アポロ13号の軌道修正(定例食事会の謎)70
月に一度の夕食会。今夜も、春山、高橋、南田、ケゾえもんの四人は、馴染みのレストランに集まっていた。ワインを片手に、知的な議論を交わすこの時間を、彼らは心から楽しんでいる。
「通常のアポロでは大気圏再突入から通信不能時間が約3分のはずが、アポロ13号の場合はそれより87秒も長くなって、地上管制は一時絶望したんだよね」
ケゾえもんが話を切り出した。
「映画でもそうだったわね」
南田が興奮気味に言う。
「おかげですごい劇的なシーンになったのよね。何度も『アポロ13号、聞こえてるか?』って絶望しながら呼びかけていたわ」
「1分半の沈黙って、永遠に感じただろうな」
春山がしみじみと言う。
「どうしてそんなに長くなったの?」
「軌道修正が通常と違って難しく、突入角度が浅めだったかららしい」
「でも、アポロ13号ってどんぴしゃで回収艦USSイオージマの目の前に現れたよね?」
と高橋。
「それは大気密度や風の影響の偶然が重なったと考えられている。もともと、着水場所は完全にコントロールできるものではなく、長時間波間を漂うという事態も想定されていた」
「でも、飛行士たちは疲労困憊だったから、目の前に現れたのはラッキーだったわね」
「そう。不幸な事故だったけど、奇跡的な幸運がいくつも重なったんだ」
「どういう奇跡?」
「爆発がひどかったわりに通信が途絶しなかった、月着陸前に事故が発生した、軌道修正がうまくいった、結露でびしょびしょだったのに再通電でショートしなかった、などなどだね」
「ところで、月着陸船のロケットを使って地球に戻ったっていうけど、どういう風に使ったの?」
高橋が尋ねる。
「まず、1発目の噴射は月の裏側に入ってたときだった」
ケゾえもんが説明する。
「事故前、アポロ13号は月ぎりぎりを通る軌道に設定されていた。通常ならここで月の軌道に入るために噴射するんだけど、アポロ13号では地球に帰る軌道に乗るように、月着陸船のロケットで噴射が行われたんだ」
「それでも、地球への帰還軌道に乗ったあとでもまた修正が必要だったんでしょ?」
「そう。その後、2回の追加噴射が行われ、NASAが満足する軌道に乗ったんだ」
「月着陸船のエンジンって、何回でも再点火できるの?」
「NASAがまさにその点を心配して、必死に開発メーカーのグラマンに問い合わせたんだ」
「グラマンも、そんなことは想定してなかったわよね?」
「そう。開発者たちもそれは知らなかった。でも、開発者たちは過去の実験記録を調べて、8回までの再点火が保証できると報告してきた」
「ってことは、NASAはアポロ13号の位置を正確に把握していたわけだから、あと5回も軌道修正のチャンスがあったってことよね? そこまで危険じゃなかったんじゃない?」
「そこは、チャクラポンに聞いてみよう!」
給仕のチャクラポンが静かに近づき、軽く会釈する。
「NASAはアポロ13号の位置は正確に把握していました。しかし、アポロ13号の姿勢、ピッチ・ヨー・ロールを感知することができませんでした」
「ピッチ・ヨー・ロールって?」
「飛行機の姿勢を現すために発明された言葉ですが、いまでは空間上の物体の姿勢を現す一般的ことばになっています。飛行機で言うとピッチは上下、ヨーは左右、ロールは翼の回転を示しますが結局はピッチもヨーも座標軸からの回転を意味します」
「なるほど」
「アポロ13号の場合、爆発のチリの影響で天測ができず、爆発による衝撃で慣性誘導装置のデータが狂ってしまったため、まさにこのピッチ・ヨー・ロールがどうなっているかわからなくなっていたのです」
「それで、どうやって軌道修正できたの?」
「まだ見えていた地球を基準にすることにしました」
「地球? そんなので合わせられるの?」
「窓枠との関係で、地上の指示どおりの位置に地球が来るように向きを合わせました」
「ええっ、それだけ?」
「そう。ラベル船長が月着陸船の窓についているゲージを基準にして地球を見ながら月着陸船を操縦して調整したんです」
「すごい原始的じゃない!」
「でも、それしかなかったのです」
「スワイガートは腕にはめていたオメガ・スピードマスターをストップウォッチに使って噴射時間を測り、月着陸船エンジンのオンオフ担当。ヨーをヘイズがピッチとロールをラベルが担当いたしました」
「ちょっと待ってオメガって腕時計?」
南田が驚く。
「はい、宇宙線が飛び交い、温度変化の激しいミッションで当時、いちばん信頼がおけると考えられたのがこのゼンマイ式の腕時計だったのです。オメガは月面上でも宇宙服の腕にマジックテープで貼り付けられて使われました」
「へーそうだったんだ」
「それで、1、2、3、ウォーッ! って噴射を開始したのね」
「そうです!噴射時間は、中間軌道修正が14秒、最終調整が4秒でした」
「それで、うまくいったの?」
「こんな方法でうまくいくはずがないのに、奇跡的に2回とも成功してしまったんです」
「ええっ!? すごい!」
「これも、アポロ13号の奇跡のひとつです」
「ふーん、そんなに大変だったのね」
「ですから、何度も軌道修正をする余裕はなかったんです。NASAは必要なら追加の修正を指示するつもりだったでしょうけど、奇跡は何度も続くものではありません」
「でもさ、そんなことしなくても、ラベル船長が慎重に姿勢を合わせて、その状態を慣性誘導装置に入力してから軌道修正すれば、自動でできたんじゃないの?」
「まさにそれが、できなかったんです。慣性誘導装置はものすごく電気を食うんです。
もちろん地球再突入時のピッチヨーロール調整は人間技ではできないので慣性誘導装置が必要だったのですが
スイッチが入れられたのは再突入直前でした。もう本当に電気が足りなかったんです」
一息いれてからまたチャクラポンは説明を始めた。
「アポロ13号事故における最大の出来事はもちろん爆発でしたが、そこで生じたすべての困難は、最終的には電力不足という一点に集約されます。事故のあとでも電力さえ充分にあれば、まあまあ安全に帰ってこれたんです」
「なるほど、あんな氷まで張る状態にならないで済むしね」
「映画ではスワイガートが凍ったソーセージでこんこんとうらめしそうにパネルを叩いているシーンがあったよ」
「あれは、映画の誇張です。船内の温度は摂氏3度でした。薄いジャンプスーツだけで数日過ごすには耐えきれないほどの寒さでしたが、窓もソーセージも凍りません」
「うわ、また映画の誇張にやられたよ」
