感情への畏怖
感情的に話をされることが苦手です。
好きや嫌いで判断されることに違和感を感じます。
愛や誠実さを美徳だと考えることは、本当に正しいことなのかと疑問視しています。
感情とは、人間に生まれ落ちた以上、誰もが備えるものであると同時に、自我を見失い、非効率な活動の元凶となるものです。
経済学や心理学、社会学などの多くは、性善説であったり、人間が合理的な行動を取ることを前提に物事を定義づけています。
しかし、人間は合理的ではありませんし、生まれながらに善であるとしても、その「善」の定義が文化や風習、生育環境によって左右される以上、何を以って善なのか、誰も知る由もないことでしょう。
私は、感情という、自分の中にも存在する、見えず、制御できないモノが怖いのです。
なぜ、私たちは見えない感情に振り回され、苦しまなくてはならないのでしょう?
私たちには、好奇心や探求心があります。
それは、未知を既知とすることが、人間の生存率を高めるからです。
しかし、人類の歴史がどれだけ続いても、感情のメカニズムは未だに既知とはなりません。
むしろ、調べるほどに、知ろうとするほどに、より分からなくなるものだと思うのです。
あなたは、このような感情と、どのように向き合っているのでしょうか?

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私は、HSPと診断されたことはありませんが、他者の感情に敏感に反応してしまう傾向にあります。
怒りや悲しみ、焦りといった負の感情を感じると、震えが止まらなくなり、吐き気や明識困難状態に陥ってしまいます。
【明識困難状態】
ごく軽い意識混濁。外界の認知は保たれているが、正常よりやや不活発でぼんやりしている。
逆に、喜びや楽しみ、幸福感といった正の感情を感じると、その感情が続かないことを考えてしまい、その先にある負の感情を先んじて考えてしまい、これまた、震えや悪寒が出てしまいます。
私は、感情的に話をされることが苦手です。
それは、表層に出ている感情だけではなく、相手の内側で渦巻く感情も感じ取ってしまっているからだと思うのです。
一見、楽しそうに話をしている人を見ても、その人のわずかな視線の動きや身体行動から読み取れる心理情報、言葉の抑揚や用いる語彙から、感情を感じ取ってしまいます。
どんなに理屈を並べられても、言葉の奥に好きや嫌いで判断している要素を感じてしまうと、合理的ではなく感情的に事を進めていると認識してしまうのです。
この感覚は、裏を返せば、相手の感情を察知するわけですから、悩んでいたり、苦しんでいる方や、表に出せない感情を抱えている方を見つけやすいという特性も持っているのだと思います。
そういう意味では、仕事上で重宝する能力でもあるのです。

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私は、感情に対して怖いと感じていると同時に、憧れも抱いています。
自分の中で渦巻く感情を表に出せたら、どんなにいいことだろう…と。
ですが、理性がそれを抑えてしまいます。
感情的になりたいと思っても、理性が踏み出すことを許さないのです。
きっと、この感情は、誰かに伝えるべきではない、知られてはならない…と、心のブレーキが働いてしまうのです。
声を荒げ、自らの考えや感情を表に出せる人と対峙するとき、私は吐き気や悪寒、震えと共に、羨望の眼差しで、まるで崇めるように相手を見ているのかもしれません。
このような、感情を表に出せない人は、少なからずいることでしょう。
そのような方々に、解放的になれと身勝手なことは言えませんし、私は、言われたところで、余計に出来ないと殻に閉じこもってしまいそうです。
ですから、私が伝えたいのは、感情的になることも、それが出来ずに苦しまれていることも、当然に在ることなのだと知ってもらいたいのです。
あなただけが抱えているモノではないのです。
感情への畏怖は、ある意味では「感情を持っているからこその感情」なのかもしれませんね。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
