何かを選ぶことは、他のすべてを捨てること
2022年11月1日。
火曜日の昼下がり、ぼくはガソリンスタンドへ向かう車を運転していました。
助手席には6さいの息子、うしろの席には2さいの娘が眠っています。
ふたりともかぜをひいてしまい、午前中に小児科へ連れていった帰り道でした。
妻は、スターバックスのドライブスルーで買ったソイラテをすすりながら、遠くの山を見つめていました。
今週末のイベント出展と、二つのオーダー作品の納品が重なり、アトリエには緊張感が漂っていました。
金蛇水神社での展示会の期間中、打診されていたライブペイントの奉納。
妻は最初、「やります」と即答していました。
神社の神楽の舞台で絵を描くという、またとないチャンスだったからです。
しかし、子どもたちのかぜによるスケジュールの崩れや、準備の時間を計算していくうちに、妻の手は止まりました。
友人の音楽家とのコラボも考えましたが、この短い期間で納得のいくリハーサルができる自信はありませんでした。
「今回は、ライブペイントは断ることにしたよ」
妻は、ウインカーの音をききながら静かに言いました。
プロとして100パーセントの絵を届けられないのであれば、いさぎよく引くべきだという決断でした。
介護士としてはたらいていたころは、子どもがかぜをひけば、だれかにシフトを代わってもらうことができました。
申し訳なさはあっても、現場はまわっていました。
けれど、個人で仕事をするようになってからは、ぼくたちの代わりはいません。
納品に穴を開ければ、それはそのまま信用の失墜につながります。
自由であることと、すべての責任をひとりで背負うこと。
それは、つねに背中合わせのトレードオフです。
「なにかを得るためには、なにかを手放さなきゃいけないんだよね」
妻は、空になったカップをホルダーに置き、眠るむすこの頭をなでました。
ガソリンを給油するメーターの数字が、静かに上がっていきました。
やりたいことを諦める悔しさを抱えながら、妻は自分のアトリエを守るための、現実的な一歩を踏み出していました。
凡人夫の備忘録。アーティスト妻の歩み
地方の無名アーティストの妻が、東京に挑戦するまでの話。
シーズン1から、全部読めます。
独立して、迷って、それでも描く。
正解のない日々を歩くシーズン2はこちら。
生活と、創作。
泥臭い日々の記録、最新のシーズン3はこちら。
初めての個展を経て、外の世界と繋がり、
泥臭く価値を証明していくシーズン4(共鳴編)はこちら。
自己表現を確立し、他者と深く繋がっていく、
最新のシーズン5(対話と確立編)はこちら。
アーティストHannaの現在
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