小説 『未来からの訪れ』
あらすじ
就職活動に行き詰まり、孤独と焦燥の中で部屋にこもる蓮は、ある夜、自分の行動より“数秒先に”聞こえるはずの音を耳にする──
冷蔵庫の扉が閉まる音、椅子が引かれる音。その全てが、まるで未来を先取りして鳴っているかのように。異変はやがて蓮の身体にも及び、彼は“自分の意志で動いているはずの身体” すら、音に導かれ操られている感覚に苛まれていく。
それはただの幻覚か、それとも“音”がこの世界の裏側から忍び寄る何かの警告なのか?
生き延びる術を求めて蓮はこの力を利用するが、それは彼をますます孤立させていく。音が与えるのは成功と恐怖、救済と破滅。蓮の耳に鳴り響く“未来の音”は、果たして運命の道標か、それとも破滅の鐘なのか。
第1章:始まる異変
夜。静まり返ったワンルームの自室。
築三十年、東京都内の片隅にある小さなアパート。その一室に、山本蓮(やまもとれん)は住んでいる。
家賃は安い分、壁は薄く、隣の生活音が耳に届く日も多い。時折聞こえるのは、若いカップルの楽しげな笑い声や、老夫婦の咳払いくらいで、それらは蓮の孤独をより一層際立たせるようだった。
だが今夜に限って、そんな物音は一切なかった。気味が悪いほどの静寂。外の車の音すらも、今日はやけに遠く感じる。まるで世界から自分だけが取り残されたような、そんな不安感が蓮を包んでいた。
部屋の中、ただひとつの光源──古びた木製の机の上に置かれたノートパソコン。その画面が、薄暗い部屋を青白く照らしていた。その光だけが、この停滞した空間の中で、かろうじて時を刻んでいるようだった。
蓮は、画面に映る就職サイトの応募フォームをじっと見つめている。 名前、生年月日、学歴、資格──そこまではいつも問題なく入力できる。だが、自己PRの欄だけがずっと空白のままだった。自分という人間を他者に売り込むための言葉が見つからないように。
カーソルが点滅している。
空欄の中央で、無言の圧力のように。その小さな光の点滅が、蓮の焦燥感を一層かりたてるのだった。「……何か書けること、なんかあるか……?」
ぼそりと呟き、椅子に深くもたれた。
椅子が、ぎしぎし、と軋む。その安っぽい音は、蓮の心の中の不安と共鳴しているようだった。
山本蓮。二十四歳。大学を卒業して、もうすぐ一年が経とうとしている。 コロナ禍の余波もあって、就活をうまく進められなかった──そう言い訳しながらバイトに逃げていた日々だったが、それも数ヶ月前に辞めた。目標のない毎日は、ただただ過ぎ去り、彼の内側には言いようのない焦燥感だけが積み重なっていた。
気づけば、無職。貯金を削って生活し、実家にも友人にも「頑張ってる」とだけ連絡して、部屋にこもっている。本当は誰かに助けを求めたい気持ちもあったが、上手く言葉にできず、結局は孤独の殻に閉じこもってしまうのだった。
「こんな生活、いつまで続けるつもりだよ……」
言い終えた瞬間、自分の声の乾きに気づいて、少し驚いた。それは、まるで長い間誰とも言葉を交わしていなかったことを証明するようだった。
喉が渇いていた。
冷蔵庫に何か残っていたか、そう思ってキッチンへ向かう。足元が冷えた床に触れるたび、パチンと微細な音が響く。
その小さな音だけが、静寂の中に彼の存在を知らせているようだった。
台所の隅に置かれた小型の冷蔵庫。銀色の取っ手に手を伸ばそうとした、まさにその瞬間だった。
──バタン。
どこかで、何かが閉じるような音がした。
いや、正確には──それは冷蔵庫の扉が閉じた音だった。
「……ん?」戸惑いながら、蓮は足を止めた。
あたりを見回したが何もない。背後にはただ壁と棚があるだけ。生活感の薄い部屋は、まるで時間が止まっているかのようだった。
目の前の冷蔵庫に視線を戻す。閉まっている。
自分は、まだ開けてもいない。
だが──まるで、“今開けようとしている”冷蔵庫の扉が、すでに閉まる音を立てていたように、思えた。それは、未来の音がほんの少しだけ、今の時間に漏れ出したような、奇妙な感覚だった。
蓮は、何も言わずに冷蔵庫の扉を開ける。ギイ……と、少し重たげな音が響く。
中からは、弱々しいオレンジの光が漏れ、昨日の夜に買ったコンビニのプリンと、ペットボトルの麦茶が並んでいる。
麦茶とプリンを取り出しながら、さっきの“音”を思い返す。
たしかに──たしかに、聞こえた気がしたのだ。自分が開けるよりも数秒早く、閉まる音が。
「……まさかね」
気のせいだ。きっとそうだ。寝不足か、耳鳴りか、勘違い。そう思うことで、蓮は何とかこの奇妙な感覚から逃れようとしていた。
そう自分に言い聞かせるようにして、スプーンを持ってソファへ戻る。
コンビニのプリンの甘さは、空虚だった。
口に入れても、胃には届かないような感覚。ぼんやりとスマホを手に取り、SNSを開く。
「内定祝いで焼肉!」「初任給で一眼買った!」そんな投稿がタイムラインに流れていく。輝かしい他者の日常が、モノクロの彼の日常とのコントラストを際立たせる。
蓮は、ひとつひとつの投稿にいいねを押すでもなく、スクロールを止めるでもなく、ただ“見ている”。遠い世界の出来事を眺めている傍観者のように。
──「就活、失敗しました。来年また頑張ります」
ふと、目に留まったのはそこまで仲は良くは無い友人の投稿だった。その正直な言葉が、胸に小さな棘のように刺さった。
蓮はスマホを置いた。重い溜息が、静かな部屋に響く。
自分も、本当はそう書きたい。誰かにそう言いたい。だけど、できない。プライドが、弱音を吐くことを許さない。
「強がってる方が、楽なんだよな……」
天井を見上げる。
黄ばんだ蛍光灯。シミのついた天井の角。換気扇の、低く唸るような回転音。
部屋にあるすべてのものが、自分の時間だけを止めているように思えた。
蓮は、シャワーを浴び、ベッドに入る。布団にくるまり、スマホでラジオアプリを起動する。落ち着いた声のパーソナリティが、今日のニュースを読み上げている。その声だけが、外界との細い繋がりだった。
でも、頭に入ってこない。ニュースの内容は、遠い国の出来事のように感じられた。
目を閉じると先ほどの違和感を思い出す。
──バタン。
再び、あの音が脳裏に響く。それは、現実の音というよりも、もっと直接的に、彼の意識に語りかけてくるようだった。
時計を見ると、午前2時37分。デジタル表示の冷たい光が、孤独な時間を 際立たせる。
不意に、耳が冴えていく。
換気扇の音、冷蔵庫のモーター音、上の階から微かに聞こえる足音。普段は気にも留めないはずの微かな音が、異様に大きく聞こえる。
すべてが、妙に明瞭に聞こえる。
違和感だけが、じっと自分の耳の奥で震えていた。それは、小さな虫が這うような、不快な感覚だった。
第2章:続く予兆
数日が経った。冷蔵庫の音以降、奇妙な現象は起こらなかった。平穏な時間が戻ってきたように思えたが、蓮の心には拭いきれない不安の影が残っていた。
蓮は、あれは寝不足か幻聴だったのだろうと自分に言い聞かせ、再び就活に集中しようとしていた。
しかし、一度芽生えた違和感は、彼の思考の片隅に常にまとわりついて離れない。 パソコンの画面を開き、求人サイトの検索欄に条件を入力する。だが、どの案件にも心が動かない。
(どの求人も、どうせ必死に自己PRを書いたところで面接まで行かない)
半ば諦めの気持ちで閉じたノートパソコン。その日は、珍しく天気がよかった。
昼下がり。部屋には暖かな光が差し込んでいる。蓮はベッドに寝転び、スマホで小説アプリを開いた。 画面を指でなぞりながら物語の続きを読み進める。物語の中の出来事は、彼にとって現実逃避の手段だった。
読書のリズムが心地よい静けさを部屋に生んでいた──そのとき。
──ピロン。
突然、スマホの通知音が鳴った。その音は、静寂を切り裂くように、やけに大きく感じられた。反射的に画面を見たが、何も表示されていない。
「……?」
数秒後、ようやく通知が表示された。SNSのリプライだった。
「え、さっき鳴ったよな?」
軽く眉をひそめたが、それだけで済ませた。だが、その現象はその日から頻繁に起こるようになる。
──ピピピ。
朝、セットしていたスマホのアラームが鳴る。
それに目を覚まし、画面を見ると、まだアラームの設定時間にはなっていない。
数秒後、画面が点灯し、表示された時刻と一致した。時間がほんの少しだけ、彼の認識を追いかけるように遅れてやってくるようだった。
(このスマホ表示されるのが遅すぎないか?)
違和感を覚えながらも、蓮は「まあ、よくあるバグかもしれない」と片づけようとした。そう思うことで、彼はこの奇妙な現象に意味を見出すことから逃れようとしていた。
しかしそれは、テレビでも起きた。
バラエティ番組をつけっぱなしにしていた午後、出演者たちが話すより前に笑い声が流れ、次にスタジオのリアクションが映った。
音が先、映像が後。
(まるで、電波の悪い衛星中継を見てるみたいな……)
誰かの口が動く前に声が届き、リアクションの前に笑いが起こる。だが電波に問題はないようで映像も途切れることはなかった。
蓮は一度テレビを消し、窓の外を見た。
空は澄んでいる。鳥の鳴き声すらしない。静けさだけが、重くのしかかってくるようだった。
その静寂の中で、確かな“ズレ”だけが彼の世界を侵食していた。それは、目に見えないけれど、確実に彼の日常を歪めていく、不気味な存在だった。
その日の夜、スマホを手に持ち、何気なくSNSを眺めていたとき、大学時代の友人の名前が目に留まった。勢いでDMを送り、軽いやり取りが始まる。
「お前、最近なにしてんの?」 「ニート生活エンジョイ中」 「はは、俺も」
笑いを交えたやりとりが続いた。他愛ない会話が、久しぶりに彼の心を軽くする。
それからしばらくは、不思議なことが起きなかった。 スマホの通知も、動画の再生も、すべて正常。
音と映像が完全に一致している。
蓮はふと、それに気づく。 (あれ……今、何もズレていない)まるで、あの奇妙な現象が嘘だったかのように。
数時間後。──ピロン。
再び、通知音だけが先に鳴り、遅れて通知が表示された。その音は、まるで彼の孤独を嘲笑うかのように、空虚に響いた。 (また……またズレが始まった)
次に何が起こるのか想像すらできなかった。得体の知れない何かが、すぐそこまで迫ってきているような、そんな予感が彼の胸を締め付けた。
第3章:動く身体
朝、まだ陽が昇りきらない時間。
蓮はいつもより早く目を覚ました。スマホのアラームが鳴る前に、まるで何かに呼ばれるように目が覚めてしまった。深い眠りから引きずり出されるような、不快な目覚めだった。
ベッドの上でぼんやりと天井を見つめながら、耳を澄ます。
窓の外でカラスが鳴く声。そのあと、換気扇の音が静かに回転を始める。
昨夜から、何かが決定的に変わってきている気がした。
蓮は静かに体を起こし、パジャマのままキッチンへ向かった。カップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットの湯を注ぐ。湯気が立ち上るのを見つめながら、思考はまだ覚醒しきらず、ぼんやりとしていた。
そのとき、
──ギィッ。
リビングで椅子が引かれる音がした。
「……?」
振り返ると、誰もいない。椅子は動いていない。
その瞬間、蓮の体が自然にリビングの方へ動き始めた。自分の意思で歩いているはずなのに、なぜか「動かされている」ような奇妙な感覚が残った。
椅子の前に立ち、椅子を引いて無言で腰を下ろす。(……俺、今、自分の意思で動いたか?)
考えようとするが、すぐにコーヒーの香りが鼻をかすめ、意識がそちらに引き戻された。
“音が先”に来る──その現象はすでに体験していたが、“自分の動き”までもが先に決められているような感覚は、これが初めてだった。
その日の午後。
蓮は書類作業に飽きて、小説アプリを開いていた。以前読みかけだった短編小説の続きを開き、ソファに腰を沈める。物語の世界に逃避しようとするも、現実の異変がそれを許さない。
(なにか、物語に集中できない……)
頭の片隅で、先ほどの違和感が引っかかっていた。
──パチン。 乾いた音が机の上で鳴る。
びくりとして顔を上げた瞬間、目に映ったのは机の上に止まった一匹の蚊。 ほんの1〜2秒の間。
そのあと、自分の右手が無意識にパチンと机を叩いた。ちょうど、蚊のいた場所。それは、まるで反射的な行動というよりも、もっと強い、抗えない力に突き動かされたようだった。 (……まただ)
行動の音が先に鳴り、自分の動きがそれに“合わされている”。まるで、誰かが彼の行動を予測し、音でそれを知らせているかのようだ。
その動きに意志はあったはずなのに、音の後追いのように動いてしまっている。気がする。自分の身体が、まるで遠隔操作されているかのような、ぞっとする感覚。
あたかも、自分の体が“予告された動き”に合わせて、決められたルートをなぞっているだけのように。
“音が未来の自分を先に鳴らしている”のか。 それとも、“音が自分に命令を出している”のか。
どちらにしても、自分の感覚はもはや正常とは言えなかった。自分が、自分自身でいられなくなっていくような、深い恐怖。
その日の夜。シャワーを浴びたあと、蓮は風呂上がりの冷たい麦茶を飲みながら、再びSNSを開いた。画面の光だけが、薄暗い部屋の中で彼の存在を照らしている。
スクロールしていた指が、ふと止まる。
「#作為体験」 どこかの精神科医のツイートだった。
「自分の考えや動きが“自分のものではない”と感じることはありませんか?」
蓮はその文を何度も読み返した。まるで、自分の内面を覗き見られているような、強い衝撃を受けた。 (……俺もそうなってきているのか?)
だが、病気と診断するにはあまりに現象が“はっきりしすぎている”。幻聴や妄想といった曖昧なものではなく、明確な音として、彼の現実に侵入してくる。
アラームの音。 冷蔵庫の音。 椅子の音。 蚊を叩く音。 どれもが“現実に起きた”。そしてそれが“先に聞こえた”。
幻聴でも妄想でもない。彼の五感が捉えた、紛れもない現実。
問題は、その音に自分の行動が引っ張られていること。
部屋の中で起きることのすべてが、まるで自分の未来を“指示”しているように思えてきた。
ソファに座りながら、蓮は何度も腕を動かしてみた。 肘を曲げ、手を握る。 指を鳴らす。 その音は、当然のように“動作と同時”に鳴る。
──だが、問題はそこではない。
次に、蓮はわざと何も音を立てないよう、布団の上で手をゆっくり動かしてみた。 動かした指先と、すぐあとに、クッションが沈むわずかな音。
それは“正常”のように感じられた。
だが問題は、“まだしていない行動の音”が、自分より先に現れること。
ふと、音が鳴る前に“何かの気配”を感じることがあることにも思い至る。自分が歩くよりも先に、フローリングの床が軋むような感覚。座る前に椅子が引かれる気配。どれも数秒早い。
何かが、蓮の未来の行動を知っていて、音だけ先に鳴らしているように思えてくる。
蓮は、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
胸の奥が締め付けられ、 酸素が足りないような感覚。 この部屋の中で、自分だけが“遅れている”。
音に先導されて、追いつかされている。恐怖が、胸の奥にじんわりと広がっていった。
第4章:試す力
翌朝、蓮はふと思った。
(……音が先に聞こえるのであれば、何か有効活用することはできないのか?)
音が先に聞こえる。その奇妙な現象を初めて意識してから、蓮はずっとそれを不気味としか認識していなかった。だが、この得体の知れない力を何かに応用できないかと考え始めたのだ。
それは単なる欲求というよりも、この特殊な力を完全に理解し、自分のものにしたいという探求心に近いものだった。
ふと、大学時代に熱中していたテニスのことを思い出した。 (この力があれば相手の打つコースとか分かるんじゃないか……?)
早速、大学時代のテニスサークルの友人を誘い、久しぶりにコートで対戦することにした。 サーブを打つ友人。構える蓮。 意識を集中して、ボールがラケットに当たる“音の予兆”を待った。
──パン。
友人のラケットがボールを捉える音が聞こえる。 だが、肝心のボールの軌道を示すような“先の音”は、全く聞こえなかった。
ラリー中も同様だった。友人の打つ音は聞こえるものの、次にどこにボールが来るのかを知らせるような音は、一切聞こえない。しかもラリーの音だけでなくすべてが正常だった。
結局、昔と変わらず友人に打ち負かされ、テニスでの応用は完全に失敗に終わった。ただそれ以上に奇妙な現象が止まることに安堵した。
その日の帰り、友人とは別方向だったため、蓮は一人で電車に乗ったが、テニスの疲れからか電車で寝てしまい、最寄り駅で降り過ごしてしまった。
目覚めたのは、終着駅に到着したアナウンスと電車の扉の開く音だった。
(終点…?降り過ごしてしまったのか…)
蓮は電車を降りようと立ち上がったが、まだ扉は開いていなかった。
──扉の音が開く音は既に聞いていた。また音が先に聞こえている。
ゾワっという感覚と同時に、この力が戻ってきたことに少し安心している自分がいた。
この力がまだ使えるのであればと次に蓮が考えたのは、就職活動への応用だった。
(面接官の声が、先に聞こえたりするんじゃないか……?)
もしそうなら、質問を事前に把握したり、相手の反応を伺いながら受け答えをしたりできる。内定を掴むための、秘密兵器になるかもしれない。
ちょうど翌日に控えていた面接のことを思い出して、この意味のない生活を抜け出す方法を見つけられた気がした。
翌日の面接。面接室に入り、複数いる面接官を前に、深く息を吸い込んだ。 心の中で、質問が“先に聞こえる”のを待った。
「では、自己PRをお願いします」
面接官の一人が、落ち着いた声でそう言った。 蓮は耳を澄ませたが、次の質問が先に聞こえることはなかった。 他の面接官の咳払いや、ペンの音ばかりが耳につく。 (……何も先に聞こえない)
自己PRが終わると、別の面接官が質問を始めた。 「弊社を志望された理由をお聞かせください」 やはり、その質問が“先に聞こえる”ことはなかった。
結局、蓮は他の就活生と同じように、その場で言葉を紡ぐしかなかった。
先に面接官の言葉を知るという目論見は完全に外れ、面接は平凡な結果に終わった。
頭の中で、ひとつの仮説が浮かぶ。
“誰かと繋がっているときだけ、ズレが止まる”(まさか……)
蓮は、ゾクリとした。 “誰にも見られていないときだけ、音が先に聞こえる”
自分の世界が、“一人きりの時間”だけ、別のルールで動いているのか。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。 ただ、その異常は、すでに彼の“現実”になりつつあった。逃れられない、奇妙な現実。
第5章:失踪する被害者
その夜、いつものようにネットニュースを巡回していた蓮の目に、数年前の未解決事件に関する記事が飛び込んできた。
『首都圏連続失踪事件、依然として手がかり掴めず』。
何気ない見出しだったが、記事を読み進めるうちに、蓮は奇妙な一文に目を奪われた。
「被害者たちの周辺住民からは、失踪直前に『何か不気味な音が聞こえた』という証言が少数ながら寄せられており……」。
不気味な音。 その言葉が、蓮の心に引っかかった。それは、自分が体験している「音が先に来る」現象と、どこか共通するような気がしたのだ。単なる偶然とは思えない、不気味な符合。
蓮は、過去のニュース記事や事件に関するまとめサイトを漁り始めた。 被害者たちの年齢、職業、生活圏。共通点はほとんど見当たらなかった。無作為に選ばれたかのような、ばらばらの要素。
しかし、根気強く調べていくうちに、いくつかの小さな点が浮かび上がってきた。 被害者の中に、蓮と同じように独り暮らしをしていた人間が複数いたこと。そして、普段の行動を知っている人間が周りにいなかったこと。
そしてそのうちの一人にどこかで見たことがあるような名前だった。
翌日の朝、蓮は自分が住んでいる築三十年のアパートの過去の住人名簿を、管理人に頼んで見せてもらった。
プライバシーに関わるため、詳細な情報は得られなかったが、ニュースで取り上げられている名前をだしたところ、数年前、確かにこの部屋に住んでいたという記録が残っていた。
見覚えがあったのはやはりここに住んでいたからだった。
背筋に、ぞっとするような悪寒走った。まるで、冷たい何かが背後から忍び寄ってきたような感覚。
さらに、その元住人について、近所の住人に話を聞いて回った。 古い記憶を辿りながら、一人の老婦人がぽつりと言った。 「ああ、あの子ね……よく 奇妙な音の話をしていたよ。『どこからか、未来の音が聞こえるんだ』って」。老婦人の目は、遠い過去を見つめているようだった。
未来の音。 その言葉は、蓮の胸に深く突き刺さった。自分の体験をそのまま言い当てているようだったからだ。
いてもたってもいられなくなった蓮は、その連続失踪事件について独自に調査を開始した。 図書館で当時の新聞記事を読み込み、インターネットの掲示板やSNSで、事件に関する情報を集めた。
中には、事件とは関係のない荒唐無稽な書き込みも多かったが、いくつか気になる証言が見つかった。
「失踪者の最後の目撃場所付近で、誰もいないのに物が落ちるような音が聞こえた」 「深夜、誰もいないはずの公園で、微かな足音が聞こえた」……。
まるで、自分の身に起こっている「未来の音」が、過去の事件の現場でも聞こえていたかのような錯覚に陥った。
蓮は、藁にもすがる思いで、かつてその事件を担当していたという退職した刑事を訪ねた。 高齢のその刑事は、事件の捜査に行き詰まり、心残りがある様子だった。
「奇妙な音、ですか……ええ、確かにそういう証言もありました。当初は被害者の精神的な不安定さからくる幻聴だと考えられていましたが……」 刑事は、蓮の話を聞くうちに、訝しげな表情を浮かべ始めた。
彼の鋭い視線が、蓮の奥底を見透かそうとしているようだった。 「もしかして、あなたも、何か聞こえるんですか?」
その刑事の言葉に、自分も同じ境遇であることが急に怖くなった。突然の恐怖にその場から一目散に逃げ出した。
待ちなさいという引き止めも気にせず、全力でその場から離れたくなったのだ。背後から、見えない何かが追いかけてくるような、強烈な衝動に駆られた。
第6章:惑わす助言
それから三日間、蓮は誰とも言葉を交わさなかった。
スーパーのレジで店員に会釈しただけ。スマホは手元にあっても、通知は届かず、誰かに連絡を取る気にもなれなかった。まるで、外界との繋がりを自ら断ち切るように、静寂の中に閉じこもっていた。
その間に、“音”はますます蓮の生活に入り込んできた。
風呂の湯を止めようとした瞬間、数秒前に“水が止まる音”が先に聞こえたり、ペットボトルの蓋を開ける音が、手を伸ばす前から鳴ったり。
まるで、音がすべてを“予告”しているかのようだった。行動と音の順序が逆転している。自分の行動が、まるで録画された映像を再生しているかのようで、実感が伴わない。
誰とも接触していない、部屋での完全な孤独。その孤独が、この異質な現象を増幅させているのだろうか。それが原因なのか。
蓮は、たまらなくなって、スマホを手に取った。 ふと、頭に浮かんだ名前。
──真司。
大学時代の数少ない友人の一人だった。特別仲が良かったわけではないが、ゼミの飲み会ではよく隣になって話したし、卒業後もたまに連絡を取っていた。気楽に話せる、数少ない“他人”のひとり。 今どうしてるんだろうか。
LINEを開くと、最後のやり取りは半年前。 「久々に飲むか?」という真司のメッセージに「今日は無理だから、また都合がいい時に連絡する」と返していた。社交辞令のような返信が、今の自分の状況を考えると、ひどく空虚に感じられた。
蓮は、ためらいながらも新しいメッセージを打った。 『久しぶり。今、ちょっと話せたりする?』
数分後、既読がついた。 『おお、蓮!久しぶり。今ちょうど暇。電話する?』
通知が届いた瞬間、蓮の部屋の空気が“変わった”。重苦しかった空気が、ほんの少しだけ変わった。それまで微かに聞こえていた換気扇の唸り、冷蔵庫の稼働音、窓の外の車の走行音。それらが、すべて“正しく”聞こえていた。
蓮は、すぐに「通話」を押した。 「おーい、蓮?聞こえる?」 「……ああ、聞こえる。久しぶり」
真司の声が耳に届いた瞬間、蓮は思わずため息をついた。乾いた心に、わずかな潤いが戻ってきたような安堵感。
「なんか、声がちゃんと“今”聞こえるのって、ホッとする」 「え?なに?蓮、今どこ?元気?」
「うん、まあ……元気かどうかは微妙だけど」 「なんか声やばいな?てかさ、実は俺もさ、転職活動うまくいってなくてさー」 真司は軽いノリで話を続ける。
蓮は少しずつ、現実の空気に戻されていく気がした。孤独の淵から、わずかに手を差し伸べられたような感覚。
「実は……ちょっと、相談したくてさ」 「お、なになに?就活の話? 恋愛相談?金借りたいとかだったら笑うぞ」
「……ちょっと、変なこと言っても、引かないで聞いてくれる?」 「なになに、めっちゃ気になるじゃん」
蓮は、息を吐いた。この奇妙な体験を打ち明ける覚悟を決めた。 「最近……家の中で、音が“先に”聞こえるんだ」 「ん?どゆこと?」
「たとえば、冷蔵庫を開ける音が、開ける前に聞こえたり、椅子を引く音が、立ち上がる前に聞こえたり……」
真司は一瞬、黙った。電話の向こうの空気が、ほんの少しだけ張り詰めた気がした。
「……お前、それ、未来が見えてるってことじゃね?」 「いや、見えてるわけじゃない。音だけ」
「十分じゃん!未来予知じゃんそれ!競馬とかやったら? 競馬!パチンコ!株!」 真司は笑っていた。
その楽観的な反応が、蓮にはどこか遠い世界のことのように感じられた。 だが蓮は、笑えなかった。自分の身に起こっていることは、そんな単純なものではない。
「真面目な話なんだけど……」 「いや、真面目に言ってんの。もしマジで未来の音が聞こえてるなら、やばいって。才能だよ、そりゃ」
「……でも、この現象って、ひとりのときにしか起こらない」 「え?」
「こうして電話で話してるときとか、SNSで誰かとやりとりしてるときは、音が止まる。ズレない」 「じゃああれだ、寂しいと起きる超能力?」
「……やめろよ、そういう言い方」 「ごめんごめん。でも、逆に言えばさ、“孤独じゃなければ起きない”ってことでしょ?」
「そう。でも、ずっと誰かと繋がってるわけにもいかないし……」 「なるほどねぇ。なんか面白いなそれ。オカルトっぽくて」 真司はそう言いながらも、どこかで「面白半分」の距離を崩さない。
蓮は少しだけ安心し、少しだけ疎外感を覚えた。 (この感覚、真司には伝わらないかもしれない)
それでも、蓮は感謝していた。 電話のあいだは、本当に“何も起きなかった”からだ。
音のズレも、未来の音も、一切。 通話を終えると、部屋の空気は静かに戻った。そして、再び訪れた静寂は、蓮に重くのしかかる。
そしてその静寂が──また、何かが始まる前兆のようで。 蓮は、スマホを手に持ったまま、しばらく動けなかった。嵐の前の静けさのように、不気味な予感が彼の心を覆っていた。
第7章:漏れ出す欲望
翌朝、目覚めた蓮は、寝癖のついた髪を直すこともせず、パソコンの前に座っていた。
スマホには夜のあいだに何件かのニュース通知が届いていたが、それらはすべて流し見た。現実世界の出来事は、今の彼にとってはどうでもいいことだった。
代わりに開いたのは検索ページ。検索した内容は「ギャンブル 即金」「カジノ 即結果」
昨日、真司との電話の中で言われた言葉が、耳から離れなかった。 ──未来がわかるなら、金が稼げる。その軽い言葉が、今の蓮にとっては 孤独からの出口のように思えた。
「未来がわかるなんて」普通なら荒唐無稽なセリフだ。 だが、蓮は“音が先に聞こえる”現象をすでに経験している。
もしその音が「ルーレットの玉が落ちる音」「カードを配る音」「スロットの当たり音」だったなら──? 勝負の結果が数秒早くわかるなら、確かに“金にできる”。その数秒が、彼の未来を変えるかもしれない。
重要なのは、「ひとりで行動できて、結果が短時間で出る場所」だった。誰かと協力したり、長い時間をかけたりするギャンブルは条件に合わない。
蓮は数時間かけて調べ、東京の外れにある郊外型カジノの情報を見つけた。 会員制の“模擬カジノ”──法律的にはセーフなのか怪しいグレーな施設だ。一攫千金を夢見る人間たちの、最後の逃げ場所のような場所かもしれない。
蓮は着替え、財布を確かめる。数万円だけ残っている。無色になってから減り続ける一方だった貯金の、最後の砦。 「行くか……」
心臓が、わずかに早鐘を打った。期待と不安が入り混じった、複雑な鼓動。
電車を乗り継ぎ、目的地に着いた頃には、日はすでに傾いていた。夕焼け空が、彼の焦燥感を駆り立てるようだった。
カジノは雑居ビルの三階にあり、重たいドアの向こうから、わずかに人の声と音楽が漏れていた。欲望と後悔が渦巻く、別次元への入り口のように感じられた。
受付で身分証を提示し、チップに交換する。 (こんなところ、初めて来た……)
緊張で胃が痛んだが、胸の奥に別の熱もあった。 ──これで、未来が見えるなら。この力が、自分の人生を好転させる唯一の手段かもしれない。
中に入ると、テーブルゲームが並び、ディーラーが丁寧な笑顔で迎えた。その笑顔の裏に、どれだけの欲望と失望が隠されているのだろうか。
蓮はブラックジャックのテーブルに座る。 他にプレイヤーはいない。孤独な空間こそ、彼の能力が最大限に発揮される場所。
「おひとりですか?初めてですか?」ディーラーの言葉に、蓮は小さく頷いた。
ディーラーがカードを切る。
──シャッ。
その音が、先に聞こえた。乾いた、未来を告げる音。 実際にカードが配られるまで、数秒のラグ。 (やっぱり……来てる)
ディーラーの動きより先に、音が聞こえる。まるで、スローモーションを見ているかのように、現実が音に追いついてくる。
配られたカードは「10」と「8」。
ディーラーの見えているカードは「6」。
数秒後、ディーラーの方にカードが2枚配られ、チップがこちらに配られる音がした。(であればスタンドでいい……)
聞こえた通りの勝利。それは小さな勝利だが、蓮は指先がわずかに震えるのを感じていた。成功の予感が、静かに彼の内側で燃え上がった。 勝てる。
次のラウンドも、音が先に聞こえた。 シャッフル、配る音、チップを置く音。すべてが現実より先に耳に入る。未来の音が、彼の行動を導く羅針盤となる。
もちろんいくら先に音が分かってもどうしようもなく負けることもある。
ただ先の音を聞けるのだから有利なことは間違いはない。
次第にチップの量が増え、テーブルの上に積まれていく。 緊張感が興奮に変わっていった。一攫千金への淡い期待が、彼の心をざわつかせる。 (勝てる。こんな簡単に……)
体の奥が熱を帯びていく。 「すごいですね。ツキが来てるみたいだ」 「……」
ディーラーの言葉に返事をすることもなく、ディーラーの声の裏で聞こえる“カードの切れる音”が、もう次の結果を教えてくれていた。未来の音は、容赦なく次の勝利を告げる。
その夜、蓮は3万円を10倍にして帰路についた。札束の重みが、彼の手にずっしりと感じられた。
翌日も、同じカジノへ向かった。 今度は、ルーレットのテーブルへ。
音が先に答えを教える。 ──カラカラカラ……コトン。ザワザワ… 周りの客の反応する音から察するに、赤だ。未来の音が、勝利の色を告げる。
ボールが止まる音が聞こえたあと、ディーラーの手元が動き、ボールが本当に止まる。
赤。 勝利。
少しずつ、客とスタッフの目線が蓮に集まり始める。 「連勝ですね……」 「…」
周りの声には反応できない。背中を冷たい汗が伝う。注目が集まるほど、孤独を守らなければならないというプレッシャーが増していく。
蓮は“孤独”でなければこの能力が使えないことを知っている。 誰かと話してしまえば、それだけで音は止まる。 だから、勝負中は極力誰とも目を合わせない。
他者の存在は、彼の唯一の武器を奪い去る脅威となる。
声をかけられても無視に近い反応で済ませ、孤立を保つ。 音が消えるのが怖かった。この奇妙な力が失われたら、皮肉にも彼はまた元の孤独な生活に戻ってしまう。
この力は、自分の人生を変えられる。 それを誰かに“止められる”のが、怖かった。成功の喜びよりも、失うことへの恐怖の方が大きかった。
帰宅した蓮は、チップを現金に換えた札束をじっと見つめていた。 「こんなに、簡単に……」
笑いが漏れた。それは、喜びというよりも、現実感のなさからくるものだった。 音が、蓮に勝利をもたらしてくれる。 ただし、それは“誰にも見られていないときだけ”。その条件が、彼の成功を常に不安定なものにしている。
そうやって手にした札束の匂いは、どこか鉄の匂いがした。それは欲望と孤独の匂いだったのかもしれない。
第8章:加速する力
蓮はカジノに通い詰めていた。 平日は午前中から、休日は夜の閉店ギリギリまで──店員の視線を避けながら、テーブルを渡り歩いては勝ちを重ねる。まるで、時間に追われるように、貪欲に利益をむさぼり続けた。
音は裏切らなかった。
音は常に、少しだけ早く届いた。カードの切れる音、ルーレットの球が弾む音、チップが弾かれる音。 どれもが数秒先の“未来”を告げてくれる。
ただし、それが聞こえるのは“孤独”のときだけ。 何度か誰かに話しかけられたり、視線を向けられたりすることがあったが、その度その音はぴたりと止まり、突然五分五分のギャンブルに引き戻された。
だから蓮は、徹底して孤立した。 目を合わせない。声を発さない。誰とも関わらない。 それはまるで、自分の存在をこの空間から消し去るような行為だった。
数十万円の利益を得た週末、蓮はついにハイローラー専用のVIPフロアに招かれる。 個室に近い空間で、高額チップを扱うディーラーと対峙する。そこは、一握りの勝者と、大金を失った敗者の残滓が漂う、 特殊な世界だった。
「よくいらっしゃいました、山本様」 名前を呼ばれた瞬間、背中にじわりと冷たいものが流れる。(名前を覚えられた……まずいかもしれない)
だが、音はまだ来る。
──シャッ。 カードを切る音。
──カラ……トン。 球が沈む音。
未来のさざ波が、耳を撫でてくる。 蓮は黙って頷き、賭ける。 的中する。
再び賭ける。 また的中する。
どこか、自分の体が“慣れてきている”ことに気づく。 (俺は、この異常に適応してしまっている)まるで、それが自分の日常の一部であるかのように。
だが、異変は少しずつ、音とは別のところに現れ始めていた。 最初は、帰宅後のことだった。
靴を脱ごうとした足が、思ったよりも強く玄関の床を踏みつけた。 手を洗おうとしたら、水道のレバーを“勢いよく”ひねってしまい、手がびしょ濡れになった。
動きが、少しだけ荒くなっている。 (疲れてるのか……?)
だが、その傾向は日に日に強まっていく。 ある日、カジノのスロット台の前で、手が勝手にボタンを押していた。
音が聞こえた数秒後、まるで音に操られるように、自分の意思とは無関係に。 「……今、俺……押したか?」
確かに、押した記憶がある。だが、それは“自分の意思”だったのか?その境界線が、曖昧になりつつあった。 まるで、音が“合図”を出し、それに反応して身体が動いたような感覚。
蓮は、怖くなった。 勝っているのに、怖い。 利益を得ているのに、心がざわつく。それは、得体の知れない何かに支配されているような、根源的な恐怖だった。
カジノの帰り、電車の中でスマホを取り出した。 SNSを開いても、誰にも連絡を取れなかった。もし誰かと話してしまえば、音が止まる。またその音が戻ってこないのではないか。それが怖い。
孤独でなければ、未来の音は聞こえない。 だがその孤独が、自分を確実に蝕んでいる。
帰宅途中のコンビニでまた奇妙なことが起こったコンビニで飲み物を取ろうとしたら、手が動き隣の商品をはじき飛ばした。誰も見ていないはずなのに、どこかに“見られている感覚”が常にある。
もしかして、音を“誰か”が出している? ──そう考えたとき、音が聞こえなくなった。
数秒間ではあるが、まったく何も聞こえなかった。音が消えた世界。
それは、安堵と恐怖の入り混じった静寂だった。 どのすれば手足を動かせるのだったのかわからなくなってしまいそうになる不安。 自由に動けるはずなのに、自分が自分ではないように思えた。 その静寂はいつの間にかなくなり、音はまたズレたまま聞こえだした。
その音が安心をもたらしてくれた。 (俺は……この音に依存していたんだ)まるで、麻薬のように、その異常な感覚なしではいられなくなっていた。
勝てるという幻想。未来を知っているという優越感。 それがすべて、“音”によるものだったと気づく。 そして今、自分の身体がそれに“慣れすぎて”しまっていたことにも。
「……戻れないのか、俺」
蓮は、帰宅してソファに倒れ込んだ。 札束の入った封筒が、机の上に無造作に置かれていた。その厚みが、彼の空虚な心をさらに際立たせる。 重さだけは、確かに手に残る。 だが、その金はすべて“誰にも見られずに得たもの”だった。
その夜、蓮は夢を見た。 誰かの目の前で、椅子に座っている自分。 だが、その自分は喋らず、ただ、誰かの声に反応して動いている。
音が鳴る。 自分が動く。
音が止まる。 自分も止まる。
まるで操り人形のようだった。夢の中の自分は抜け殻だった。
第9章:近づく因果
『若手起業家、自殺か。多額のギャンブル損失』それは、新聞の片隅の記事だった。
蓮がコーヒーを啜りながらなんとなく開いたネットニュースのヘッドライン。それは、カジノで勝った翌日に目に入った。
蓮は一瞬、心臓を掴まれたような感覚に襲われた。
記事を読むと、どうやらカジノに使い込み多額の借金を背負っていたらしい。高額ベットを連続で外し、精神的に不安定になっていた、という内容。 ──俺が勝った、あの日の裏で。
もちろん、直接的な関係があるわけはない。だが、他人事とは思えない嫌な予感は拭えなかった。まるで、自分の成功が、誰かの不幸の上に成り立っているような気がして。
あの日も、例の音が明確に“来ていた”。音が先に届き、その通りに行動して勝利を得た。 その直後に、彼が破滅した──と考えると、背筋が冷たくなる。
(いや、まさか……そんな偶然)
だが、偶然がもう一つ続いた。 数日後。別のニュース。
『副業ギャンブルで生活破綻 中年男性が駅で飛び込み』 また──同じ日。
蓮はその日もカジノで勝っていた。 しかも、ハイベットで大勝した日。勝利の喜びは、一瞬にして恐怖に変わる。 (……俺は関係ない)
記事を保存し、気になってSNSを調べてみた。 “ギャンブル負けた” “今日で最後にする” “全部消えろ”──
不穏な投稿が複数あった。中には、明らかに“その時間帯”に投資・ベットをしていたと推測できる書き込みもあった。匿名の言葉の断片が、彼の良心をじわじわと苦しめる。 (もしかして……)
自分が勝つことで、誰かが負けている。 それ自体は、ギャンブルという仕組み上当然のことだ。 だが──それが“意図せず起こった”のではなく、“音がそう仕向けている”としたら?もし、自分の聞いている未来の音が、誰かの破滅に繋がっているとしたら?
音は未来から来る。 しかし、その未来は、“誰かにとって不幸な未来”だったのかもしれない。 音を通じて、蓮は他人の不幸とリンクしている。 (俺は……誰かの損失の上で、勝っていた?)
孤独な勝利の先にあったのは、連鎖的な破滅の影。 それに気づいた瞬間から、蓮の耳には“別の音”が混じるようになる。
──トン、トン。 不意に、床を叩くような小さな音が聞こえる。それは、まるで誰かが助けを求めているような音。
──ガタン……。 扉が動いたような気配。
外に出てみるが、誰もいない。廊下の静けさが、一層不安を駆り立てる。 (まさか……)
その夜、ポストに差出人不明の封筒が入っていた。 中には、蓮の写った写真。
カジノの外で、スマホを見ながら歩いている蓮。 ──背後から撮られている。
蓮は思わず周囲を見回した。 が、マンションの廊下に誰もいない。
静寂の中、耳鳴りのように、“シャッ”という音だけが、微かに繰り返された。カードを切る音。 だが今は──誰も、カードなど配っていない。
“誰か”が自分を見ている。それが最初に浮かんだ感情だった。
そして“誰か”が、この音の先にいる。 その存在が、まだ姿を現していないだけで。
音だけが、忠実に未来を告げている。 未来とは、果たして“蓮が得るもの”なのか。 それとも、“蓮が支払うもの”なのか。今や、その音は 恩恵ではなく呪いのように感じられた。
第10章:追う者
朝、玄関の前で足が止まった。 新聞受けを開けると、中にまた何かが入っていた。
蓮は無言でそれを取り出し、封筒の中を確認する。 そこにはまた一枚、写真が入っていた。
今度は、蓮の部屋の前に立つ自分の背中。
──明らかに、自宅マンションの階段から撮られている。 (もう……完全に見られてる)逃げ場はない。自分のプライベートな空間が、すでに侵食されている。
この“監視”が、誰なのかは分からない。 だが、何かが、確実に自分に近づいている。それは、目に見えない鎖のように、彼の自由を奪っていく。
部屋の中に戻っても、足音が耳の奥から離れない。聞こえたような、聞こえなかったような曖昧な音。 いや──あれは“これから鳴る音”だったのか。 そう、いつも通り、音は先に来る。 未来から届いた足音。 (誰かが……俺に近づいてる)その足音は、静かに、しかし確実に、破滅へと向かう道を告げている。
その“誰か”が誰かまでは分からない。 ただ、その存在が自分にとって“危険”であることだけが、直感として伝わってくる。本能が警鐘を鳴らしている。逃げろ、と。 それからというもの、蓮の周囲には小さな異変が増えていった。
郵便受けが開いている。玄関マットがズレている。洗濯物が風もないのに揺れている
──そんな些細なことすら、疑心の種になっていく。日常の些細な出来事が、全て悪意のある予兆に思えてくる。
SNSにログインすると、知らないアカウントからのDMが届いていた。 『お前がやったんだろ』 一言だけ。短い言葉の中に、見えない怒りが宿っている。
続けて別のアカウントからも。 『見ていたぞ』 (……偶然、じゃない)これは、明確な脅迫だ。見えない手が、彼の首を締め始めている。
画面を閉じようとするが、DMは次々に届く。 『お前が勝った日のせいで、全部終わった』 『代償、払えよ』 その夜、蓮は眠れなかった。
頭の中では、例の“音”が繰り返し再生される。 カードの音、椅子の音、足音……。 そして、まだ聞いたことのない音も混じっていた。
──鈍い衝撃音。 ──誰かの呻き声。 ──金属が擦れる音。 (何の音だ……?)それは、未来の破滅の断片なのか。
思い出そうとするが、蓮には“記憶にない音”だった。 いや、正確には、“これから起こる音”。
その音が“未来の自分の音”である可能性があることに気づき、蓮は全身の血が逆流するような錯覚を覚えた。(もしかして──これは、俺が……)
その瞬間。 ──ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。 正確には数秒後に鳴らされるであろうチャイムの音だ。
蓮は全身が硬直する。画面を確認する。インターホンのモニターに、誰も映っていない。 だが、音がしたのは確かだった。そこにいない存在が、確かにそこにいる。
──ゴン。 今度は、扉を叩く鈍い音。それは、 友好的なノックではない。もっと 暴力的に感じる接触。 (何かが……来てる)
確実に“今起きている現象”として、蓮の世界に侵入してきていた。 身体の奥が凍えるように冷えていく。音を操っていたはずの自分が、今や、音に追い詰められている。 音を支配していたはずの自分が、今や“音に追い詰められている”。
まるで、音が自分の破滅を告げる鐘のように響いていた。
第10.5章:沈んでいく男
俺は服部翔太(はっとりしょうた)。どこにでもいる中間管理職の会社員。 最初は、ただの遊びのつもりだった。
残業帰りに開いたネットカジノ。気晴らしのつもりで回したルーレットが、たまたま当たった。1万円が3万円に増えた。 それだけで、世界が少し明るくなった気がした。
「……これ、いけるんじゃねぇか」
オンラインカジノだけでなく、実際のカジノにも手を出してみることにした。それからは給料から少しずつ金を移すようになった。 数日間は勝ちが続いた。
しかしある日から負け始めた。 それもただ負けるだけじゃない。音が遅れて聞こえはじめたのだ。
ルーレットで玉が止まり、結果が出たとき、耳に届いくのは数秒遅れで響く「カラカラ……カタン」という玉の落ちる音。
まるで、世界が俺だけを置いてきぼりにしているような、そんな感覚。
自分が見た“外れの結果”の後で、ようやく耳に“答えの音”が届く。 その現象は繰り返し発生した。しかも、負けが続く時だけ、その“遅れ”が発生するようになった。
見えない力に、弄ばれているような感覚におちいり苛立ちが募った。
勝っていた頃は、そんなことなかった。音は普通に聞こえていた。だが今は違う。カジノの結果が先に“決まって”いて、音は“あとから”届く。
自分が負ける隣のテーブルで、一人の男が大金を得ていた。自分だけなぜ。人生はあまりに不平等だ。
耳がおかしくなったのかと思い、病院に通ったが診断は異常なし。精神的に参っていると思ったが、特に問題なしとの診察だった。
しかしカジノで負けると自分が受け取っているのは、“過去”の音。すべて終わったあとに、音で答えを知らされているだけ。
自分の選択には意味がない。すでに敗北が確定した世界に、ただ遅れて追いついているだけ。 誰にも話せなかった。こんな感覚理解されるはずがない。次第に日常の生活でも音が遅れて聞こえてくるようになった。
会社で呼ばれた名前に反応できない。背後から声をかけられても、一呼吸遅れて振り向く。 「最近反応遅いな。大丈夫か?」
そう言われても、頷くまでに3秒かかる。 反応できないのではない。音が“遅れて”届くのだ。世界との同期が完全に狂ってしまった。
“世界”が先に動き、自分はそれを追いかけている。 気づけば、口癖のように「間に合わなかった」と呟くようになっていた。
カジノでの負けがかさんで借金が膨らみ、生活が崩れ、心も壊れていった。 最後の一万円を賭けた夜。 ルーレットの玉は黒に落ち、即座に資金が消えた。
その後、数秒遅れて、「カラカラ……カタン」と球の落ちる音。
──なぜ黒にベットできなかったのか。
もう分かっていた。俺は、何もかも“後手”だった。 勝てるはずのタイミングは、誰か他の人間の手に渡っていたのだ。 目を閉じると、音が少しだけ早く聞こえた気がした。
でも、それは“俺の音”じゃなかった。俺の人生は、ずっと“他人の勝ち”の残響だったんだ。
他者の成功の影で、ただ自分は沈んでいくだけ。そう思うと、何もかもが遠くに感じた。
隣に座る男は対照的に大勝負に勝ち、大金を手にしていた。俺が負けた分この男が勝っている。そう思うと無性にその男に腹が立った。
よく見るとこの前もこの男が勝っている横で自分が負けていた。すべてこの男のせいなのか。
もう普通にはやり直しのきかない人生。この男から取り戻すしかない。
大金を得ている男について入念に調べ、一週間後の夜に計画を実行することにした。
第11章:喪失する意思
迫りくる音よりも速く。恐怖が蓮を追い詰めていった。
チャイムが鳴って以降、誰かが玄関の前にいたかどうか、確認する勇気が出なかった。
モニターに映らない恐怖が、彼の心を次第に蝕んでいく。
そのとき──カランッ。コップが倒れた音がした。 気になりキッチンに見に行く途中、ガシャリ。と激しく割れる音がした。 「……なんで?」
問いかけた直後、蓮の右腕が勝手に動いた。 キッチンにあったマグカップを弾き飛ばし、それが壁にぶつかって落ちる。
音と行動の順番が、完全に逆転している。 いや、それ以前に、身体の制御が効かない。
今までになく、まるで誰かに操られているかのように自由に動くことができなかった。自分の身体が、まるで異質な存在に、音に支配されているように。 恐怖で体が震える。
ただ解決策は孤独から抜ければいいということはわかっていた。
体がうまく動かせない中、何とかスマホを手に取った。震える親指が、連絡先の真司の名前を押す。 ──発信中。
数秒後、着信音。
「……おい、蓮?どうした?」 「し……真司……助けて、俺……なんか……」
声が震えていた。息も荒い。何より、ようやく“自分の声”が自分のものに戻った気がした。
「おい、大丈夫か? なにが……」 その瞬間。 すべての“先に鳴る音”が、止まった。自我を取り戻したような安堵感。
蓮の体が、自分の意思で動く。 リビングの隅に座り込み、スマホを握りしめる。久しぶりに感じる、自分の身体を制御できる感覚。
「おい、蓮!何があったんだよ!」 「……ごめん、なんでもない。ただ……声、聞きたかっただけ」
「マジで何かあったろ。今から行こうか?」 「……いや、いい。もう、切るよ」
「ちょ、おい──」
通話を切った瞬間だった。 ──ピキ……。
耳鳴りのような、静かな割れる音が、耳の奥で響いた。 再び、音が戻ってくる。
未来からの音が、蓮の周囲に漂い始める。 足音。
ドアノブがゆっくりと回る音。 自分の息遣い。そして、床に滴る音。
蓮は頭を抱えた。せっかく掴んだはずの希望の光が、再び闇に飲み込まれていく。
真司の声は、確かに自分を正気に戻した。 だが、通話が終わった今、自分はまた“孤独”に戻った。そして、孤独は、あの忌まわしい音を呼び戻す。
そして、この音が再び始まるということは── また、“誰にも見られていない時間”が始まったということ。
──ピンポーン。玄関のチャイムが再び鳴る。
第12章:終わる孤独
激しいノックの後、ガチャリと鍵の開く音が聞こえた。
そしてドアノブが軋み、重たい扉が開く音。 その音は静寂を引き裂くように、蓮の鼓膜を震わせた。
しかし玄関の扉はまだ閉まったままだ。数秒後に誰かが入ってくるのはわかっていても、体が動かない。
自分の体が動く音がしないのだ。音に完全に体をコントロールされてしまった蓮には指一本動かないどころか、恐怖に張り付いた視線を移動させることすらできなくなっていた。
ぬらりとした黒い影が部屋に入ってきたかと思うと、 耳の奥で鋭利な金属が空気を切り裂くような、冷たい音が響いた。
恐怖が、音よりも早く、蓮の全身を氷の檻に閉じ込めた。
その刹那、液体の滴る音と、かすれたうめき声が自分の中から聞こえた。
──だが、まだ俺はまだ出していない。その断末魔の叫びを。
そして、突如として、世界からあらゆる音が奪われた。
足音も、扉の軋みも、侵入者の呼吸さえも聞こえない。 まるで、真空の空間に放り出されたように、完全な無音。
音が……消えた……なぜ?
この静寂…全てが終わったのか? まだ終わりたくない。生きたい。
そう考えても、もはや手遅れだった。
その無音の中で、蓮は悟った。 聞こえていた音は、確定した未来だったのだと。
変えることのできない、すでに決定された結末。
自分が音を聞き、それに抗おうとしたことさえ、あらかじめ定められた筋書きの一部だったのかもしれない。
未来は決して揺るがず、ただその容赦なき意志のままに、全ては進行していたのだ。
その思考が脳裏をよぎった瞬間、腹部に鈍く、業火のような熱い痛みが走った。
視線を這わせると、黒い影が、血塗られた凶器を蓮の体から貪り食うように引き抜くのが見えた。
同時に、床に滴り落ちる、生温かい液体。 その音は既に確かに聞いていた、自分の血が流れる音を。 (ああ……これが、確定した未来……)
抗う術もなく、蓮の意識は、無音の闇へとゆっくりと沈んでいった。
最後に彼の脳裏に焼き付いたのは、あの静かな夜、最初に聞いた、自室の冷蔵庫が閉まる音だった。あれが全ての始まりだったのだ。
身の回りでごく稀に聞こえる、正体不明の音。それは、あなたのすぐ傍まで忍び寄る、未来からの不吉な囁きなのかもしれない。
そしてそれは、決して逃れることのできない宿命なのかもしれない。
