未完の生命賛歌
巣から落ちたのだろうか、毛も生えていない赤裸の燕の雛が渡り廊下で骸をさらしていた。ボクはそれを拾い上げて供養でもしようと思ったが、それはただ独りよがりなあさましい行いだと気づいてやめた。つい先日ひき殺したトンボもまだ供養していないというのに、どうして無関係の鳥なんか気にかけるのだろう。たかが虫けら、死骸などうんざりするほど見てきているので、殺したってなんとも思わなくなっていた。だから自然と命に優先順位をつけて一方を軽んじ、そしてかわいらしいもう一方は過剰に尊ぶのである。
そんな自分に嫌気がさしてきたボクは最近、おそらく虫を憎む根本的な原因であろう生理的嫌悪感に逆らうことにしている。幼いころから「キモい」と嫌悪してきた独特のフォルムと予測不可能な動きを備えているこの小さな生き物は、憎しみと好奇の対象となってきた。小さくてたくさんいるから触れられるものは好きなだけおもちゃにできるし、触れられないものは不快だから殺して捨てればいい。
もし自分が虫だったら。今はそう思わずにはいられない。「不快害虫」という言葉もあるほどだ。存在するだけで不快と断ぜられ、否応なしに排除されてしまう。四肢をもごうが水に沈めようが誰にも咎められない。もし自分がそんな命だったら、人間という巨大生物の一瞬の欲求を満たすために死んでしまう理不尽さに従うしかないのか。じゃあせめて、ボクがなるかもしれなかった不快な虫どもには巨大生物としての慈愛を注ぐべきなのではないか。無根拠な感覚に従って他の生命を簡単に終わらせてしまうより、独りよがりなりにも最低限尊ぶ方が精神衛生上いいだろう。
だから虫がいても必要以上に恐れない。無害そうなら、直に触って外に逃がしてやる。確かに嫌悪感はあるが、気持ち悪いと思わないようにすれば気持ち悪くなくなる。細かく観察すれば節々の可動域や光を反射する羽にワクワクしさえした。やはり気の持ちようなのだ。好こうと思えば、哺乳類と変わらない親しみが芽生えてくる。牛と同じように、かわいがる時はかわいがり、腹が減れば肉として口に入れることもできる気さえした。そして、ボクがその「気の持ちよう」だけを根拠に今まで数えきれない虫どもを殺してきたのもまた事実だ。文字通り虫けらほどの命を。
ある日、自転車を漕いでいたらタイヤの目と鼻の先に示し合わせたかのようなタイミングでトンボが落ちてきて、そのままブレーキをかける間もなく潰されていった。今までなら歯牙にもかけなかった死だが、ボクは声をあげて引き返した。一緒にいた友達は「ワンキルだな」と言った。不可抗力とはいえ、いともたやすく殺してしまったトンボを見てみると、それは見事な交尾中のオニヤンマだった。ダブルキルである。いいや、命の営み中だったからトリプルキル以上かもしれないな。
ボクは笑ってしまった。腹を潰されてもなお、こちらに恨めしいまなざし一つも向けずにいる。昔、どこかで「野生動物は理不尽に命を奪われても、そういうものだと思ってありのまま受け入れている」なんて言っている人がいた。ならば轢き殺した罪というものは罪悪感に苛まれた人間が勝手に自覚しているだけであって、本当は存在しないのであろうか。そうではないのかもしれない。人間ではないとしても、彼らだって本能があり、それに従って食べたり、寝たり、交尾したりしたいと思うはずだろう。暑ければ木陰に隠れ、子供には餌を運ぶ生き物だっているはずだ。そして、虫だって巨大生物には危険を感じて逃げるはずだろう。ただ語る術を持たないがゆえに、人間の目には全てを受け入れているように見えるだけだ。
ならば、もう助からないだろうが、せめてエッセイにしたためて供養としようかと思った次第である。しかし今まで殺してきた虫など数えきれない。それを一つ一つ思い出して弔辞を読み上げるのは不可能である。だからボクは合理的に彼らを切り捨てた。まあ、そもそもこの行為自体も昆虫にとっては何の意味もないものである。自分の罪悪感をすすぐためにやっているだけで、書かなかったらボクが死んでしまう、というわけでもない。
幸い、ボクは人間である。おかげさまで、虫のように好きに弄られるということはない。人の権利、ありがたい考えである。裏返せば、これが一般的ではなかった時代は、人間すらも些細な違いでいいようにされていたということになるのかもしれない。
そもそも「人間すらも」というフレーズが不適当である。その根底には、人間という生命を他と完全に特別視するあさましさが透けて見える。しかし人間であるだけの自分自身を守るにはこの上なく都合がいい。人間ならば誰しもこのアイデアを支持せざるを得ないだろう。聖書にだって人間は特別だとある。ではこれを疑うことこそが間違いであるといえる。絶対的に正しい。だから人間は食物連鎖の頂点なのだ。
もしそうでなければ大変なことだ。たとえば、宇宙人が攻めてきて瞬く間に地球の支配者となれば、彼らは人間も他の動物と同じようにみなすかもしれない。彼らと意思疎通ができなければ、苦痛に対して語る術がなくなってしまう。いちおう知的生命体、というカテゴリーにいれてくれるかもしれないが、それでも宇宙人との間には明確な線引きがある。人類がホモサピエンス以外に人権を付与しなかったように。
人類が動物として生きざるを得なかったらどうしようかとボクは考えた。武力で歯が立たない場合、ボクは生き残るためにかわいくなるだろう。ペットにしてもらって文字通り彼らの「犬」となるのだ。シャチでもいいし、サルでもイルカでもいい。とにかく、従順でかわいいいきもののようになろう。お手、伏せ、ちんちんなど、生きるためならば服を脱ぎ捨てて芸にいそしもう。人間の尊厳を保つために最後まで抵抗して「害虫」となる者もいるだろうが。
いずれにせよ、人間は特別な生き物である、という認識にボクはかなり助けられており、それゆえに罪を重ねているわけである。もちろん他の動物も殺生をしているが、やはりこの傲慢な考えのもとで殺しという行為をあるときは正当化し、あるときは楽しみ、そして独りよがりに悲しむボク自身の姿勢には後ろめたさを感じてしまう。まあそれも自分の生命が脅かされないという状況でのみ生じる余裕ある後ろめたさだろう。だからといって、なにをしようとも思わない。ボクはこれからも消すこともできない優越意識とともに生命を弄んでいく習性をぶら下げて生きていくだろう。
