鋼の蝶と厨二病、あるいは確定しない未来についての断章
#創作大賞2026 #エッセイ部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
第一章:鋼の蝶と、観測の始まり
一九八X年。僕の中学には校則より強い法があった――目をつけられたら終わり。校庭では改造ゴリラが土埃を噴き、教室では椅子が飛ぶ。僕は最後尾で教科書の砦を築き、机の奥からバタフライナイフを取り出した。刃はMONO消しゴムとテープで封印してある。怖かったからだ。五十を過ぎた今も、その白い角の感触だけが掌に残っている。臆病を設定に変え、観測される前に世界線をずらす。これは、その反乱の記録だ。
法律や指導要領といった公的な規約が効いてくる以前に、そこには「田舎の中学校」という名の閉鎖的な重力圏があった。理科室の静謐も、放課後の図書室の冷えた空気も、その重力からは自由ではいられない。誰かの目線が、いつも先にそこに置かれている。僕らはその目線の上で呼吸していた。
今振り返ると、あの頃の僕は、言葉を発する前に一拍置く癖がついていた。言葉を出すことは、空気に小さな穴を開けることだ。穴を開けると、たいてい誰かが覗き込む。覗き込まれるのが嫌で、僕は飲み込んだ。飲み込んだ言葉は、胃ではなく頭のどこかに溜まっていく。その溜まり方が、後になって「物語」になったのだと思う。
窓の外の校庭では、改造されたホンダ・ゴリラが「ベベベベッ!」と、安物のトロンボーンを力任せに吹き鳴らすような下品な排気音を立てて爆走していた。昭和の地方都市における、一種の野性的な儀式だった。土煙を巻き上げ、意味もなく円を描き続けるその咆哮は、僕たちの耳を削り取り、思考の連続性をぶつ切りにしていく。
その頃の僕たちの頭は、例外なく一律の坊主頭だった。
今なら人権問題の一言で片づけられるのかもしれない。でも当時の僕らにとって、それは「抵抗の余地のない前提」だった。一ミリの狂いもなく刈り揃えられた丸刈りの集団。それは収容所か、効率だけを追い求める工場で量産された欠陥部品のようにも見えた。
教卓の上では、そんな坊主頭の「クラスの王たち」が、どっちのボンタンの裾幅がより宇宙の真理に近いか、という不毛な議論に情熱を傾けていた。議論はしばしば、唐突に暴力へとスライドする。椅子が宙を舞い、合板の机が床に叩きつけられる鈍い音が響く。必ず、ケンカになる。
それが当時の僕が生きる世界の、動かしようのない「客観的現実」だった。
僕はと言えば、その混沌の最前線から遠く離れた教室の最後尾で、孤独な城を築いていた。
目の前に積み上げられた教科書は、僕にとって単なる知識の集積ではなく、外敵から自分を守るための「防弾壁」だった。僕はその砦の背後で、机の引き出しの中に自分だけの聖域を構築していた。
カバンの中から、ずっしりと重い金属の塊を取り出す。
バタフライナイフ。
それは僕にとって、単なる道具ではなかった。暗黒騎士が帯びる魔剣であり、秘密機関の暗殺者が隠し持つ特殊兵器であり、この救いようのないほど退屈な田舎町から僕を別の世界線へ連れ出してくれるはずの「銀色の翼」だった。
だが、現実はいつだって小説よりも、もっと不器用で、もっと冷淡だ。
映画『アウトサイダー』のスクリーンで、マット・ディロンたちが鮮やかに銀翼を羽化させるのを見て、僕は自分の運命を重ね合わせていた。けれど、いざ実践となると、左利きの僕の左手は情けないほどに小刻みに震えた。
僕は怖かったのだ。
鋭利な刃が自分の指を掠め、鮮血を撒き散らす場面を想像するだけで、背筋に氷の破片を流し込まれたような戦慄が走った。僕は世界で最も臆病な「暗殺者」だった。
そこで僕は、厨二病という名の奇妙な進化を遂げた患者特有の、あまりに用意周到で滑稽なソリューションを導き出した。
筆箱から「MONO消しゴム」のカドを贅沢に切り落とし、セロハンテープでナイフの刃を完全に封印したのだ。
名付けて「絶対防御(アブソリュート・ディフェンス)モード」。
これなら指は飛ばない。けれど、その姿は哀れなほど中途半端だった。ステンレスの冷たい輝きは、白い消しゴムと黄色いテープの層に埋没し、武器というより用途不明の壊れかけの文房具にしか見えない。
「……ふっ、今はまだ、真の姿を見せる時ではないだけだ」
僕は誰に聞かせるでもなく、心の中でそう呟いた。
窓の外ではヤンキーのゴリラが泥を跳ね上げ、教室内では誰かの怒号が響く。そんな時、僕の頭の中で鳴り響くのはいつもザ・ブルーハーツだった。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい……」
甲本ヒロトの剥き出しの声が、教室の喧騒を塗りつぶしていく。リンダリンダ。もしも僕が、この消しゴムだらけのナイフを、ドブネズミのような切実さで扱えたなら、僕の人生はもっと別の、美しい何かへとジャンプできただろうか。
僕はカチャ、カシャと、消しゴム同士がぶつかり合うマヌケな音を掌に感じながら、終わりのない自習時間をやり過ごしていた。
大人になった今、物理学――特に量子力学の深淵を覗き見て、僕は気づかされる。あの坊主頭の集団の中で、僕はすでに宇宙の本質に触れていたのだ、と。
量子力学には「観測」という、呪術的なまでに強力な概念がある。
ミクロの世界において物質は、観測されるまでは「波」として全方位に漂い、複数の可能性が重なり合っている。それが誰かの視線に触れた瞬間、一つの「粒子」として現実の地平に固定される。
あの日の教室で、僕という観測者は、クラスメイトたちが押しつけてくる「パシリ予備軍の、冴えない坊主頭の男子生徒」という現実を、全霊をもって拒絶していた。
消しゴムを貼ったナイフを振るいながら僕が見ていた景色は、異界の瘴気が立ち込める「もう一つの戦場」だった。僕が「ここは魔界だ」と観測し、「俺は選ばれし戦士だ」と定義した瞬間、僕の宇宙の不確定性は収束し、そこには僕だけの真実が立ち上がった。たとえ傍目には、ただ消しゴムを振り回している奇妙な少年に過ぎなかったとしても。
思えば、僕はずっと「現実」を嫌っていたわけではない。嫌っていたのは、現実が一種類しかないと決めつける、その態度だった。世界はもっと多くの層を持っているはずだ。少なくとも、僕の頭の中では。
教科書の砦に隠れ、冷や汗を流しながら僕は確信していた。いつかこのナイフを、消しゴムのガードなしで迷いなく扱えるようになった時、この退屈な中学校という宇宙は崩壊し、新しい世界線が再構築されるのだと。
「おい、何やってんだ、お前」
突然、背後から現実(ヤンキー)の重力が襲いかかってきた。椅子が飛び交う喧嘩のどさくさに紛れ、僕の聖域に「外部のノイズ」が侵入したのだ。
僕は反射的に、消しゴムまみれの「魔剣」をカバンの中に放り込んだ。
僕の観測が揺らぎ、魔法が解ける。
そこにはただ、心臓を早鐘のように打ち鳴らした汗ばんだ坊主頭の中学生が一人、座っているだけだった。
しかし、その胸の鼓動は恐怖だけから来るものではなかった。
いつか、この場所ではないどこかへ。
いつか、僕が僕として完全に開花する「別の世界線」へ。
ブルーハーツが歌う「ドブネズミの美しさ」を、いつか自分も見つけられるだろうか。この時、僕の中で「厨二病」という名の量子テレポートの準備が、音もなく整ったのだ。
一九八X年、冬。
校庭を走るゴリラの排気音は、僕にとって、まだ見ぬ多世界(マルチバース)への、あまりにも不器用なカウントダウンに聞こえていた。
第二章:Jailhouse Rock ― 監獄からのエレキギター
小学生の八〇年代前半は、テレビの影響でアイドルが全盛だった。田原俊彦、近藤真彦、野村義男、シブがき隊や少年隊。松田聖子、中森明菜、小泉今日子。彼らの放つ眩しすぎる光は、僕たちの世代にとっての共通言語だった。僕は近藤真彦が好きで、「ギンギラギンにさりげなく」のメロディを必死に覚えた。『ザ・トップテン』や『ザ・ベストテン』は週に一度の聖書だった。
けれど中学生になると、十三歳の少年にとって音楽は単なる消費物から「憧れ」へと変質していった。完成された虚像としてのアイドルから、より生々しく不完全なロックへ。サザン、ブルーハーツ、バービーボーイズ、レベッカ。彼らの歌には、僕たちの閉塞感を破る何かが宿っているように思えた。
夜、布団の中でラジカセのイヤホンを耳の奥に押し込んで聴くと、世界の輪郭が少しだけ柔らかくなる瞬間があった。あの硬い教室の空気が、音楽の分だけほぐれていく。ほんの数分、僕は別の自分になれた。別の自分というより、まだ決まっていない自分、と言ったほうが正確かもしれない。
中学三年生の頃、僕は同級生のアダチとアキラと、「高校になったらバンドを組もうぜ」と約束を交わした。それは坊主頭の重力圏から脱出するための、秘密の誓約だった。
高校入試の際、僕は新設される「福島南高校」へ行くことを決めた。福島市には東西南北で「南」だけが欠けていた。先輩のいない新設校。そこには過去のしがらみに縛られない自由がある気がした。倍率は県内でも最高ランクだったが、僕はなんとか合格し、アダチやアキラもそれぞれの場所で高校生になった。
この頃から僕の左手はクラシックギターを離れ、エレキギターという名の機械的な楽器を求め始めた。小学校二年生からクラシックギターを習っていたという薄い自負があった僕は、エレキなど余裕で弾けるだろうと高を括っていた。
だが、現実は甘くなかった。
ナイロン弦とは違い、エレキの弦は針金のようなニッケルでできていた。フレットは細く、指先にはこれまで経験したことのない鋭い痛みが走る。チョーキング、ピッキングハーモニクス、速弾き。クラシックの文法には存在しないテクニックの数々に、僕は戸惑いと挫折感を味わうことになった。
それでも、バンドは始まった。
リーダーの僕、ベースのアダチ、ボーカルのアキラ、そして「チャーボー」と呼ばれたドラムのカトウ。高校がバラバラだった僕たちは、街中の貸しスタジオを割り勘で借り、時にはチャーボーの知り合いの会社の倉庫を秘密基地のようにして練習に励んだ。
僕たちが対峙したのは音楽だけではなかった。「森企画」という名の、大人たちの商売の論理だ。普通のアパートの一室に集められた高校生バンドのリーダーたち。そこには二十代の森という男がいて、ニコニコ笑いながら「四万円の参加費」と、それを回収するための「六万円分のチケット」を僕たちに手渡した。
今考えれば未成年の熱量を利用した冷酷な商売だった。だが当時の僕たちには、それが「ステージ」という名の聖域へ昇るための唯一の階段に見えた。僕たちは自腹を切り、友人にチケットを売りさばき、自分たちで重いスピーカーを運び、コードを巻いた。
最初のライブ会場は、福島市文化センター小ホールだった。八百人が入るその空間は、僕たちにとっての「宇宙」だった。
アイアンメイデンやアンセムに心酔していた僕たちが、ステージの最後に選んだ曲は、モトリー・クルーがカバーした『Jailhouse Rock』――監獄ロックだった。
練習中、ベースのアダチが言った言葉を、僕は今でも覚えている。
「俺バカだからさ、人より何倍も練習しないと上手くならなくてさ」
その謙虚さは、クラシックギターの経験という薄っぺらなプライドにしがみついていた僕の心を揺さぶった。コツコツと自分の足元を見つめて練習する者こそが、本当の強さを手に入れる。僕は十六歳にして、そんな単純な真理を知った。
ライブ本番。四〇〇人の客を前に、僕たちは無我夢中で音を放った。出来は決して褒められたものではなかっただろう。けれど、あの瞬間に身体を突き抜けていた震えは、僕にとって紛れもない「本物の現実」だった。
その後、僕は十七歳で音楽大学を目指し、再びクラシックギターを手にする。パガニーニをギターで奏でようと、音楽室で倉本先生の指導を仰ぎ、クラスメイトの前で演奏させられるという気恥ずかしい儀式をくぐり抜けた。だが結果は不合格だった。
壁にぶつかり、脆く崩れ去った僕は、仙台の早稲田予備校で浪人生活へ突入する。寮生活の中で僕は自分の「だらしなさ」や「甘さ」を絶望的に理解し始めた。だが、そんな僕を救ったのは予備校講師たちが語るアウトローな生き様だった。現代文の川島先生、英語の河村先生。彼らが教えてくれた文学や映画の世界は、僕にとっての新たな避難所になった。
受験勉強を放り出し、一日三本の映画を観続け、ドストエフスキーの罪と罰、村上春樹の小説に出会った浪人三年目。気がつけば僕は二十歳を過ぎていた。
第三章:Sonatine ― フィルムの切断と再生、そして現在
僕が「映画館」という暗い箱を意識したのは、小学生の頃だった。機動戦士ガンダムの劇場版三部作――三本とも、全部、映画館で観ている。どこからか招待券を手に入れて、少しだけ背伸びした気分で入口をくぐった記憶がある。照明が落ち、スクリーンだけが白く浮かび上がった瞬間、世界は一枚の平面に収束して、同時に、こちら側の現実は薄くなった。あの暗闇は、僕にとって最初の「別世界線」だった。
それから『風の谷のナウシカ』。これも小さい頃、リアルタイムで劇場で観た。風が吹くたびに、スクリーンの向こうの砂や腐海の胞子が、こちら側の肺の奥まで入り込んでくるように感じた。子どもの僕は、物語というものが「すごい話」ではなく、「生き方」そのものになり得るのだと、あの時初めて知った気がする。現実を否定せずに、現実よりも深く抱きしめる力が、映画にはある。
高校の時、同級生の女の子とふたりで観に行ったのが『紅の豚』だった。二人分のチケットを出すときの、あの妙にぎこちない指先の温度を覚えている。作品の中の空は青く、台詞は乾いていて、笑えるのに少しだけ胸が痛い。僕はその暗闇の中で、「子ども」から「大人」へ移行する途中の自分を、こっそり観測していたのだと思う。
そうやって僕の人生には、いつも映画館があった。学校や家庭の重力圏から、ほんの数時間だけ抜け出すための避難口。のちに浪人生活で映画に耽溺し、一日三本も観るようになったのは、きっと偶然じゃない。僕はずっと、あの暗い箱の中で、別の自分の可能性を探していたのだ。
――一九九X年四月。僕は二十一歳で日本映画学校の門を叩いた。新百合ヶ丘の駅前には、新生活を始める若者たちの軽やかな足音が満ちていた。音楽で挫折し、浪人生活で映画に耽溺した僕が辿り着いた、最後の砦のような場所だった。
一年目の曽根クラスには、多種多様な背景を持つ人々が集まっていた。隣の席に座ったのは松川聖子という名のサバサバした女性だった。彼女もまた、自らの名前にコンプレックスを抱いているように見えた。
僕は編集コースを志望していた。黒澤明も北野武も、自らフィルムを切ることで世界を構築した。映画の真髄は編集にあると、僕は確信していたのだ。
編集という行為は、言ってしまえば「決める」ことだ。どの瞬間を残し、どの瞬間を捨てるか。どの沈黙を長くし、どの沈黙を短くするか。僕はずっと「決められない側」の人間だったから、せめてフィルムの上では決めてみたかった。現実でできないことを、現実のコピーの上でやる。そのずるさに、救われていた。
実習で作った三百フィートのショートムービー。僕はプロデューサーに立候補した。講師として現れたのは、日本アカデミー賞にノミネートされたばかりの崔洋一監督だった。彼の放つ圧倒的なオーラと、人間に対する深い洞察。
「人は隠すし、嘘もつく。本音を隠しきれないのが人間だ」
監督の言葉は、かつて僕が教科書の壁の後ろで感じていた、あの世界の違和感をきれいに言語化してくれた。
編集室で松川聖子と共に、十六ミリフィルムを回す。僕は北野武監督の『Sonatine』の音楽を流し、編集中の映像に重ねてみた。久石譲の透明で不穏な旋律が、僕たちの拙い映像を異様なまでの切なさと美しさで満たしていく。
「合うの?」と松川が訊く。
「うん、完璧に」と僕は答える。
それは著作権という現実の壁に阻まれ、決して世に出ることのない、僕たちだけの「幻の映画」だった。
卒業後、僕は松川聖子と共に東京でアニメーションの編集助手として働いた。二十四時間稼働する潜水艦のような編集室。大ヒットアニメのスタッフロールに名前が出ない日々の中で、僕は一コマ単位でデルマを引き、フィルムを繋ぎ続けた。
フィルムの匂いは、独特だった。プラスチックと薬品と、人の焦りが混ざった匂い。深夜にふと鼻の奥に残ると、いまでも当時の光景がいきなり立ち上がる。机の上の灰皿、誰かのコンビニ弁当、眠気をごまかすコーヒー。僕はその匂いの中で、「生活」と「作品」が同じ速度で摩耗していくのを見ていた。摩耗しているのに、前へ進んでいるように見える。それが東京だった。
だが、ある日、僕は自分という観測装置をリセットすることを決めた。
福島に戻った僕を待っていたのは、東京のネオンに焼きついた網膜には眩しすぎる、剥き出しの静寂だった。
地元で映画作りのワークショップを主宰し、自宅でDTMの機材を並べ、コンピューターの波形の中に新しい旋律を刻み込む。周囲の目には、それは「夢に破れて帰ってきた男の余興」に見えたかもしれない。だが量子力学における「多世界解釈」を学んだ今の僕にとって、景色は違って見える。
この宇宙のどこかには、東京で巨匠になった僕も、ロックスターになった僕も実在している。
「挫折」という言葉は、たった一つの世界線に縛られた人々のための用語だ。
厨二病を患う者にとって世界は常に重ね合わせの状態にある。
福島で過ごす日常の裏側で、僕はマルチバースの境界線を越境している。物語を書き続けることは、選ばれなかった無数の「自分」たちと交信し、その可能性をこの現実に手繰り寄せるための、高度に知的な儀式なのだ。
第四章:再会の戦場、あるいはnoteという名の映画館
深夜二時。僕の部屋を支配しているのは三十五ミリフィルムを回す映写機の音でも、ゴリラの排気音でもない。冷却ファンの微かな唸りと、静寂を切り裂くキーボードの打鍵音だけだ。
青白いディスプレイの光が僕の顔を照らしている。その光景は、二十四時間稼働する潜水艦のようだったあの編集室で、ビューアーの前に座っていた自分と、驚くほど似ている。
僕は今、noteという名の巨大で目に見えない映画館の前に立っている。
振り返ってみれば、僕の人生は一貫して「何かを手にする」ことの繰り返しだった。最初は自習時間の教室で震えながら握った、消しゴムガード付きのバタフライナイフ。次は夜行バスに乗って東京へ運び込んだ、安物のギター。そして暗い編集室で、物語の運命を決定づけるために握りしめたデルマと紙縒(こよ)りと白手袋。
それらの道具は、ある時は重すぎ、ある時は鋭利すぎ、ある時は巨大なシステムの一部だった。僕はそれらを器用に使いこなせず、そのたびに「自分は決定的な粒子になれなかった」と波の底へ沈み込んでいった。
けれど今ならわかる。
あの時流した冷や汗も、東京のネオンの下で味わった孤独も、スプライシングテープで繋ぎ損ねたフィルムの断片も、すべてはこの文章へ向かうための伏線だった。
人生という名の映画には、無駄なカットなど一つも存在しない。
たとえそれが世間から見れば「挫折」や「遠回り」と呼ばれるシーンであったとしても、物語の全体像を観測する視座に立てば、それらはすべて、エンディングの感動を増幅させるための必要なプロセスに過ぎない。
僕は時々、投稿した直後の画面を、必要以上に見つめてしまう。更新マークが回り、数字が静かに増減する。読者の反応は、心拍みたいに小さな波を打つ。たった一つの「いいね」は、物理学的に言えば取るに足らない粒子だ。けれど僕にとっては、観測の証拠になる。誰かの視線が、僕の文章に一度触れた。その事実だけで、世界はほんの少しだけ形を変える。僕はそういう種類の人間だ。
五十を過ぎて、「一発当ててやる」と本気で公言するのは、客観的に見れば正気の沙汰ではないかもしれない。
「いい加減、現実を見ろよ」
そんな正論という名の重力が、僕を地面に引きずり込もうとする。けれど僕は知っている。
現実とは固定された硬い岩盤ではない。それは観測者の意志によって、いくらでも形を変える不確実なキャンバスなのだ。
「厨二病」を拗らせ続けること。それは自分の人生という物語の主導権を、決して他人に渡さないという宣言でもある。
「一発当ててやる」と本気で思えること。
その瑞々しいまでの傲慢さこそが、僕の人生を肯定する唯一の光だ。
僕がキーボードを叩くたび、かつて開けなかった銀色の翼が、デジタルな文字となって画面上を舞い上がる。僕は今、人生で初めて、消しゴムのついていない「真実の言葉」を振り回している。
noteの投稿ボタンの上に指を置く。
これは一人の男が世界に対して放つ、新たな観測の始まりだ。
もし、この物語を読んでいるあなたの宇宙が、少しだけ揺らいだとしたら。
僕とあなたの意識が交差し、新しい世界線が生まれた証拠だ。
僕は満足げに一つ息を吐き、エンターキーを打ち抜く。
その音は、あの日、教室の片隅で夢見た「カチャリ」という完璧な金属音よりも、ずっと高く、清らかに響いた。
あとがき、あるいは観測の続き
深夜の静寂の中で、僕の耳の奥には時折、ある古い旋律がリフレインする。
それはブルーハーツでもモトリー・クルーでもなく、ナイロン弦が奏でる、どこか寂しげで均整の取れた三連符――『禁じられた遊び』だ。
僕の「観測者」としての人生は、おそらく八歳のあの応接間から始まった。
母親の実家である農家の母屋。そこにはプールのような人工池があり、洋風の応接間にはステレオやスピーカーといった、少年時代の僕にとっての「宝の山」が詰め込まれていた。
小児喘息を抱え、少しばかり体が弱かった僕は、セブンスターやマイルドセブンの箱で作られた傘が置かれたその部屋で、微かに漂うタバコの葉の匂いを吸い込みながら、黒い皮のソファに身を沈めていた。
八歳の誕生日に叔父がプレゼントしてくれた小さなクラシックギター。左利きだった僕のために、叔父はブリッジまで調整して左利き用にカスタムしてくれた。正面に座る叔父の手本は鏡のように僕の動きとシンクロした。
ギターの丸い穴の中で共鳴する音色に、僕は震えるような感動を覚えた。それは世界を物理的な振動として、初めて感知した瞬間だった。
僕が最初に乗った「映画」という名の宇宙船は、この時すでに用意されていたのだ。叔父に教わり、後に近所の教室で磨いた『禁じられた遊び』。それが映画音楽であることを知るのは、ずっと後のことだ。だが八歳の僕はすでに、ギターという光学装置を通して現実を美しい旋律へ変換する術を学び始めていた。
五十歳を過ぎた今、僕は確信している。
あの応接間でソファに寝転び、庭を見ながらうとうとしていた穏やかな時間は、僕にとっての「シュレディンガーの箱」の中の時間だったのだ。何者でもなく、何者にでもなれる。可能性が重ね合わされた黄金の昼下がり。
僕は今でも『禁じられた遊び』を弾くことができる。
指が弦に触れるたび、八歳の僕と、厨二病の僕と、映画学校でフィルムを切っていた僕と、そして今noteに言葉を刻む僕が、一つの波形となって重なり合う。
たとえ夢見た世界線の先に辿り着けなくても、そんなことはもはや問題ではない。
大切なのは、八歳のあの日に叔父がカスタムしてくれたギターのように、自分自身の人生を、自分だけの「左利き用」にカスタムし続けることだ。
僕の指先は今もキーボードの上で三連符を刻んでいる。
約一万字の物語を書き終えても、僕の観測は終わらない。
なぜならこの世界はいつだって、僕が「最高だ」と定義した瞬間に、その通りの姿を見せてくれるからだ。
窓の外。夜明け前の福島の空が、少しずつ青く染まり始めている。
それはかつて、編集室のビューアーで見つめた、あの『Sonatine』の青に似ている。
僕は静かに、最後の一行を観測する。
(完)
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