保存版|プログラム可能なお金は、福祉を救うのか
CBDCが変える“現金性”の意味
インドで、中央銀行デジタル通貨である e-rupee を福祉給付に使う実験が進んでいます。西部マハラシュトラ州の村では、農家向けの点滴灌漑設備補助金が e-rupee のウォレットに直接支払われ、その資金は承認された販売業者でしか使えないように設計されています。Reutersによれば、この実験はWorld Bank、インド準備銀行、マハラシュトラ州政府、Punjab National Bank が関わる取り組みで、インド国内では同様の実証が約10件進んでいます。対象は農業補助金だけではなく、グジャラート州では公営配給店を通じた補助付き食料の配布にも e-rupee を使う実証が行われ、将来的には750万世帯を対象にする構想も示されています。これは単なるCBDCの利用実験ではありません。お金に使途を埋め込むことで、福祉の漏れを減らそうとする試みです。
このニュースが面白いのは、CBDCをめぐる議論が「現金がデジタルになる」という素朴な説明から、一段深いところへ進んでいるからです。インド準備銀行は、e-rupee を「物理的なルピーのデジタル形態」であり、RBIが発行し、物理的な通貨と同等で、利便性、RBIによる保証、決済の最終性など、現金に似た特徴を持つものと説明しています。つまり公式には、e-rupee は「Cash but Digital」に近いものとして位置づけられています。ところが福祉給付の実証では、そのお金はどこでも自由に使えるわけではありません。指定された用途、指定された販売業者、指定された政策目的の中で使うことが前提になります。ここに、CBDCの本質的な緊張があります。CBDCは現金のデジタル版なのか。それとも、現金ではできなかった制御を可能にする政策インフラなのか。
私は、この論点を「CBDCは危険か、便利か」という単純な二分法では捉えないほうがよいと思っています。福祉給付におけるプログラム可能なお金には、明らかな利点があります。補助金の使途を限定できる。中間搾取や誤配分を減らせる。利用者が先に自己資金を立て替える必要を減らせる。販売業者との信用関係が弱い農家や低所得層にとっては、実際に設備や食料を受け取りやすくなる可能性もあります。Reutersの記事でも、点滴灌漑設備の費用が農家の5か月分の収入を大きく上回る事例が紹介されており、補助金を後払いではなく直接使える形にすることの意味は小さくありません。
しかし同時に、これは危うい論点でもあります。お金に使途を埋め込めるということは、裏返せば、お金の自由さを削れるということでもあるからです。誰が条件を書くのか。誰が承認された販売業者を決めるのか。何に使えるお金で、何に使えないお金なのか。その制限はいつまで続くのか。利用者はその制限を理解しているのか。異議を申し立てられるのか。Reutersの記事でも、MIT Media Lab の Neha Narula 氏は、支出先や用途を強く制限する heavily programmed money は、CBDCが現金に似たものだという説明と矛盾し、採用を妨げる可能性があると警告しています。ここで問われているのは、単なる技術仕様ではありません。現金性とは何かという問題です。
本稿では、インドの e-rupee 実証を入口に、プログラム可能なお金が福祉をどう変えうるのかを考えます。論点は、CBDCそのものの賛否ではありません。むしろ重要なのは、福祉給付の効率化と、現金の自由さのあいだにどのような緊張が生まれるのかです。プログラム可能なお金は、福祉の漏れを減らすかもしれません。しかしそれは同時に、受給者の選択権、プライバシー、尊厳、そしてお金の一般受容性を変質させるかもしれない。本稿では、そこをできるだけ丁寧に分解します。
本稿で扱うのは、主に次の点です。
なぜCBDCは、一般決済ではなく福祉給付で「使い道」を見つけ始めたのか
プログラム可能なお金は、福祉の漏れや不正をどう減らしうるのか
その一方で、なぜ「現金性」を損ないうるのか
UPIや銀行振込、バウチャーではなく、なぜCBDCなのか
資本市場・決済インフラの観点から、今後何を見ればよいのか
1.CBDCは「一般決済の新手段」としては、まだ弱かった
まず確認すべきなのは、CBDCがこれまで必ずしも自然に普及してきたわけではない、ということです。インドの e-rupee は2022年末に小売実証が始まりましたが、利用は当初から順調だったわけではありません。Reutersは2024年6月、e-rupee の利用が、銀行によるインセンティブや給与の一部支払いによって一時的に押し上げられた後、大きく落ち込んだと報じました。2023年末には1日100万件の小売取引目標を達成したものの、その後は1日10万件程度へ低下し、月末には銀行の従業員向け給付などで25万〜30万件程度に押し上げられる状況だったとされています。つまり、「中央銀行が出すデジタル通貨」だからといって、人々が自発的に使うわけではないのです。
これはインドだけの問題ではありません。BISのCBDC採用に関する報告書は、CBDCが政策目的を達成するには、利用者に採用され、加盟店に受け入れられる必要があると明確に述べています。そして採用を左右するのは、中央銀行マネーとしての安全性だけではなく、利用者にとっての将来的な有用性、加盟店受容、低コスト、オフライン決済、プライバシー、アクセシビリティなどです。要するに、CBDCは「安全だから使われる」のではなく、既存の決済手段に対して明確な追加価値を持たなければ使われません。
インドの場合、この比較対象は非常に強力です。UPIがあるからです。UPIはすでに、インドの日常決済の中核にあります。Reutersによれば、e-rupee の累計取引額は開始以来約36億ドルにとどまる一方、UPIは月間3000億ドル超を処理しています。これだけ強い即時決済インフラが存在する国で、単に「スマホで払える中央銀行マネー」を出しても、利用者にとっては違いが分かりにくい。支払いができるだけなら、UPIでよい。銀行口座間の送金でよい。ウォレットでよい。CBDCには、CBDCでなければならない理由が必要になります。
そこで出てきたのが、福祉給付です。Reutersの記事中で、元IMF・Bank of Canadaのデジタル通貨アドバイザーであるJohn Kiff氏は、CBDCにはそれを差別化する「killer use case」が必要であり、インドはまさにそのような用途を探していると述べています。これは非常に重要です。CBDCは、一般決済では既存インフラに勝ちにくい。けれども、政府が資金の使途を管理したい福祉給付であれば、CBDCならではの機能を示しやすい。つまり、インドの実験は、CBDCを一般消費者向けの便利アプリとしてではなく、公共政策の実行インフラとして再定義しようとしているのです。
この見方は、2024年のRBIの動きともつながります。RBIは e-rupee の利用拡大のため、銀行だけでなく、PhonePe、Google Pay、Paytmのような第三者決済アプリを含む非銀行決済事業者にもCBDCウォレット提供の道を開く方針を示しました。同時に、UPIとの連携や、農家向けの targeted cash transfer を可能にする programmability も導入しています。つまりRBIは、単に「CBDCを配る」だけでは不十分だと見て、既存の決済接点に載せ、用途を持たせ、実験の場を広げてきたわけです。
2.福祉給付は、CBDCにとって最も分かりやすい「用途」になりうる
なぜ福祉給付なのか。理由は単純です。福祉給付には、長年にわたって三つの問題があります。第一に、対象者へ届かない。第二に、届いても本来の用途に使われない。第三に、受給者が先に支出し、後から払い戻しを受ける形式では、資金繰りに弱い人ほど利用できない。CBDCのプログラム可能性は、この三つに対して一定の解を示します。送金先を特定できる。使途を限定できる。承認業者で直接使える。少なくとも設計上は、資金が「政策目的」から外れにくくなります。
マハラシュトラ州の点滴灌漑補助金の事例は、その利点をよく示しています。Reutersによれば、対象農家は、総額10万3000ルピー程度の設備費に対し、80%相当の補助を e-rupee で受け取ります。資金は承認された販売業者でのみ使えるようにプログラムされており、農家は先に全額を用意してから払い戻しを待つ必要がありません。担当する州政府機関のエコノミストは、CBDCのプログラム可能性により、資金の誤用を防ぎつつ、農家が前払いする必要もなくなると説明しています。これは机上の理屈ではなく、低所得の農家にとってはかなり現実的な改善です。福祉制度は、名目上の受給資格だけでは不十分です。実際に利用できる流動性がなければ、制度は届きません。
さらに、Reutersの記事は社会的な側面にも触れています。販売業者は、社会的に優位な集団に属することが多く、階層的に弱い農家に信用を供与することに消極的だとされています。この点は重要です。福祉給付の問題は、単なる行政効率ではありません。誰が先にお金を立て替えられるのか。誰が販売業者から信用されるのか。誰が申請から払い戻しまでの時間差に耐えられるのか。こうした社会的な非対称性が、制度の利用可能性を左右します。プログラム可能なCBDCは、そこに介入する可能性を持っています。補助金が実際に使える形で先に届けば、受給者は信用力の不足をある程度迂回できます。
グジャラート州の補助付き食料配布の実証も、同じ論点を別の形で示しています。Reutersによれば、約1万5000人がデジタルルピーを使った公営配給店での補助付き食料配布の実証に登録され、州当局は最終的に750万世帯への拡大を目指しています。ここでCBDCが使われる意味は、単に支払いをデジタル化することではありません。食料補助という政策目的に対し、資金が本当に対象となる販売経路に使われたのかを追跡しやすくすることです。つまり、CBDCは支払い手段であると同時に、給付行政の管理台帳にもなりうるのです。
この点は、IMF Working Paper の整理とも符合します。同論文は、CBDCを単なる支払い配送手段として使うだけなら、既存の高速決済システムに対する利点は限定的だとしつつ、P2P移転、分散型台帳アクセス、高度なプログラム可能性を備えた支払い管理プラットフォームとして使う場合には、社会的セーフティネットの配送を変えうるとしています。他方で、そこにはプライバシー、コンプライアンス、インフラ要件などの課題があるとも指摘しています。これはかなり正確な整理だと思います。CBDCの強みは「送れること」ではなく、送った後の使われ方まで制度設計に組み込めることにあるからです。
つまり、福祉給付はCBDCにとって非常に都合のよい用途です。一般消費者が「UPIで十分」と感じる場面ではCBDCは弱い。しかし政府が「この資金はこの目的に使われるべきだ」と考える場面では、CBDCの固有機能が前面に出ます。ここに、CBDCの現実的な普及経路があります。CBDCは、いきなり日常の支払いを置き換えるのではなく、政策目的が明確で、資金の使途を管理したい領域から入り込む。インドの実験は、その意味で非常に示唆的です。
ここから先は
ここから先では、プログラム可能なお金が持つ本当の緊張を掘ります。福祉の漏れを減らすことと、現金の自由を守ることは、どこまで両立するのか。CBDCは「Cash but Digital」なのか、それとも「政策条件つきのデジタル給付券」なのか。さらに、決済インフラや資本市場の観点から、どのプレイヤーがこの変化で価値を持つのかを考えます。
ここから先は
¥ 700
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
