「声」というぬくもりが、冷たい画面の向こうに届くとき
2022年10月28日。
電話を切った妻のHannaが、めずらしくパタパタと小走りでリビングへ戻ってきました。
「信じられない。さっき決まったよ」
妻の声は、すこし震えていました。
大好きな地元の金蛇水神社から、個展の期間中、神楽(かぐら)の舞台でライブペイントを奉納してほしいという依頼があったのです。
大きな板を買うのか、キャンバスにするのか、まだなにも決まっていません。
それでも、妻の頭のなかには、すでに描きたいものがありました。
若くして亡くなった、その神社が大好きだった友人のことです。
その人にむけて、絵をささげたいと妻は言いました。
妻の耳には、よく白いワイヤレスイヤホンが差し込まれています。
ダイソーで1000円で買った、安価なものです。
ある日、衣服のポケットに入れたまま洗濯機で丸洗いし、乾燥機までかけてしまったことがありました。
それでも壊れず、今でも毎日、低い音を響かせています。
妻は、家事や育児の合間に、そのイヤホンで音声配信をきいていました。
「YouTubeは目をつかうから、子どもを見ながらだときついんだよね」
ぼくがVoicyを教えてから、妻にとってそれは、現実から一時的に避難するための大切な道具になりました。
一人目の子育てのとき、妻はよく息苦しそうな顔をしていました。
当時はコード付きのイヤホンしかなく、子どもに引っ張られたりして、うまく自分の世界に入れなかったそうです。
しかし、コードのないイヤホンが、その問題を解決してくれました。
子どもがどうしても泣き止まず、どうしようもないとき。
妻は耳にそっとイヤホンを差し込み、頭のなかの焦りを音声でそらしていました。
「これで、どれだけ救われたかわからない」
そういって、妻は笑いました。
妻には、ワイヤレスイヤホンで嫌な人から離れる方法もみつけました。
以前、どうしても関わらなければならない、苦手な人物がいました。
会うたびに嫌みを言われ、心がすり減るような関係です。
妻は髪の毛で耳元を隠し、そっとイヤホンを差し込んで会話に臨みました。
大好きな音楽で相手の声を取り除き、ただ笑顔で相槌を打つ。
そうして自分の感情を守りながら、嵐がすぎるのをやり過ごしたそうです。
「不快な場所から、じぶんの心を守るために逃げるのは悪いことじゃない」
妻はアトリエの窓をあけ、冷たい風を入れながら言いました。
嫌なことから目を背け、機嫌よくいるための小さな逃げ道。
ダイソーの千五百円のイヤホンは、妻にとって、現実のノイズを消し去るための静かな防波堤のようでした。
夕方の冷え込んだ空気のなかで、妻は次のライブペイントのアイデアを、小さなメモ帳にかき留めていました。
凡人夫の備忘録。アーティスト妻の歩み
地方の無名アーティストの妻が、東京に挑戦するまでの話。
シーズン1から、全部読めます。
独立して、迷って、それでも描く。
正解のない日々を歩くシーズン2はこちら。
生活と、創作。
泥臭い日々の記録、最新のシーズン3はこちら。
初めての個展を経て、外の世界と繋がり、
泥臭く価値を証明していくシーズン4(共鳴編)はこちら。
自己表現を確立し、他者と深く繋がっていく、
最新のシーズン5(対話と確立編)はこちら。
アーティストHannaの現在
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