人の心を動かすのは、正論ではなく「感情の揺らぎ」
2022年11月16日。
朝、キッチンの時計はすでに登園の時間を回ろうとしていました。
「早くして。時間がないよ、遅刻する」
ぼくがいくら言葉を重ねても、六さいのむすこはパジャマのまま、床に寝転がって動きません。
「母といく」
むすこはぐずり、涙を浮かべてぼくを拒んでいました。
ぼくの会社のちかくにある幼稚園へむすこを送るのが、ぼくの毎朝の役割です。
しかし、ここ最近、妻が送ってくれることが増えたせいで、むすこのなかで習慣が崩れてしまっていたのです。
ギリギリまでパソコンに向かっていたぼくは、むすこのぐずに焦り、ただ声を荒らげて説得しようとしていました。
見かねた妻が「いいよ、わたしが送っていくから」と、車の鍵を手に取りました。
むすめを抱っこして玄関へ向かう妻の後ろ姿を、ぼくはただ見送るしかありませんでした。
「ただ言葉で説得しようとしても、子どもはうごかないよ」
お昼すぎ、アトリエで絵の具を整理していた妻が、ぼくに静かに言いました。
介護士としてはたらいていたころ、妻は多くの高齢者と接してきました。
「リハビリだから歩きましょう」と言っても、嫌がって動いてくれない人がほとんどです。
そんなとき、妻は「食堂からあえて遠いルート」を通り、トイレへ行く動線のなかで自然に歩く距離を増やす工夫をしていたそうです。
「言葉で無理やり説得するんじゃなくて、じぶんで動きたくなるように仕向けるのがプロだよ」
妻は、削りかけの木片を手にとりながら続けました。
朝起きたときに、「今日はお父さんと車でこれをしよう」と声をかけること。
幼稚園へ行く途中の道に、昨日おいた石が残っているか見に行こう、と誘ってみること。
子どもが「お父さんと行きたい」とおもうような、ちいさな仕掛けを用意する。
ぼくは、ただ合理的に「時間だから行く」という要求をむすこに押し付けていただけだったと、頭を冷やされました。
「明日はお父さんと行くね」
夜、妻に言い含められたむすこが、ぼくの布団に入ってきて小さく言いました。
言葉で押し通そうとする前に、相手の感情にそっと手を差し伸べ、動線をつくること。
明日の朝は、いつもよりすこし早くパソコンを閉じて、むすこと玄関へ向かう準備をしようと、ぼくは心に決めていました。
凡人夫の備忘録。アーティスト妻の歩み
地方の無名アーティストの妻が、東京に挑戦するまでの話。
シーズン1から、全部読めます。
独立して、迷って、それでも描く。
正解のない日々を歩くシーズン2はこちら。
生活と、創作。
泥臭い日々の記録、最新のシーズン3はこちら。
初めての個展を経て、外の世界と繋がり、
泥臭く価値を証明していくシーズン4(共鳴編)はこちら。
自己表現を確立し、他者と深く繋がっていく、
最新のシーズン5(対話と確立編)はこちら。
アーティストHannaの現在
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