小さな水槽の中で
職場という場所は不思議だ。
こちらが誰かを敵視しない限り、案外穏やかな関係を保ちながら働ける。少なくとも私は、長い間そう思っていた。
与えられた仕事をして、周囲と協力し、できるだけ気持ちよく働く。困っている人がいれば手を貸し、感謝されたら「お互いさまです」と笑う。それくらいの距離感で十分だった。
出世はしたかった。ただ私は、誰かを蹴落としてまで出世したいとは思ったことがない。認められた人が出世する。だから、私なりに頑張って仕事をした。
もちろん、合う人合わない人はいる。職場なのだから、多少の好き嫌いや温度差があるのは当たり前だ。だが私は、割と容易に溶け込むことができていた。中和することが自分の役回りだと感じるくらい、人間関係で悩んだことはなかった。
必要以上に群れなくてもいい。
だけど、距離感の近い温かい職場は、居心地の良い「居場所」だった。
きちんと働いて、誠実に人と関わっていれば、大きな問題にはならない。そう信じていた。
実際、役割を持つ前の頃は、それでうまくいっていた。
多少忙しくても、「ありがとう」と声を掛け合える空気があったし、困っている時には自然と助け合えた。誰かが頑張っていれば、「すごいね」と言い合える関係もあった。
私はその空気を、疑ったことがなかった。
人間関係とは、そういうものだと思っていた。
けれど、ある時から空気が変わった。
最初は、本当に些細なことだった。
挨拶のあとに残る妙な間。私が近づくと終わる会話。今まで普通に共有されていた連絡が、なぜか自分にだけ来ていないこともあった。
そんな小さな違和感が、少しずつ増えていった。
でも、その頃の私は、まだ深刻には受け取っていなかった。
気のせいかもしれない。
そう思おうとした。
こちらが敏感になりすぎているだけかもしれない。
そうやって、一つひとつに理由をつけながら、自分を納得させていた。
誰かに嫌われている、避けられている、悪意を向けられている――そんなふうに考えること自体、どこか大袈裟で、自意識過剰な気がしていた。
だから、いつも通り振る舞った。
笑顔で挨拶をして、丁寧に仕事をして、余計なことは言わない。
そうしていれば、きっとまた元に戻ると思っていた。
でも、違和感は消えなかった。
むしろ少しずつ、輪郭を持ち始めた。
冗談のように聞こえる小さな嫌味。わざわざ私に聞こえるように言われる言葉。以前なら笑って終わっていたはずのやり取りに、どこか棘が混じるようになっていった。
気にしたら負けのような気がして、私は気付いていないふりをして、明るく笑ってやり過ごしていた。
でも心は、ちゃんと傷ついていた。
人は目に見える攻撃と同様に、“説明できない空気”にも強く消耗する。
露骨に嫌われるならまだわかりやすい。
でも実際は、そんなにはっきりしたものではなかった。
ただ、居づらい。
空気が少し冷たい。
情報を抜かれているような会話。
その感覚が、毎日じわじわと心を削っていく。
私は少しずつ、「空気を読むこと」に神経を使うようになっていた。
この人にこの話はして大丈夫だろうか。
ネタ探しのための親しげな会話なのではないか。
そんなことを考えながら働く時間が増えていった。
以前は楽しかった会話も、どこか構えるようになった。
自分の言葉がどう受け取られるのか、必要以上に意識するようになっていた。
そしていつの間にか、誰にも心を開かないようになっていった。
そのかわり、自分を自分で認め、奮い立たせた。
その圧力に逆らうように、あえて前に出る。
みんなができないことができたのなら、謙虚をやめ、発信する。
自分の意見は遠慮なく言う。
出る杭になると決めた。
誠実に働いて、人に配慮して、人間関係は穏やかに保てるものだと信じていた。
しかし、そうではなかったのだ。
私は何をしたのだろう。
誰かを傷つけただろうか。
何か失礼なことを言っただろうか。
頭の中で何度も振り返った。
帰り道、一日の会話を思い返すこともあった。
あの時の言い方がよくなかったのかもしれない。
あの場面で前に出すぎたのかもしれない。
そんなふうに、自分の中に原因を探し続けていた。
けれど、思い当たるものは見つからない。
そんな時、ふと気づいたことがある。
出世する前に働いていた頃、私は誰かに強く警戒されることはなかった。多少目立っても、「頑張っている人」「頼れる人」で終わっていた。
でも、役割が変わり始め、出世した頃から、空気が変わった。
「私」の席に、自分は何歳になったら座れるのか。
「私」がいる限り、自分はどうなるのか。
そんな計算を、頭の中で始める人がいるのだと、少しずつわかってきた。
能力そのものではなく、“存在”が厄介になる瞬間なのだろう。
こちらにはそんなつもりはなくても、相手の中では勝手に比較が始まり、勝手に脅威になる。
私はその頃、まだ知らなかった。
人は、自分の届かないものを前にした時、憧れる人と、引き摺り下ろしたくなる人に分かれるのだということを。
誰が今機嫌が悪いのか。
どの話題なら安全なのか。
どこまで言えば角が立たないのか。
そんなことを瞬時に考える力は持ち合わせていた。しかし、負けたくなかった。そんな圧力に屈したくなかった。
だからあえて強くあろうとした。
本来仕事とは、そんな駆け引きの能力ばかりを磨く場所だっただろうかと、今になって思う。
組織の中で人間関係は大切だ。協力し合うことも必要だと思う。いつからか私は、「仕事」よりも「感情」に気を配る時間の方が長くなっていた。
それに気付いていたから敢えて、意識して強くやり過ごした。
違和感の正体に、少しずつ気づき始めた。
出世せずに働いている時、人は案外穏やかだ。
多少仕事ができても、「頼りになる人」「助かる人」で終わる。目立ったとしても、それは組織にとってプラスとして受け取られることが多い。
けれど、出世すると空気が変わる。
それまで普通に接していた人が、急によそよそしくなる。些細な言葉に敏感に反応される。こちらの発言を必要以上に深読みされる。
最初は不思議だった。
同じように働いているだけなのに、なぜ急に距離ができるのだろうと。
でも、ある時ふと思った。
もしかすると、人は「能力」だけを見ているのではないのかもしれない、と。
その人がどこまで出世しそうか。
自分より前に出る存在なのか。
自分の未来に関わる相手なのか。
そういうものを、本能的に測っている瞬間がある。
特に年齢が近いと、その比較は露骨になる。
「あの人がその役職にいる限り、自分にその立場が回ってくるのは何年後なのだろう」
「自分より若いのに」
「自分の方が長くいるのに」
そんな計算が、頭の中で静かに始まる。
こちらには競争しているつもりなどない。
けれど、相手の中ではすでにレースが始まっている。
私は長い間、それに気づかなかった。
なぜなら、自分の基準でしか人を見ていなかったからだ。
私は、誰かが評価されても、「すごい」「頑張っているんだな」と思うタイプだった。だから、自分も同じように見られていると思っていた。
でも、人は必ずしもそうではない。
誰かの成長を、自分の価値が下がることのように感じる人がいる。
誰かが前に出ることで、自分が置いていかれる気がする人がいる。
その恐怖は、時に驚くほど攻撃的な形になる。
しかも不思議なことに、そういう時、人は一人では動かない。
だいたい、連む。
人は「誰かと一緒」になることで安心する。
「あの人ちょっと嫌だよね」
「なんかわかる」
「前から思ってた」
そんな小さな共感を重ねながら、少しずつ「連帯感」という名の圧力で空気を作っていく。
一人で誰かを攻撃するのは怖い。でも、みんなでやれば怖くない。
そこには、「自分だけじゃない」という免罪符がある。
そして集団になると、人は驚くほど残酷になれる。
笑顔で近寄り、情報を抜いているのだ。新たな情報を収集し、その集団で「よくやった」と重宝されるために。事実より“空気”が優先される。気づけば、「何となく嫌な人」というイメージだけが出来上がっている。
私はその空気の中にいる時、くだらない集団だと思っていた。そしてできることなら、その悪事が公に出ることさえ願っていた。
今ならわかる。
あれは、私個人の問題だけではなかった。
組織の中では時々、「自分の不安」を誰かに背負わせようとする空気が生まれる。
不満。
焦り。
劣等感。
停滞感。
本当は自分自身と向き合わなければいけないものを、誰か一人を悪者にすることで誤魔化そうとする。
その時、標的になりやすい人がいる。
真っ直ぐな人だ。
裏表がなく、変な駆け引きをしない人。真正面から仕事をして、真正面から人と向き合おうとする人。
そういう人は、時々組織の中で浮く。
なぜなら、多くの人が無意識にしている“濁し方”を知らないからだ。
適当に合わせること。
見て見ぬふりをすること。
空気のために本音を曲げること。
そういう技術がない。
だから眩しい。
そして、人は時々、自分の濁りを突きつけてくる存在を嫌う。
もちろん、当時の私はそんなふうに整理して考えられなかった。
ただ苦しかった。
どれだけ縮こまっても、攻撃される時はされる。
「どうせなら突き抜けよう!」
あんなに居心地のよかった私の「居場所」は、
「戦いの場」と化していた。
そのときまだ私は知らなかった。
世界は、そこだけではないということを。
私は長い間、温かく柔らかい人間関係の中で過ごしてきた。それが「普通」だと信じて疑わなかった。なんて温室育ちだったのかと今ならわかる。
人には相性がある。
考え方が合わないこともある。
けれどそれなりに折り合いをつけて、温かく柔らかい空気感で過ごせるものだと思っていた。
わざわざ的を作り、誰かと共有し、確認し合い、連む。
それがずっと不思議だった。
なぜ、そこまでして一人の人間を気にするのだろう。
嫌なら放っておけばいいのに、と。
でも、少し離れた場所から見えるようになって、ようやくわかったことがある。
人は、「自信が持てない時」に群れるのだ。
本当に自分の考えに自信がある人は、わざわざ仲間を集めて確認作業をしない。
「私はこう思う」
それだけで立っていられる。
でも、不安がある時、人は誰かに同意してほしくなる。
「あの人ってちょっと変だよね」
「なんかわかる」
「私も前から思ってた」
そうやって小さな共感を積み重ねながら、自分の感情を“正しさ”に変えていく。
一人の感情では弱い。
でも、三人集まると急に“空気”になる。
その空気は、とても厄介だ。
ちゃんと誰かを孤立させる力を持っている。
露骨な攻撃に負けないくらいの、負のオーラ。
しかもそこには、「みんなそう思ってる」という安心感がある。
人は、“自分一人で嫌う”と思うのは怖い。
だから、仲間を作る。
すると不思議なことに、罪悪感が薄れていく。
一人では言えないことも、集団の中だと言える。
一人ではできない態度も、みんな一緒だと思うとできてしまう。
私はその空気の中にいた時、人間ってこんなにも簡単に残酷になれるのかと驚いた。
しかも、多くの場合、本人たちは「いじめている」と思っていない。
むしろ、「あの人にも原因がある」と本気で信じている。
そう思わなければ、自分たちのしていることを正当化できないからだ。
だから、少しずつ“理由”が作られていく。
気が強い。
空気が読めない。
自信過剰。
なんとなく苦手。
最初は曖昧だったものが、共有されるうちに“事実”のようになっていく。
でも今思えば、そこに明確な理由なんてなかったのだと思う。
ただ、その人が気になった。
それだけだ。
存在が目につく。
眩しい。
気になる。
その感情を認めたくない時、人は相手に理由を貼り始める。
そしてもう一つ、不思議なことがある。
連んでいる人たちは、一見とても強そうに見える。
でも実際は、逆なのだと思う。
本当に満たされている人は、誰かを監視することにそんなに時間を使わない。
誰がどう評価されたとか、誰がどこへ行ったとか、誰が何を始めたとか、そこに執着しない。
自分の人生を生きることで忙しいからだ。
でも、自分の人生が停滞している時、人は他人を見始める。
自分では前へ進めない苦しさを、誰かを引き止めることで埋めようとする。
だから、動こうとする人ほど目立つ。
新しい挑戦をする人。
自分の言葉を持ち始めた人。
外の世界を見ようとする人。
そういう人は、同じ場所に留まり続ける人たちにとって、不安を刺激する存在になる。
なぜなら、本当は自分も動きたかった気持ちを思い出させるからだ。
私は昔、「嫌われる人には理由がある」と思っていた。
でも今は少し違う。
誰かの中に眠っていた不安や劣等感を刺激してしまう人がいる。
ただそれだけのことも、世の中にはある。
もちろん、だからといって傷つかなくていいわけではない。
実際、あの頃の私は苦しかった。
人の視線を捉え、空気に敏感になった。
でも、今振り返ると、あの集団の中心にあったものは“強さ”ではなかった。
むしろ逆だった。
不安だったのだ。
置いていかれることが。
変わっていく人を見ることが。
自分だけが同じ場所にいるように感じることが。
だから連む。
一人では向き合えない不安を、「みんな」で包み込もうとする。
私はようやく、その構造に気づき始めていた。
私は長い間、「純粋」という言葉は褒め言葉だと思っていた。
真っ直ぐであること。
誠実であること。
裏表がないこと。
それは、人として大切にしたいものだと思っていたし、自分自身もそうありたいと思って生きてきた。
でも社会の中では時々、その“真っ直ぐさ”が浮いてしまうことがある。
むしろ、眩しすぎて煙たがられることさえあるのだと、私は後になって知った。
純粋な人は、駆け引きが苦手だ。
誰かを蹴落として自分が上に行こうとしたり、空気に合わせて本音を曲げたり、「誰につくと得か」を考えて動いたりすることに違和感を覚える。
だから、真正面から頑張る。
仕事なら仕事。
人間関係なら人間関係。
不器用なくらい真面目に向き合う。
でも、組織という場所では、その“真っ直ぐさ”が時々都合の悪い存在になる。
なぜなら、人は誰でも、自分の中に少しずつ濁りを持っているからだ。
見て見ぬふりをしたこと。
本音を飲み込んだこと。
波風を立てないために合わせたこと。
そうやって、少しずつ社会に馴染んでいく。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。
大人として生きていく以上、必要な場面もある。
でも時々、その中に、濁り方を知らない人が現れる。
真正面から努力して、
真正面から喜んで、
真正面から傷つく人。
そういう人を見ると、自分の中の曖昧さや弱さまで照らされる気がして、苦しくなる人がいる。
眩しいのだ。
本当は、その眩しさに憧れているのかもしれない。
でも、届かないと感じた瞬間、人は時々、それを否定したくなる。
「あの人はわかってない」
「綺麗事ばかり」
「いい子ぶっている」
そんな言葉を貼りながら、相手の光を少し曇らせようとする。
私は昔、それを真正面から受け止めていた。
嫌われたのは、自分が未熟だからだと思っていた。
もっと空気を読めばよかったのかもしれない。
もっと器用に振る舞えればよかったのかもしれない。
でも今なら少しわかる。
純粋な人が狙われやすいのは、“弱いから”ではない。
むしろ逆だ。
その人が持っている真っ直ぐさに、周囲が無意識に揺さぶられるからだ。
特に、何かを諦めながら生きている人ほど、その眩しさは刺さる。
「どうせ無理」
「そんな綺麗には生きられない」
「現実はそんなものじゃない」
そうやって自分を納得させながら生きている時、まだ真っ直ぐでいようとする人を見ると、自分の中に置いてきたものまで思い出してしまう。
だから、潰したくなる。
そこまで大袈裟じゃなくても、せめて“同じ高さ”まで引き下ろしたくなる。
汚れてしまった自分を直視するより、その光を消した方が楽だからだ。
もちろん、当時の私はそんなふうに考えられなかった。
ただ苦しかった。
なぜ真面目に頑張っているだけなのに、こんな目に遭うのだろうと思っていた。
でも、世界を広げ、たくさんの人に出会う中で、少しずつ気づいた。
真っ直ぐな人を笑う人ばかりではない。
その姿に勇気をもらう人もいる。
救われる人もいる。
「自分ももう一度頑張ってみよう」と思う人もいる。
狭い世界の価値観だけが、全てではなかったのだ。
そして私はようやく、自分の真っ直ぐさを、無理に折らなくてもいいのだと思えるようになっていった。
転換点は、ある日突然ドラマのように訪れたわけではなかった。
何か大きな出来事があったわけでもない。
ただ、少しずつだった。
外の世界を知り始めた。
今までの私は、目の前の場所が世界の全てだと思っていた。
そこで嫌われること。
浮くこと。
悪く言われること。
それはまるで、自分の人生そのものを否定されるような感覚だった。
外へ出た。
新しい場所へ行き、
新しい人に会い、
今まで関わったことのない価値観に触れた。
そこで私は、衝撃を受けた。
世の中には、人の挑戦を笑わない人がいる。
誰かが前に進もうとした時、「すごいね」と言ってくれる人がいる。
足を引っ張るのではなく、背中を押してくれる人が、本当に存在する。
そんな当たり前のことを、私はすっかり忘れていた。
狭い世界の中で息をしていたのだ。
世界が広がるにつれて、不思議なことが起き始めた。
今まであれほど辛かったものが、少しずつ辛くなくなっていった。
陰で何か言われても、以前ほど心が揺れない。
嫌われている気配を感じても、「まあ、そういう人もいるよね」と思える瞬間が増えていった。
それは、自分が強くなったというより、“視界”が変わったのだと思う。
以前の私は、そこしか見えていなかった。
だから、その場所での評価が人生の全てだった。
でも今は違う。
世界にはたくさんの場所があり、たくさんの価値観があり、たくさんの人がいる。
その事実を知った瞬間、一つの小さな集団から向けられる感情が、人生全体を支配することはなくなっていった。
そしてある時、ふと思った。
――え? これ、ファンクラブですか?
自分でも驚くくらい、急に可笑しくなったのだ。
だって、興味のない相手のことを、人はそこまで見ない。
誰と話しているか。
何を始めたか。
どこへ行ったか。
どんな発言をしたか。
逐一気にして、反応して、共有して。
それほどまでに誰かを見続けるのは、ある意味ものすごいエネルギーだ。
昔の私は、その視線を「攻撃」だと思っていた。
でも、ある地点を越えると、見え方が変わる。
そんなに私のことを見ていたんだ。
そんなに気になるんだ。
そう思った瞬間、辛さが消えた。
もちろん、嫌なことが平気になったわけではない。
傷つく時はあるし、人の悪意に疲れる日もある。
でも、もう以前のように、「その人たちの評価」が自分の価値を決めることはなくなった。
なぜなら、私はもう、そこだけの世界に生きていないからだ。
そしてもう一つ、気づいたことがある。
以前の私は、「振り回されている」と思っていた。
でも違った。
私は普通に生きていただけだった。
挑戦したいことに挑戦し、
会いたい人に会い、
自分の人生を前へ進めようとしていただけだ。
それなのに、勝手に反応し、勝手に不安になり、勝手に感情を乱されていたのは向こうだった。
そう思えた時、ふと哀れみに近い感情が湧いた。
狭い場所の中で、誰かを監視しながら生きるのは苦しいだろうな、と。
自分の人生より、他人の動きに心を支配されるのは、きっと辛い。
だから私は、もうそこへ戻らなくていいと思った。
勝ち負けではない。
上か下かでもない。
ただ、“居る世界”が変わったのだ。
昔の私は、同じ檻の中で必死に戦っていた。
でも今は、その檻の外に立っている。
だからもう、あの頃と同じ恐怖では生きていない。
あの頃の私は、本気で「そこが世界の全て」だと思っていた。
毎日顔を合わせる人たち。
そこでの評価。
そこで流れる空気。
その小さな共同体の中でどう見られるかが、自分の価値そのもののように感じていた。
だから苦しかった。
嫌われることが怖かった。
外されることが怖かった。
陰で何か言われている気配だけで、胸がざわついた。
今思えば、私はずっと、狭い水槽の中で生きていたのだと思う。
ぶつからないように。
嫌われないように。
波を立てないように。
小さな世界のルールに、自分を必死に合わせていた。
でも、水槽の外には海があった。
それを知った時、人生は変わった。
新しい場所へ行った。
今まで出会わなかった人たちと話した。
自分の考えを発信した。
好きなものを好きと言った。
すると、驚くほど世界が広がっていった。
今までなら「そんなことしたら嫌われる」と思っていたことを、「いいね」と言ってくれる人がいた。
挑戦する人を笑うのではなく、応援する人がいた。
誰かの成功を、自分の敗北のように感じない人たちがいた。
私はようやく知った。
世界には、“奪い合わない人たち”が存在する。
限られた椅子を奪い合うような場所に長くいると、人は錯覚する。
誰かが前へ行けば、自分の価値が減る。
誰かが輝けば、自分が負ける。
でも本当は違った。
世界はもっと広い。
自分の居場所は、一つではない。
価値観も、生き方も、繋がる人も、本当は無数にある。
あの頃の私は、それを知らなかった。
知らなかったから、小さな世界の中で必死に息をしていた。
そして今ならわかる。
苦しかったのは、私が弱かったからではない。
“世界が狭かった”のだ。
もちろん、狭い世界そのものが悪いわけではない。
そこで救われる人もいる。
安心できる人もいる。
でも、その場所の価値観だけが絶対になると、人は簡単に苦しくなる。
外へ出ようとする人を怖がる。
違う考えを持つ人を浮かせる。
みんなと同じであることを求め始める。
そして、誰かの挑戦や輝きを、「自分たちを脅かすもの」だと感じるようになる。
でも、本当に自由な人は、他人を閉じ込めない。
「あなたはあなたでいい」と言える。
自分の人生を生きている人は、誰かの人生を監視しない。
私は外へ出て、そういう人たちにたくさん出会った。
年齢も立場も関係なく、「面白そうだね」と言ってくれる人。
失敗しても、「やってみたことがすごいよ」と笑う人。
誰かの才能を見つけると、嫉妬ではなく喜べる人。
そんな人たちと関わるうちに、少しずつ、自分の中の恐怖や辛さが溶けていった。
できれば、穏やかに生きていたい。
でも、“全員に理解されなくても人生は終わらない”ということを知った。
これは、とても大きかった。
昔の私は、誰かに嫌われるたび、「自分が悪いのかもしれない」と思っていた。
でも今は、合わない人もいると知っている。
そしてそれ以上に、自分を大切にしてくれる人も必ずいる。
世界が広がるとは、きっとこういうことなのだと思う。
選択肢が増えること。
価値観が一つではなくなること。
「ここでダメなら終わり」ではなくなること。
だから私は、今もし苦しい場所にいる人に伝えたい。
その場所だけが世界じゃない。
今いる環境の価値観が、人生の全てではない。
外には、あなたを変だと言わない人がいる。
あなたの真っ直ぐさを笑わない人がいる。
あなたの挑戦を応援してくれる人がいる。
だから、どうか世界を広げてほしい。
小さくまとまらなくていい。
誰かに理解されるためだけに、自分を削らなくていい。
最初は怖い。
知らない場所へ行くのは勇気がいるし、今までの人間関係から離れるのは不安もある。
でも、一歩外へ出るだけで、人生は驚くほど変わる。
私自身が、そうだった。
あれほど苦しかったものが、今では遠い景色のように感じる。
もちろん、完全に忘れたわけではない。
傷ついた記憶は残っている。
でも、その経験があったからこそ、私は知った。
狭い世界に自分を閉じ込めなくていいことを。
誰かの物差しだけで、自分の価値を決めなくていいことを。
そして、人はいつからでも、自分の世界を広げていけるということを。
世界は広い。
思っていたより、ずっと広い。
だからもう、視野に入らないくらい遠くまでいこうと思う。
誰かを見返すためではなく、
誰かに勝つためでもなく、
ただ、自分の人生を、自分らしく生きるために。
