グラミー賞の間違いとBTSの行きたい場所


音楽のカテゴリーと、人生の旅の目的地について

 
BTSの活躍は、本当にすばらしい。FIFAワールドカップ決勝のハーフタイムショーでも、その存在感は圧倒的だった。兵役を終えたメンバーが戻り、再びグループとして世界の舞台に立つ姿には、長い旅を続けてきた人たちだけが持つ強さがある。
そんなBTSをめぐって、グラミー賞の新しいカテゴリーが議論を呼んでいる。アジアのポップミュージックを対象とする部門を設けるという構想に対し、BTSは、言語や地域によって自分たちの音楽を区切ってほしくないという立場を示し、今回のグラミー賞への参加を見送る意向を明らかにした。その態度は、とても明確で、潔いものだと思う。
グラミー側には、成長著しいアジアの音楽を称え、可視化したいという意図があるのだろう。新しい部門が、これまで注目されなかった作り手への入口になることもある。しかし、入口としてつくられたカテゴリーが、いつの間にか天井になってしまうこともある。「あなたたちはここで評価します」と別室を用意することが、主流の舞台から遠ざける作用を持つならば、それは祝福であると同時に、囲い込みにもなってしまう。

「アジアン」は音楽のジャンルなのか

ヒップホップやジャズは、歴史的な背景と音楽的な形式を持つジャンルであり、出自を問わず誰もが挑戦できる。ところが「アジアン」という言葉は、音の構造や表現の技法を示すものではない。それは主に地域やアイデンティティを指している。アジアには無数の言語、文化、リズム、伝統があり、それらを一つの音楽ジャンルとして束ねることには、どうしても無理がある。
K-POPや日本のポップスが世界的な存在感を高めたからこそ、グラミー賞は新たな枠を設けようとしたのだろう。しかし、すでに世界中の人々が聴き、歌い、踊っている音楽を、あらためて地理的な棚へ戻す必要があるのだろうか。音楽は音楽として評価されるべきだ、というBTSの主張には、きわめて単純で、それゆえに強い説得力がある。
グラミー賞は、会員の投票によって決まる。そこに一人の悪意ある決定者がいるわけではない。それでも、制度全体として、新しい音楽の担い手を中心的な部門で認めず、別のサブカテゴリーへ収めてきたのではないか、という批判は成り立つ。カテゴリーは多様性を守るための装置にもなれば、既存の中心を守るための境界線にもなる。だからこそ、設ける側ではなく、そこに入れられる側の声を聞かなければならない。
私は、グラミー賞が今回の判断を見直した方がよいと思う。ただし、この出来事の意味は、賞の制度設計だけにはとどまらない。BTSの声明を読んで私が強く感じたのは、彼らが「自分たちの行きたい場所は、そこではない」と宣言したことだった。

人生という旅には、目的地がある

松尾芭蕉が書いたように、人生は旅である。旅をする私たちは、日々起こる出来事を受け止め、そのたびに何かを感じ、少しずつ変わっていく。しかし旅には、もう一つ大切なものがある。目的地である。
自分はどこへ行きたいのか。その景色を心の中に持つことは、とても大切だと思う。目的地は、すぐにはたどり着けないほど遠いかもしれない。道は険しく、何度も遠回りをするかもしれない。それでも、「自分はここへ行きたい」という像があれば、人は努力を続けることができる。反対に、誰かが用意した行き先を受け入れるだけでは、どれほど立派な場所へ着いても、自分の旅を生きたことにはならない。
グラミー賞が新設するカテゴリーは、外から見れば名誉ある目的地に映るかもしれない。そこにノミネートされ、受賞することを望むアーティストもいるだろう。それはそれで尊重されるべきである。しかしBTSが目指してきたのは、「アジアを代表する音楽」として特別枠で称えられることではない。言語や地域の但し書きなしに、音楽そのものとして認められ、尊敬されることである。
だからBTSの選択は、賞を拒絶するための拒絶ではない。自分たちの旅の目的地を守るための選択である。「あなたたちのために、この場所を用意しました」と権威から言われたとき、「ありがとうございます。でも、私たちが行きたいのはそこではありません」と答える。その言葉には、自分たちの音楽への誇りと、旅の方向を自ら決める意志がある。

賞より先に、世界は聴いている

ある意味で、BTSはすでにグラミー賞なしで目的の多くを達成している。世界中の人々が彼らの音楽を聴き、歌詞を学び、踊り、人生の一部として受け取っているからだ。私が学会のために訪れたチリでも、BTSやK-POPの音楽は日常のなかに自然に流れていた。遠く離れたスペイン語圏の街で、韓国語の音楽が人々の感情を動かしている。その事実は、どんな賞の名前よりも雄弁である。
スペイン語圏は、BTSをはじめとするK-POPの才能を早い時期から受け止めてきた地域の一つでもある。そして今、そのスペイン語圏の音楽自体が、アメリカを含む世界の音楽シーンを大きく動かしている。バッド・バニーが主要な賞やスーパーボウルの舞台に立ったとき、英語ではない音楽が中心に来ることへの反発もあった。しかし彼は、そこで自らの言語と文化を薄めるのではなく、より広い「アメリカ」の連帯を祝福した。
バッド・バニーもBTSも、中心に受け入れてもらうために自分を小さくしたのではない。自分の言語と背景を抱えたまま、中心という場所の意味を変えようとしている。彼らが望んでいるのは、周縁のために用意された席ではなく、誰もが同じ音楽の地平で出会える場所である。そこでは英語か韓国語かスペイン語かは、優劣を決める条件ではない。異なる言葉を通して、同じ人間の感情が響き合う。

行き先は、自分で決めてよい

BTSの声明に心を動かされたのは、私自身にも行きたい場所があるからだ。まだ、そこには着いていない。少しずつ近づいているように思える日もあれば、遠ざかったように感じる日もある。それでも、目的地の像を手放さずにいるから、旅を続けることができる。
人生の行き先は、他人に決めてもらうものではない。権威ある賞が示す場所でも、世間が成功と呼ぶ場所でもない。自分が本当に行きたいと思う場所を、自分で思い描いてよい。そして、その場所へ向かう過程で、自分らしさを表現してよい。誰かが用意したカテゴリーに自分を合わせるのではなく、自分の歩みが、やがて新しいカテゴリーや新しい地図をつくることもある。
BTSを好きな人も、そうでない人も、この出来事から受け取れる問いがある。あなたは、どこへ行きたいのか。あなたの人生という旅の目的地は、どこにあるのか。BTSが示したのは、グラミー賞への異議申し立てだけではない。自分の旅の行き先は、自分で決めてよいという、静かで力強い自由なのである。
 
茂木健一郎の動画
 
https://youtu.be/A3aBbR_mfds
 
 
をAIによって文字起こしし、形式を整えました。

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