自分なんて無い。だから何が正しいのか知りたかった(西部邁さんに影響を受けたはずの、藤井聡さん編集長の雑誌のことなど)
ワールドベースボールクラシック(WBC )
今さら地上波やらないの?ってなってる人に、
「情弱」 ってポスト見てそれ俺! ってなった。
実は今回は知ってたけど、それはたまたまで。
人は見たいものしか見ない。一事が万事。
働いて、現実を生きてきたつもりだが、
見たいものしか見てこなかった。ゆえ、
それほど大した現実も生きてこれなかった。

※さっき決勝でベネズエラがアメリカに勝利、
全日程が終わってしまったわけだが、この間、
何書いていいかわかんなくなってた。戦争で。
好きなのは本屋にいること! なんだけど、
そこに 「すべての答えがある」 気がするから。
だがコロナ禍。ここに答えは無い! ってなった。
その感覚、わたしにとって衝撃⚡だった。
有事のときには本屋でそのようになる。
今もそう。正解がどこにも見当たらない。
自分はホントつまんないやつだと思う。
けど、猫🐱って笑わないじゃないですか。
生きるって面白いとか、多分別の話だと思う。
「リベラル」勢力は、SNSの「#ママ戦争止めてくるわ」のように、戦前昭和の暗い社会のイメージを喚起しながら、「軍国主義」志向の高市早苗が戦前昭和の政党と同様に、戦争の準備をしていると有権者に警告を発した。
このように当時と今を重ね合わせるのは歴史の誤用である。たとえば満州事変が起きた時、立憲民政党の内閣は不拡大に努めた。あるいは日中戦争が起きる直前の首相は林銑十郎陸軍大将だったにもかかわらず、欧米協調派の外交官・佐藤尚武を外相に起用して、日中関係の修復を試みていた。
井上寿一の近代史の扉 毎日新聞2026年2月21日より
偉い先生に対して非情に申し訳ないのだが、
「#ママ戦争止めてくるわ」について…全然違う。
「戦前昭和の暗い社会のイメージを喚起しながら」 「当時と今を重ね合わせる」 と先生は言うが
わたしの感じでは必ずしもそうではなかった。
みんな言葉どおり。そのままの気持ちだった。
歴史に学べとか生かすとか誤用とか言うが、
逆に歴史が目を曇らせてるとしか思わない。
(後に続く文章も意味がよくわからない)


本を買って読みますんで許してください
本が好きとか公言したらいつしか他人からも、
本が好きな Kenzi さんと言われるようになり。
しかし! 好きは好きだが、あまり読んでない。
なので拠り所は若いころ読んだいくつかの本。
ざっくりいうと、岸田秀、西部邁、宮台真司。
人間の現実の 「すべては幻想である」(岸田秀)と、今でもよく考えるとそう思うものの、それで終ってしまうせいか、あまり支持されない。
その後始まった『朝まで生テレビ』を観ていてこの人が最強だ! とすぐにファンになったのが、西部邁さん。本もいくつか読むようになった。
さらにその後、宮台先生とのバトルにおいても
↑ この時は(リアルタイムで観ていたが)どっちかといえば若き宮台先生の「理屈」にウンザリした西部先生が面倒くさくなって帰られた。
そう思っていた。わたしの最強は揺るがない。
あくまでも西部邁が正しい(まだ若かった)
その後、宮崎哲弥さんを知り…そうだった!
90年代におけるわたしの 「若き最強」 は、『宝島30』(肩書きは『評論家見習い』だった)で知った宮崎哲弥さんだった。
その後、TBS ラジオ『アクセス』において小島慶子アナとのガチなバトルも厭わず対峙して、サブカルにも詳しく他でもない西部邁さんに 「10年に一人の逸材」 といわれた宮崎哲弥さん。
その宮崎哲弥さんが 「最も注目している人物」 として宮台真司さんを挙げられていてその頃から見直して、宮台先生の本を読むようになった。
西部先生が宮台真司さんに破れた夜だけど。
その後よく見直したがその際には何となく…だったが、今観ると宮台先生が正しいとハッキリわかる。放送終了後、実は西部先生は楽屋で宮台先生を待っていて 「これからはアナタの時代だよ」 と声を掛けられたのは本心だった。
時は過ぎて…
先崎彰容さんという人を最初に知ったのは、
Eテレで伊集院光さんが今でもやっている、
『100分de名著』の吉本隆明回で、それから若い世代の保守論客として注目しはじめた。
その後『プライムニュース』に出演されているのを(気がつけば)観るようになった(のだが)ある夜、共演者だったリベラルの権威である井上達夫さんの主張を解釈しようとされて…
対米自立をお子ちゃまって言ってないよ。
君の様な議論をお子ちゃまって言ってんだよ。
そのように否定されてしまった(4分30秒)
しかしわたしは先崎先生、偉いと思った。
その後しょんぼりしつつがんばったから。
むしろそれからより注目するようになった。
それと最近では…
力と価値、そして利益!
リアリズム! と語気が強い浜崎洋介さん。
(これぞ右翼! ですよね)
だが、わたしは與那覇 潤(よなは じゅん)さんの方が現実を見ているリアリストだと思った。
「天皇を目の前にした時に、憲法ごときといってしまいますね。つまり天皇の方が圧倒的に上…」
そして 「それは僕の精神性」 だそうで。
「気質に基づいているか」 が判断の基準だと。
ところで保守とは?
↓ 中島岳志さん(2度めの引用になるが)
西部は保守思想のエッセンスを提示するとともに、「自由民主主義は保守主義であらざるを得ない」と説いていました。保守は人間に対する懐疑的な見方を共有し、理性の万能性や無謬性を疑います。そして、その懐疑的な人間観は自己にも向けられます。自分の理性や知性もパーフェクトなものではなく、自分の主張の中にも間違いや誤認が含まれていると考えます。そのような自己認識は、異なる他者の意見を聞こうとする姿勢につながり、対話や議論を促進します。そして、他者の見解の中に理があると判断した場合には、協議による合意形成を進めていきます。これが保守のリベラル (寛容) な態度に他ならない、というのが西部の「リベラルマインド」論でした。
「私と保守思想」より(集英社新書)

(↑けっこうこれに尽きるかも)
言い訳だが、学者や批評家、思想家の先生みたいに圧倒的な量の本を読んでいるわけがないしそもそも基本的な知識すら圧倒的に足りない。
という立場だと、誰が、どなたこそが正しいことを言っているのか、そして誰と誰が考え方や主張を同じくして、例えば同じ雑誌を作ってそこに誰を招いて対談をしたり記事を載せたりするのか…とかいった思想や主張の 「同じくするところと、相容れないところ」 が明確にはわからない(まあ自分の人間関係もそうですが)
面倒くさいからわたしの感じを端的に(雑に)いうと、西部邁さんが立ち上げた『発言者』の後継誌?である『表現者クライテリオン』が…
例えば石破茂さんを (石破茂という)「恥辱」 などと侮辱してまで 「特集」 したり、高市早苗さんを (公平で公正な日本を導くための)「大転換」などと 「激推し」 したりするような雑誌になっているのがよくわからない。
西部邁さんがそんなことをするとは思えない。
藤井聡さんみたいな、高市早苗さんを 「激推し」 するような方が編集長だったり、浜崎洋介さんみたく 「語気ツヨ」 そうな方々が編集委員だったり…なぜにそんな雑誌になってしまったのか。
あ、もしかしてだけど…商売?
『表現者クライテリオン』って『WiLL』(ウィル)とか『月刊Hanada』みたく売れることに気づいた結果なのか。既にネトウヨ雑誌か。

中島▶️そうですよね。援助交際をやっている女の子を意味から解放された存在として賞揚したり、あるいは僕たちの世代は「まったり世代」といわれて、強度を求めて終わりなき日常を生きる世代みたいに、評価をされたりして、それに戸惑うという世代だったんですよね。そうなのかなぁと思いながら僕は、一浪して94年に大学に入ったんですけど、ちょうどその四月に『発言者』が出るんですよ。94年の創刊。大学に入って、その準備号か一号か買っているんですよね。それが僕の思想っていうものに対する触れた瞬間でした。宮台真司さんと西部先生。僕ってじゃあどっちなんだっていう感じだったんですよね。それで僕はどんどん西部先生の本とか、周りの人たちのものを読み始めるっていう感じでした。
『表現者クライテリオン』2019年9月号
中島岳志(ゲスト)の発言より
(畏れ多いが)
若いころの中島岳志さんの感覚が私と一緒だ。
「宮台さんのものも熱心に読みました。しかし、やっぱり西部先生のある種の理性の無謬性に対する一つの批判みたいなものに対して、僕自身はなるほどなぁと思ったんですよ。その、人間の理性を超えたところに英知があると。いわれてみればその通りであろうと」
そう振り返る中島岳志さんの発言に対して…
宮崎▶️でも考えてみれば、宮台氏が昔よく独特の用法で多用していた「強度」とか「匂い」とかだって、理性を超えたところにある何かでしょう。私は、彼とも西部邁とも違って、社会思想においては飽くまで理性主義的、設計主義的なので、逆に「理性を超えた」部分をまるで実体的なものであるかのように、フラットに「言表」してしまう彼らの姿勢に違和感を覚えたんだけど。
『表現者クライテリオン』2019年9月号
宮崎哲弥(ホスト)の発言より
↑ このように返す宮崎哲弥さんの発言がまた…
この座談会、いま改めて示唆に富むなぁと。
そんなルソーについて考察したスタロバンスキーは、ルソー思想のキーワードとして 「透明」 と 「障害」 をあげている。人間関係に深く悩んだルソーは、近代人が他者との関係性において障害物を築いていると考えた。人は本来、全人格的なつながりを持ち、透明な精神の交流を行う。しかし、近代人は 「外観」 による上っ面の社交を繰り返すうちに、他者との間に障壁を築き、関係の透明性を失っていった。近代人が疎外から脱出するためには、内的に構築した 「障害」 を取り除き、透明な関係を取り戻さなければならない。これがルソーの悲痛な叫びだったと、スタロバンスキーは読み解いた。
元予備校講師のJOさんに薦めてもらった、
中島岳志さんの『縄文』がとても良い。
それと田村正資さん。
(新書がテーマの連載から)
もっとも興味深く読んだのは、「現実とフィクション」と題された第五章だ。エロマンガにおいては、規範を逸脱したエロ表現(フィクション)とそれを受容する社会(現実)との摩擦が問題になる。エロ表現が社会に有害だと告発しているとき、そこで起こっているのは現実をフィクションのように扱ってしまうことであり、両者の混同だ。その極端な例が、山本が『レッド』で題材とした、連合赤軍が山岳ベースで引き起こしたリンチ殺人なのだと示唆される。
田村正資「新書のツボ②」
『群像』2026年4月号より
昨日やっと入手できた『群像』(4月号)で、田村正資さんがマンガ家の山本直樹さんがちくまプリマー新書から出した『エロってなんだろう?』を取り上げていて…
「究極の現実としての人の命と、その生活を彩る道具としてのフィクション。絶対的なはずの両者の優先順位がひっくり返ってしまうことを山本は『現実とフィクションの混同』だとして批判する」として(孫引きになるが)
「人が生きて暮らして死ぬよりも大事なものがある」という主張は、現実とフィクションの混同です。その最大のものは、国家が行う戦争です。
ちくまプリマー新書(P106)より
という山本直樹の(おそらく最大のポイントとなる)主張を引きつつ…
「山本は別の箇所で『人の命より大事なものがあるというのは、全部「原理主義」なんです』(P108)とも語っている。誰かと繋がるための言葉の反響すら、PVやいいねの数で測り知るばかりのこの時代に、フィクションではないこの命を考えるとはどういうことなのか。青春と赤軍のマンガ家は、思想家ではなくひとりの人間として私たちに問いかけてくる」
と締めくくる。
本当に。
フィクションじゃあねえんだよ!
若いころに心酔するロマン的なリアリズムと、
年取って声も体も細くなったリアリズムとでは
自ずと地に足がついた別ものになってくるよね
フィクションではない、非力のリアリズムを!

