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ダブルスタンダードとは何か、あらためて考えてみた

最近、また世間が騒がしい。

ニュースを見ても、SNSを見ても、誰かの発言や態度が、あっという間に話題になる。

昨日まで許されていたことが、今日は許されなくなる。
ある人には厳しいのに、別の人には甘い。
同じようなことをしていても、相手によって評価が変わる。

そうした様子を、私たちはよく「ダブルスタンダード」と呼ぶ。

日本語にすれば、「二重基準」といったところだろう。

同じものを判断しているはずなのに、相手や状況によって違う基準を使う。自分には甘く、他人には厳しくする。仲間なら許すのに、嫌いな相手なら同じことでも強く責める。

けれど、ふと思う。

ダブルスタンダードとは、本当にただの矛盾なのだろうか。

もちろん、意図的に基準を使い分けている人はいる。

自分に都合よくルールを変え、相手だけを裁き、自分だけは責任から逃げる。そうしたずるさは、たしかに存在する。

しかし、それだけでは説明できない場合もある。

なぜなら、本人は嘘をついているつもりがなく、本気でそう考えていることがあるからだ。

昨日と言っていることが違っていても、本人の中では矛盾していない。相手によって態度が変わっていても、本人の中では不公平ではない。

その時々で感じたことを、そのまま正しいものとして受け取っている。

昨日の自分が何を言ったのか。
相手がこれまで何をしてきたのか。
今日の判断が未来に何を起こすのか。

そうした前後のつながりよりも、今この瞬間の感情が強くなっている。

そのとき、その人にとっては、その感情こそが真実なのだ。

もしかすると、ダブルスタンダードとは、悪意だけから生まれるものではないのかもしれない。

それは、人間の中にある「軽さ」が表に出た現象なのではないだろうか。

人間は、最初から人間なのではない

私たちは、生まれた瞬間から、正しさや責任を知っているわけではない。

最初にあるのは、もっと生き物に近い反応だ。

快いか、不快か。
安心か、不安か。
好きか、嫌いか。
得をするか、損をするか。
近づきたいか、離れたいか。

赤ん坊は、社会のルールを知らない。過去と未来を比べて、長い目で判断することもできない。ただ、今起きていることに反応する。

そこへ少しずつ、言葉が重なる。

人との関わりが重なる。
教育が重なる。
失敗が重なる。
自分の行動によって、誰かが喜んだり傷ついたりする経験が重なる。

そうした積み重ねの中で、私たちは、自分の気持ちだけではなく、相手の立場や、過去から続く事情や、これから起こることまで考えるようになる。

つまり人間とは、ただ生まれてくるものではない。

生き物として生まれた私たちが、人との関わりの中で、少しずつ「人間になっていく」のだと思う。

だから私たちの中には、いつも二つの面がある。

目の前の出来事に、そのまま反応する面。
社会の中で、他人や未来のことまで考えようとする面。

この二つは、きれいに分かれているわけではない。

どれほど立派なことを言う人でも、疲れていれば考えが浅くなる。余裕がなければ、目の前の感情に引っ張られる。不安や恐怖が強ければ、過去や未来よりも、今すぐ安心できるものを選びたくなる。

だから、ここでいう「軽さ」は、特定の誰かだけが持つものではない。

私の中にもある。
おそらく、誰の中にもある。

ここでいう「軽さ」とは何か

軽いという言葉は、ときに人を見下す表現として使われる。

けれど、この記事でいう軽さは、頭が悪いという意味ではない。性格が悪いという意味でもない。

私がここで「軽さ」と呼んでいるのは、過去や未来、責任や考え方の軸を、自分の中に持ち続ける力が、まだ十分に育っていない状態のことだ。

自分が以前に何を言ったのかを覚えておくこと。
目の前の選択が、未来に何を起こすのかを考えること。
自分の言葉が、誰かに届き、影響を与えると知ること。
自分の感情を、そのまま世界の正しさにしないこと。
その場所が、どのような時間をかけて作られてきたのかを考えること。
自分が今、どの立場から話しているのかを確かめること。

こうしたものを持ち続けるには、ある種の「重さ」がいる。

その重さが弱いと、人はとても動きやすくなる。

褒められれば近づく。
不快なら攻撃する。
優しくされれば信じる。
流行すれば乗る。
周囲が怒れば、一緒に怒る。
周囲が許せば、自分も許す。

それは身軽さでもある。

しかし、身軽さは一歩間違えると、自分で動いているのではなく、周囲の空気に運ばれているだけの状態になる。

まるで、風に運ばれる羽根のように。

右から風が吹けば左へ流れ、別の風が吹けば、また違う方向へ動く。

本人は自分で判断しているつもりでも、実際には、周囲の感情、流行の言葉、強い声、その場の雰囲気に揺らされている。

このとき、ダブルスタンダードは起こりやすくなる。

二つの基準があるとは限らない

一般的には、ダブルスタンダードとは、二つの基準を使い分けることだと考えられている。

けれど、本当にそこには、二つのはっきりした基準があるのだろうか。

もしかすると、基準そのものが、まだ固まっていないのかもしれない。

その場の感情が基準になる。
その場の相手が基準になる。
その場の空気が基準になる。
その場の損得が基準になる。
その場の多数派が基準になる。

だから、昨日と今日で変わる。
自分と他人で変わる。
仲間と敵で変わる。
好きな人と嫌いな人で変わる。

そこにあるのは、二本のしっかりした物差しではない。

むしろ、物差しそのものが柔らかくなり、その場に合わせて曲がっている状態に近い。

私はこれを、基準が水のように流れ、形を変えてしまう状態だと考えている。

少し難しい言い方をすれば、「基準の液状化」と呼べるのかもしれない。

液体は、入れられた器に合わせて形を変える。

同じように、判断の基準も、相手や空気や感情という器に合わせて形を変えてしまう。

本来、基準とは柱のようなものだ。

誰が相手でも、風が吹いても雨が降っても、簡単には倒れず、一定の場所に立っている。

もちろん、基準は絶対に変えてはいけないものではない。

時代が変わり、新しい事実が分かり、これまでの考え方が間違っていたと気づけば、見直す必要がある。

けれど、考えた末に基準を変えることと、その場の感情に流されて変わることは違う。

新しい事実を受け入れて考えを改めることと、自分に都合のよいときだけ基準を曲げることも違う。

軽い状態では、その違いが見えにくくなる。

なぜなら、その瞬間の感情は、本物だからだ。

今、不快に感じている。
今、安心している。
今、この人を好きだと思う。
今、この人を悪い人だと思う。

その感覚は偽物ではない。

ただし、本物の感情であることと、正しい判断であることは同じではない。

短い言葉が世界を決める

現代では、この軽さが広がりやすくなっている。

短い言葉で怒る。
短い言葉で裁く。
短い言葉で許す。
短い言葉で忘れる。

長い経緯を知らなくても、切り取られた一言だけで判断できてしまう。

その人が何を考え、何をしてきたのかを知らなくても、一つの映像や投稿だけで、味方にも敵にもなれてしまう。

そして、多くの人が反応しているほど、それが正しさのように見えてくる。

けれど、反応の多さは、考えの深さではない。

大きな声は、正しさとは限らない。
多くの共感も、責任の重さとは限らない。

感情は本物であっても、感情だけで人や世界を裁くには足りない。

たとえば、昨日まで激しく批判されていた人がいたとする。

その人が今日、自分たちに都合のよい発言をしたり、優しい言葉をかけたりすると、急に「この人は変わった」「本当はいい人だった」と扱われることがある。

反対に、長いあいだ信頼されてきた人でも、たった一つの不快な発言によって、それまでの行動や積み重ねまで、すべて否定されることがある。

そこでは、その人が何をしてきたのかよりも、今この瞬間に、自分を安心させてくれるか、不快にさせるかが優先されている。

もちろん、人は変わる。

過去に悪いことをした人でも、反省し、立ち直ることはある。だから、過去だけを見て、人を永遠に裁き続けるのも危うい。

しかし、過去をまったく見ず、未来に何が起きるかも考えず、今この瞬間の感情だけで判断するのも、また危うい。

大切なのは、過去だけではない。
未来だけでもない。
今だけでもない。

人間の判断には、過去と現在と未来をつなげる力がいる。

そのつながりが切れてしまうと、人は「今」に閉じ込められる。

軽さは、悪いことばかりではない

今に閉じ込められた人は、今この瞬間を生きるのがとても上手い。

これは、ある意味では、うらやましいことでもある。

少し褒められただけで嬉しくなる。
少し優しくされただけで安心する。
小さな楽しみを、素直に楽しめる。
その場の空気を、全身で受け取ることができる。

人間らしさという意味では、これはとても豊かな状態でもある。

深く考えすぎる人は、喜ぶことにも慎重になる。

過去を背負う人は、簡単には安心できない。未来を考える人は、今の幸せの中にも、これから起こるかもしれない問題を見つけてしまう。

そう考えると、軽さは、ただの欠点ではない。

軽さは、今を生きる力でもある。
感情の新しさでもある。
社会を動かす反応の速さでもある。

実際、軽いものがあるから、社会は動く。

人はすぐに怒り、すぐに喜び、すぐに信じ、すぐに広げる。そして、すぐに飽きて、次のものへ向かう。

その動きがあるから、流行が生まれる。
娯楽が広がる。
商品が売れる。
社会の話題が変わる。
ときには、それまで見過ごされていた問題が、多くの人に知られることもある。

軽いものは、社会の変化を早く受け取る。

深く考える人は慎重だ。重いものを背負う人は、簡単には動かない。長い歴史を知る人は、何かを壊す前に、その意味を考える。

だから、社会を最初に揺らすのは、軽いものなのかもしれない。

軽いものが揺れるから、風向きが分かる。
浅い反応が広がるから、深く考える必要が見えてくる。
矛盾が表に出るから、私たちは基準を問い直すことができる。

そういう意味では、軽さは社会にとって、雑音であると同時に、動く力でもある。

問題は、軽さが存在することではない。

問題は、軽さが社会の操縦席に座ることだ。

軽さが社会を決めるとき

一人の人が、感情のままに日々を生きること自体は、その人の生き方である。

今を楽しみ、周囲の空気に反応しながら生きる。それも一つの人間らしさだろう。

しかし、その軽さが、社会の仕組みを決める側に回ると、話は変わる。

教育を決める。
制度を決める。
ルールを変える。
他人を裁く。
歴史を評価する。
何を正しいとするのかを決める。

このとき、軽さは個人の性質ではなく、社会全体の問題になる。

なぜなら、軽い状態では、長い時間をかけて積み上げられてきたものの重さが見えにくいからだ。

歴史。
訓練してきた人たちの努力。
守られてきた基準。
その場に必要な緊張感。
簡単には変えてはいけない理由。

そうしたものが見えないまま、軽く言えてしまう。

不快だから変えよう。
かわいそうだから基準を下げよう。
古いから壊そう。
今の時代に合わないから消そう。
誰も傷つかないように、難しいものを簡単にしよう。

一見すると、それは優しさに見える。

もちろん、本当に変えるべきものもある。

古いという理由だけで残されてきた理不尽もある。誰かを不当に排除してきた仕組みなら、見直さなければならない。

しかし、変えるべきものと、守るべきものを見分けるには、時間をかけて考える必要がある。

何が理不尽なのか。
何が努力によって越えるべき壁なのか。
何が差別なのか。
何が必要な基準なのか。
何が人を苦しめるだけの障害なのか。
何が人を育てる高さなのか。

そこを見分けるには、感情だけでは足りない。

舞台の高さを下げること

世の中には、高い水準で成り立っている舞台がある。

そこには、長い訓練があり、技術があり、失敗があり、歴史がある。

その舞台に、今すぐ立てない人がいること自体は、悪いことではない。

誰にでも段階がある。
誰にでも、まだ届かない場所がある。
誰にでも、成長の途中がある。

けれど、舞台に立てない人に合わせて、舞台そのものの高さを下げてしまったら、どうなるだろう。

そこを目指してきた人の努力は、必要のないものになるかもしれない。

舞台に立つことへの憧れが薄れ、長い時間をかけて育てられてきた技術や文化も、少しずつ失われていくかもしれない。

問題は、まだ届かない人がいることではない。

問題は、届かない人のために道を作るのではなく、舞台そのものを低くしてしまうことだ。

本来なら、そこへ届くための方法を増やせばいい。

学べる場所を作る。
練習できる時間を増やす。
失敗してもやり直せるようにする。
途中で困った人を支える。

けれど、舞台の高さそのものを下げれば、届くための成長まで必要なくなってしまう。

それは優しさに見えて、別の形で、積み上げてきたものを壊すことにもなる。

高い場所には、高い場所の意味がある。

そこへ届くまでの時間がある。
努力がある。
失敗がある。
悔しさがある。
その先に成長がある。

それらをすべて飛ばし、場所そのものを自分たちの高さまで引き下げてしまえば、そこにあった歴史も失われる。

そして、そのことに、壊した本人たちは気づかない場合がある。

なぜなら、本人たちは満足しているからだ。

自分たちも参加できるようになった。
認められたように感じる。
傷つかずに済む。
居心地のよい場所になった。

その安心は本物だ。

だからこそ難しい。

誰かが悪意を持って壊しているなら、まだ分かりやすい。

しかし社会では、本気の善意、本気の安心、本気の正義によって、積み上げられてきたものが壊れることもある。

社会が難しいのは、悪い人だけが何かを壊すわけではないからだ。

優しい人が、その場所の重さを知らないまま壊すことがある。

正しいことをしているつもりの人が、長い歴史を知らないまま変えてしまうことがある。

誰も傷つけないための言葉が、結果として、努力や責任の意味まで消してしまうことがある。

教育とは、重さを育てること

ここで、教育の意味が見えてくる。

教育とは、知識を詰め込むことだけではない。

本来、教育とは、人間に「重さ」を育てることなのだと思う。

過去を忘れずに持つ重さ。
目の前の気持ちだけでなく、まだ見えない未来を考える重さ。
自分の感情は本物であっても、それだけが世界のすべてではないと立ち止まる重さ。
自分と違う人にも、その人なりの事情があると考える重さ。
自分が間違っているかもしれないと認める重さ。

教育とは、すぐに答えを与えることではない。

答えが見つからなくても、すぐに投げ出さず、考え続けられる力を育てることなのかもしれない。

そして、ここでいう教育は、学校だけの話ではない。

家庭も、職場も、友人関係も、SNSも、ニュースも、娯楽も、人間を育てる場所になる。

私たちは毎日、何らかの言葉や情報に触れている。

どのような言葉を聞くのか。
どのくらいの速さで判断を求められるのか。
立ち止まる時間があるのか。
失敗してもやり直せるのか。
安心して疑問を口にできるのか。
自分と違う考えに触れる機会があるのか。

そうした日々の積み重ねが、人間の中に重さを育てる。

反対に、深く考える時間を与えない。
歴史や事情を学ばせない。
短く切られた情報だけを与える。
いつも忙しくさせる。
疲れさせる。
比べさせる。
焦らせる。
すぐに得られるご褒美に慣れさせる。
自分で考える前に、「これが正しい」と答えを渡す。

そのような環境では、人間の中に芯が育ちにくくなる。

人は、考える力を持っていないのではない。

考えるための時間と余裕を失っているのかもしれない。

深く考える前に次の情報が届き、また次の判断を求められる。

そうしているうちに、目の前の波だけが、世界のすべてに見えてくる。

大人になってからでも、重さは育てられる

では、大人になった私たちは、もう重さを育てられないのだろうか。

そんなことはないと思う。

重さは、特別な知識をたくさん持つことではない。

本をたくさん読んでいても、自分に都合の悪い話だけを無視するなら、重さは育ちにくい。

長く生きていても、過去を振り返らず、同じ間違いを繰り返すなら、年齢だけで重くなれるわけではない。

反対に、特別な知識がなくても、重さを育てることはできる。

何かを見て、すぐに怒る前に、一度立ち止まること。
自分が以前に何を言ったのかを思い出すこと。
相手が好きな人でも嫌いな人でも、同じ基準で考えられているか確かめること。
自分に都合の悪い事実を、すぐに捨てないこと。
今の判断が、明日の自分や誰かに何を残すのか想像すること。

分からないものを、分からないまま少し持ち続けることも大切だと思う。

すぐに答えを出さない。
すぐに敵と味方へ分けない。
すぐに正しいか間違いかを決めない。

その小さな積み重ねが、人の中に少しずつ重さを作っていく。

重さとは、何があっても動かないことではない。

一度決めた考えを、絶対に変えないことでもない。

新しい事実に出会えば、考えを変えてもいい。間違いに気づけば、認めてもいい。

大切なのは、流されて変わるのではなく、考えたうえで変わることだ。

重さとは、風を受けないことではない。

風を感じながらも、自分がどこに立っているのかを見失わないことなのだと思う。

動かされやすい人間

考える時間や余裕を失った状態は、社会や組織にとって、動かしやすい状態でもある。

怒りを向けられれば反応する。
安心できる言葉に寄りかかる。
流行に乗る。
すぐに得られる利益へ引き寄せられる。
強い言葉に動かされる。

本人は自分で決めているつもりでも、その判断は、周囲から与えられた刺激によって作られているかもしれない。

しかも、その瞬間の感情を、そのまま言葉にして外へ出すことができる。

周囲と同じことを言えば、自分が時代の声を代表しているように感じることもある。

この状態は、広告にも、政治にも、組織にも、SNSにも利用されやすい。

もし、これが一人のプレイヤーがすべてを見ているゲームなら、それでも成り立つのかもしれない。

世界全体を見ている人がいて、人々の怒りや不安、流行や対立を使いながら、全体のバランスを取っている。

しかし、現実はそうではない。

軽さの中で育った人たち自身が、やがて社会を動かす側に立つ。

教育を動かす。
政治を動かす。
組織を運営する。
情報を発信する。
ルールを変える。
人を評価する。
社会の基準を決める。

世界を扱うための重さが十分に育たないまま、世界を扱う位置に立ってしまう。

これは、社会にとって、とても危ういことだと思う。

「まともに見える」と「まともである」は違う

軽い状態の人でも、社会の中では、まともに見えることがある。

丁寧に話す。
ルールを守る。
優しい言葉を使う。
正しそうなことを言う。
周囲の空気を読む。
多くの人と同じ意見を言う。

これだけなら、外からは、とても整った人に見える。

けれど、見た目が整っていることと、本当にまともであることは同じではない。

本当にまともであるとは、単に常識に合わせることではない。

自分の中にある矛盾を受け止めながら、現実や他人とのつながりを保つことなのだと思う。

不快なものを見ても、すぐに切り捨てない。
嫌いな相手にも、できるだけ同じ基準を使おうとする。
過去と現在と未来をつなげて考える。
自分の感情を、一度横に置いてみる。
その場所が積み上げてきたものを考える。
自分が間違える可能性を持ち続ける。

こうした力があって、初めて人は、まともに近づいていく。

軽さばかりを育てる社会は、平和なときには整って見えても、問題が起きたときに崩れやすい人を増やしてしまう。

強い声が聞こえると流される。
対立が起きると、すぐに敵と味方に分かれる。
優しい言葉をかけられると信じる。
不快にさせられると、相手をすべて否定する。

そして、そのたびに基準が揺れる。

ダブルスタンダードとは、その揺れが外から見える形になったものなのかもしれない。

そこに二つの確かな基準があるのではない。

基準を支える重さが、まだ十分に育っていない。

だから、その場その場で基準が形を変え、その変化が矛盾として見えるのだ。

羽根と柱

ただし、軽さをすべて否定してはいけない。

軽さは悪ではない。

軽さは、人間の最初の姿でもあり、感情の豊かさでもあり、社会を動かす力でもある。

軽いものが揺れるから、時代の風向きが分かる。軽いものがすぐに反応するから、社会の温度が見える。その動きによって、重いものも、自分が本当に正しい場所に立っているのかを問い直すことができる。

軽さがなければ、社会は動かず、固まってしまうかもしれない。

だから、軽さは不要ではない。

けれど、軽さに社会の柱を任せてはいけない。

羽根は、風を読む。

時代の変化を早く受け取り、よく動く。ときには、その軽やかさで人を楽しませ、新しい場所へ運ぶこともある。

けれど、羽根は柱にはなれない。

柱には、建物を支える役割がある。
羽根には、風を受け取る役割がある。

羽根が悪いのではない。

羽根を柱として使おうとすることが危ういのだ。

人間は、最初から人間なのではない。

私たちは、生き物として生まれ、人との関わりの中で、少しずつ人間になっていく。

だからこそ、教育がいる。
時間がいる。
信頼がいる。
失敗がいる。
責任がいる。
立ち止まって、深く考えるための余白がいる。

軽さを笑うだけでは足りない。
軽さを憎むだけでも足りない。

まずは、自分の中にも軽さがあると知ること。

そして、その軽さを社会の中でどう育て、どう支え、過去や未来を持てる重さへ変えていくのかを考えること。

ダブルスタンダードとは、誰かの矛盾を見つけて笑うためだけの言葉ではない。

それは、私たちがどれだけ、自分の中に同じ基準を持ち続けられるのかを問う言葉でもある。

今この瞬間の感情だけに流されないこと。
過去と未来をつなげること。
好きな人にも嫌いな人にも、できるだけ同じ基準を使うこと。
自分の正しささえ、一度立ち止まって疑ってみること。

その重さを、私たちは持てるだろうか。

社会が揺れるのは、羽根があるからではない。

羽根に、柱の役割を与えてしまったときなのだ。

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