僕らが口にする言葉が、僕らの世界を形作っている
2022年10月23日。
土曜日のよる、玄関のドアが閉まる音が、いつもより静かに響きました。
妻のHannaが久しぶりに、友人と食事に出かけたのです。
三人の子どもたちを風呂にいれ、寝かしつけたあと、リビングは急に静まり返りました。
床には、ブロックや色鉛筆が散らばったままになっています。
食器洗い乾燥機の低い駆動音だけが、暗いキッチンに響いていました。
妻は「わたしは友達が少ない」とよく言います。
学生のころから、特定のグループで群れることが苦手だったそうです。
そのときどきに興味があること、たとえば好きなバンドのライブに行くために、インターネットの掲示板で知り合った人とその場だけつながる。
大人数の飲み会よりも、一対一で深い話をするほうを好んでいました。
今回出かけた相手は、珍しく「大人になってからできた友人」です。
近所に住んでいて、同じ年にフリーランスになり、同い年。
性格もおどろくほど似ているのだそうです。
夜の十時半をすぎたころ、カチャリと鍵があく音がしました。
「ただいま」
玄関でスニーカーを脱ぎ、アウターをハンガーにかける妻。
その動作は、どこか軽やかでした。
「彼女と話していると、自分の頭の中を客観的に見ているみたいでおもしろかった」
ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、温かいお茶を飲みながら、つまはそう言いました。
同じような悩みや迷いを抱えているからこそ、説明しなくても伝わる空気があるのかもしれません。
翌朝、目が覚めると時計の針は6時40分を指していました。
日曜日特有の、すこし遅い朝です。
まだ薄暗いリビングで、妻がスマートフォンに向かって静かに声を吹き込んでいました。
毎週続けている、音声配信の収録です。
日記をかく習慣のない妻にとって、この収録は自らの思考を整理するための時間になっているようでした。
「自分で話した言葉を、自分の耳できいて、言い聞かせているんだとおもう」
収録をおえた妻が、マグカップを両手で包みながら言いました。
「口癖って、思った以上に重いよね」
キッチンカウンターの枠に置かれた、子どもたちの連絡帳を見つめながら続けました。
「疲れた」とか「面倒くさい」とか。
ふとした瞬間に口からこぼれてしまう言葉には、自分や周りの空気を重くする力がある。
ホルモンバランスの崩れで、どうしても感情がコントロールしきれない時期もあります。
それでも、自分が発する言葉を意識するだけで、かわるものがあるかもしれない、と妻は言います。
ぼくには、数年前の苦い記憶があります。
当時、妻の身近に、何かと言えばマウントをとってくる人物がいました。
その人と接した日、妻は一日中、沈んだ顔をしていました。
家に帰ってきても、夕食の準備をしながら、ぼくに対してその人物の愚痴をこぼし続けていたのです。
キッチンのフライパンをコンロに置く音が、いつもより乱暴だったことを覚えています。
「あの人といると、自分がどんどんネガティブな感情に染まっていくのがわかる」
ある日、妻はそう言って、その人物と完全に連絡をたちました。
それ以来、家の空気はおどろくほど軽くなりました。
ネガティブな言葉が消え、代わりに次の作品のアイデアや、子どもたちのたわいもない会話が増えました。
「あの嫌な経験も、自分の言葉遣いを見直すための教科書だったのかもしれない」
妻はマグカップのココアを一口飲み、窓の外を見つめました。
「今日から、もっと良い言葉を増やしていこうとおもう」
そう言って、ぼくの顔を見ました。
「いつも子どもたちのこと、預かってくれてありがとうね」
日曜日の一日が、静かに始まりました。
凡人夫の備忘録。アーティスト妻の歩み
地方の無名アーティストの妻が, 東京に挑戦するまでの話。
シーズン1から、全部読めます。
独立して、迷って、それでも描く。
正解のない日々を歩くシーズン2はこちら。
生活と、創作。
泥臭い日々の記録、最新のシーズン3はこちら。
初めての個展を経て、外の世界と繋がり、
泥臭く価値を証明していくシーズン4(共鳴編)はこちら。
自己表現を確立し、他者と深く繋がっていく、
最新のシーズン5(対話と確立編)はこちら。
アーティストHannaの現在
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