心を守るのは感情ではなく論理
昨日は「感覚的」と「論理的」について投稿しました。
人間の脳は左右に分かれており、それぞれ司るものが違うと言われています。
「脳」という部位は一つですが、左脳と右脳を分け隔てて考察することはよくあることでしょう。
では、「心」はどうでしょうか?
心には実体がなく、その「あるはずのモノ」に私たちは一喜一憂してしまいます。
個人的な意見ですが、心というモノにも脳と同じように、対でありながら相反するような特性があると考えています。
「主観的と客観的」や「ソーシャルとプライベート」、「躁と鬱」「開放的と閉鎖的」…などですね。
これも個人的な見解ですが、心には本来、言語化できる事象はないのではないかと感じています。
人間には言語があり、脳という器官が言語処理をする過程で、心の在りようを言語に沿った「感情」という状態に当てはめているのではないでしょうか。
また、「感情的」と対をなす考え方に「論理的」を据えるのなら、論理こそ、まさに脳によって生み出される、心の操縦桿と捉えることも出来るのではないでしょうか?

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私も長年、学歴コンプレックスを抱いていた人間なので、あまり掲げたくはないデータなのですが、日本において「学歴」によって違いが出るのは年収だけではありません。
最終学歴が「中学校卒業」と「大学卒業」の場合、「中学校卒業者」の方が「大学卒業者」よりも、圧倒的に犯罪率が高いのです。
…これは法務省が統計を取っているデータなのですが、間違えてほしくないのは、学歴が低くても、誠実に実直に生活されている方は数多く存在します。
私の友人にも「中卒者」はいますが、社会に出て懸命に生き抜いた彼らの慧眼は素晴らしく、本質的な課題を捉える能力や生活に必要な知識量は、高学歴者よりも高いことも大いにあります。
犯罪率の高さを紐解くと、「感情」と「論理」の二つが関係していると推察できるのではないかと、私は考えています。
私たちの知識量を量る一つの指標に「言語力」があります。
【言語力】
言語力(げんごりょく)とは、言語を用いて思考し、その思考した内容を正確に伝達する能力。
(Wikipediaより)
感情というのは、本来は非言語的コミュニケーションで捉えられる心の在りようです。
顔の表情や態度、無自覚的なしぐさや普段は見られない発汗や紅潮などの身体的特徴など…。
乳幼児を想像すると理解しやすいと思うのですが、赤ちゃんはお腹が空いても、眠くても、具合が悪くても泣きます。
赤ちゃんは言葉を発することが出来ませんから、「泣く」という行為で自身の状態を伝えるのです。
私たちが年齢を重ねるごとに泣かなくなるのは、言語を用いて自身の状態を伝えることが出来るようになるからです。

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成人した後でも、言語化できない感情が込み上げたとき、私たちは涙します。
しかし、知識を増やすと言語力が高まり、抽象的な事象についても、それに対応した言語を選定することが出来るようになります。
その結果、感情を感情のままに非言語的コミュニケーションという手段を取ることが減り、言語的コミュニケーションに切り替えていくのです。
学歴が低いというのは、一般的には学習の機会損失という考え方に当てはめることができ、感情表現を言語表現にする手段を逸することにつながります。
…もちろん、私の友人のように、社会に出てから独学で学ばれる方も大勢いらっしゃいます。
しかし、事実として、感情を論理で制することが出来ずに犯罪行為に走ってしまうケースはあるのです。
…このことから「心」というモノは、目に見えず、感情や感覚を司っているように捉えがちですが、実は脳と密接に関係しており、「心の未成熟」とは「脳の未発達」とリンクする要素があるのではないか、というのが、今回の私の持論です。
つまり、「心のままに素直な気持ちでいることが自分の心を守る」と考えるのではなく、「心を守るのは感情表現をしっかりと論理的な言語表現に置き換えることが出来るかどうか」ということです。
賛否あると思いますが、ご一考いただけると幸いです。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
