思っています。
おわりに
妻との子育てを通じて、言葉の解釈や使い方には多様な考え方があることも受け入れられるようになりました。
しかし、それでもなお僕の中の「言葉に対して誠実でありたい」という軸は揺らぐ事はありません。なぜなら、僕たち大人が子どもに手渡す言葉は、彼らが世界を理解し、自己を表現し、他者と繋がっていくための、かけがえのない土台となるからです。
大人が言葉の意味を咀嚼し、その影響を意識して紡ぐこと。その覚悟が、未来を生きる子どもたちにとってどれほど大きな財産となるかー
あなたは、今、子どもにどんな言葉を贈りますか?
最後まで読んで頂き、ありがとうございました😊
