小春ちゃんは、本を薦めるのが少し苦手 #3
小さな書店併設カフェ「かーでぃ書店」には、今日も何かを探す人がやってきます。本を通して、誰かの気持ちが少しだけ動く。これは、そんなやさしい物語です。
登場人物
小春:高校生アルバイト。やさしくて少し天然。
木村誠:店長。寡黙で誠実。本とコーヒーが好き。
前の話
第三話 春の相談と、一冊の本
四月。新年度が始まり、街の空気は少しだけ落ち着かない。
新しいスーツに身を包んだ人たち。
真新しい制服にまだ着られているような学生たち。
駅前大通りを走る路面電車の向こうにも、どこか「始まり」の気配があった。
けれど、かーでぃ書店の中だけは、いつもと同じように静かな時間が流れていた。
窓際の席にやわらかい春の光が差し込み、木の棚には本がきちんと並んでいる。カウンターの奥では、店長がいつものようにハンドドリップでコーヒーを淹れていた。お湯の細い筋が落ちる音と、ふわりと広がる香り。そのどちらにも、急ぐ感じはなかった。

「外はなんだか、そわそわしてますね」
新たに入荷した本を棚にしまいながら、小春は小さくつぶやいた。
「新年度だからですかね」
店長はドリッパーから目を離さずに、静かに答える。
「たぶん」
たったそれだけの返事なのに、不思議と会話は途切れなかった。
小春はくすっと笑う。
「でも、ここはあんまり変わらないですね」
「変わらないほうがいい場所もあるから」
店長らしい言い方だな、と小春は思った。たしかに、この店は、そういう場所なのかもしれない。
ドアベルが鳴ったのは、そのときだった。
からん、と軽やかな音がして、ひとりの男性が店に入ってくる。
常連の佐藤さんだった。
かーでぃ書店では、もうすっかりおなじみの人だ。店長とはチェアリングとコーヒーの仲間で、時間のある日はふらりと立ち寄っては、店長の淹れたコーヒーを片手に世間話をしていく。
けれど、今日は少し様子が違っていた。
歩く速さが、いつもよりほんの少しだけ早い。表情も、どこか落ち着かない。

「木村さん、悪い。今日はちょっと相談で」
店長は顔を上げ、佐藤さんを見た。
「どうしました」
「コーヒー、あとで頼む。……いや、やっぱ先にもらおうかな。落ち着きたい」
「わかりました」
その短いやり取りだけで、店の空気がほんの少し切り替わった気がした。小春もそれを感じて、棚に戻しかけていた本をそっと抱え直す。
店長が佐藤さんの前にカップを置く。
湯気の立つコーヒーを前にして、佐藤さんはようやく一息ついたようだった。
「客先の工場でさ。たぶん、ランサムウェアにやられたっぽいんだ」
小春の手が、ぴたりと止まる。
聞き慣れない言葉ではない。ニュースやネットでも見かけることはある。けれど、誰かの“知っている場所”の話として聞くと、急に重さが違って感じられた。
「まだ詳しい状況は、俺もちゃんと聞けてない。どこまで被害が出てるのかも、何が残ってるのかも、正直よくわからないんだ」
佐藤さんはカップを持ち上げ、ひと口飲んでから続けた。
「ただ、社長さんが相当まいってるらしくてさ。そりゃそうなんだけど。で、俺としては、復旧したあとに同じ轍を踏まないために、何を伝えたらいいのか考えたくて」
その言葉に、小春は少しだけ視線を落とした。
“同じ轍を踏まないために”。
責めるためでも、叱るためでもなく、次のために考えたい。そう思ってここに来たのだとわかって、佐藤さんらしいな、と少し思う。
店長はすぐには答えなかった。急いで正解を口にするのではなく、言葉の置き場所を探すように、短い沈黙を挟む。
「原因を調べるのも、もちろん大事です」
やがて、店長は静かに言った。
「でも、最初に考えたほうがいいのは、守れていたかどうかより……戻せるかどうか、かもしれません」
「戻せるかどうか?」
「はい」 店長はうなずく。
「バックアップを取っているでしょう。でも、いざというとき"本当に復元できるか”は、別の話なので」
佐藤さんは、コーヒーの表面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……ああ。たしかに。“バックアップあります”って答えは多そうだけど、“ちゃんと戻せます”と、答えれるところは少なそうだな」
「そこに差が出ます」
店長はそう言って、カウンターの奥の棚へ歩いていった。数冊並んだ本の中から、一冊を取り出して戻ってくる。
表紙を見た佐藤さんが、思わず苦笑した。
「うわ、刺さるタイトルだな」
店長が差し出したのは、
『そのバックアップ、正しく復元できますか?』
だった。

「まさに、いまの相談に近い本です」
佐藤さんは受け取った本の表紙をしばらく見つめている。
「“取っている”と“戻せる”は違う、か」
「バックアップは、あるだけでは足りません。戻せる形で残っていること。戻す手順がわかっていること。できれば、実際に試したことがあること。そこまで含めて、備えだと思います」
「耳が痛いなあ……」
「痛いうちが、まだ間に合う時期です」
店長の言葉はきつくないのに、まっすぐだった。責める響きはない。ただ、逃げ道もない。
小春はその会話を聞きながら、抱えていた本をそっと棚へ戻した。専門的なことは、正直よくわからない。けれど、言おうとしていることはなんとなく伝わってくる。
店長がよく言う。
本も、コーヒーも、道具も、ただ“ある”だけでは足りないのだと。必要なときにちゃんと手が届いて、使えて、初めて意味があるのだと。
「あの……」
気づいたら、小春は口を開いていた。
二人の視線がこちらを向く。少しだけ緊張しながらも、小春は続けた。

「本も、棚にあるだけじゃ読めないですもんね」
「え?」
佐藤さんが目を丸くする。
「読みたいときに取り出せて、ちゃんと開けて、読めて、やっと役に立つというか……。バックアップも、似てるのかなって」
一瞬だけ静かになって、それから佐藤さんがふっと笑った。
「……ああ、なるほど。そう言われると、すごくわかりやすいな」
店長も、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「そういうことです」
小春は少しだけほっとして、でもちょっと照れくさくなって、視線を落とした。
春の光は、窓際の席から少しずつ角度を変えて、店の床にやわらかな影を落としている。外では新年度らしい慌ただしさが続いているのだろう。
けれど、この店の中では、言葉が急がずに届いていく。
佐藤さんはもう一度、本の表紙に目を落とした。
「社長さんに聞いてみるよ。“バックアップはありますか?”じゃなくて、“ちゃんと戻せますか?”って」
「それだけでも、見えるものは変わると思います」
「うん。たぶん、そこからだな」
来たときよりも、佐藤さんの表情は少し落ち着いて見えた。
問題が解決したわけではない。状況が急によくなったわけでもない。
でも、次に何を考えればいいのか。
どこから話を始めればいいのか。
その輪郭だけは、少し見えた気がした。
佐藤さんはコーヒーを飲み干し、本を手に立ち上がる。
「ありがとう。なんか、頭の中が整理できた」
「それはよかったです」
「今度は、もっとのんびりコーヒー飲みに来るよ」
「そのほうが佐藤さんらしいですね」

そんなふうに笑って、佐藤さんは店を出ていった。ドアベルが鳴って、扉が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。
小春は窓の向こうに遠ざかる背中を見送りながら、そっと思った。
新年度になっても、店は変わらない。
けれど、この店を出ていく人の中には、来たときより少しだけ、進む方向が見えている人がいる。
小春は、それが少しうれしかった。
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