敬意の定義
敬意という言葉を聞くたびに、
少しだけ身構えてしまうようになったのは、いつからだろう。
昔は、もっと単純だった気がする。
年上だから敬意を払う。
年下だから学ぶ。
それで大きな問題は起きていなかった。
でも今は違う。
「敬意を払え」と言われて戸惑う人がいる。
「なぜ敬意が返ってこないのか」と苦しむ人もいる。
どちらが正しい、という話ではない。
ただ、どこかで噛み合わなくなっている感覚だけが残っている。
敬意は、気持ちというより「扱い方」なのかもしれない
敬意というと、
尊敬の気持ちや、心の在り方を思い浮かべがちだ。
けれど日常をよく見てみると、
敬意が問題になる場面の多くは、
感情よりも扱い方に近いところで起きている。
雑に扱われたと感じた
軽んじられた気がした
話を聞いてもらえなかった
説明を放棄されたように思えた
こうした違和感は、
「好きか嫌いか」よりも、
「どう扱われたか」から生まれることが多い。
もしかすると敬意とは、
相手をどう思っているかではなく、
相手をどう扱うかの話なのかもしれない。
若い側の戸惑いも、自然なことだと思う
若い立場にいると、
理由も説明もなく
「敬意を払うのが当然だ」と言われる場面がある。
正直なところ、
それが苦しく感じることもあるだろう。
何を大切にしてきたのか。
どんな経験を積んできたのか。
それを知らないまま、ただ従うよう求められる。
それは反抗心というより、
納得できない感覚に近い。
この戸惑いは、決しておかしなものではない。
年を重ねた側の違和感も、同じくらい自然だ
一方で、年を重ねた側から見れば、
積み重ねてきた時間や労力が、
何もなかったかのように扱われるのはつらい。
自分なりに必死でやってきたこと。
守ってきたもの。
失ってきたもの。
それらを一切見られずに
対等か、それ以下のように扱われると、
心がざらつく。
これもまた、
尊大さではなく、報われなさに近い感覚だと思う。
敬意がぶつかるとき、たいてい両方が苦しい
こうして並べてみると、
若い側も、年上の側も、
実はあまり楽をしていない。
片方は「納得できない」。
もう片方は「報われない」。
どちらも、
自分が雑に扱われているような気がしている。
敬意の問題は、
誰かが悪いから起きているというより、
扱い方の基準が共有されていないことで起きているように見える。
私自身が選んでいる、ひとつのやり方
ここからは、あくまで私個人の話だ。
私は、敬意を
「もらうもの」ではなく、
先に差し出してみるものとして扱っている。
相手に丁寧に接する。
話を聞く。
軽んじない。
そして、その返り方を見る。
きちんと返ってくるなら、少し近づく。
雑に扱われるなら、静かに距離を取る。
怒ることも、責めることもない。
ただ、距離を調整する。
これは正しいやり方でも、
優れたやり方でもない。
私がそうすると決めている、
個人的な工夫だ。
このやり方は、誰にでも向いているわけではない
正直に言えば、
この方法は少数派だと思う。
無視されたり、軽く扱われたりしても、
それを自分の価値と結びつけずにいられる必要がある。
全員と分かり合えなくてもいい、
そう思える強さもいる。
だから私は、
このやり方を勧めたいわけではない。
ただ、ひとつの例として置いておくだけだ。
たとえるなら、登山装備のようなものだと思っている
この敬意の扱い方は、
たとえるなら登山装備に近い。
平地を歩いている人には、
ピッケルもロープも必要ない。
むしろ持たせれば邪魔になる。
でも、山を登り始めた人にとっては、
それがあるだけで安心できることもある。
使うかどうかは、その人次第。
必要な場所に来た人だけが、手に取ればいい。
敬意は、上下を決めるためのものではない
敬意は、服従でも、支配でもない。
誰かを上に固定するための道具でもない。
敬意とは、
関係を壊さずに接続するための扱い方だ。
どう扱うか。
どの距離で関わるか。
それを決める方法は、ひとつじゃない。
終わりに
敬意をめぐる衝突が増えているのは、
人の質が下がったからではない。
多くの場合、
互いの立っている場所が見えにくくなっただけだ。
敬意は、無条件で与えるものでも、
無理に要求するものでもない。
それぞれが、
自分の立ち位置に合った扱い方を探していく。
もしかしたら、それだけの話なのかもしれない。
