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無精子症と診断された日から、妻に一度も謝っていない

「残された凍結精子はあと2本。」

妻のnoteに、こう書いてあった。

私の精子の話である。無精子症と診断された私が、2年前に精巣を切開して採ったもので、管5本に分けて冷凍されている。妻の採卵のたびに1本ずつ解凍して、もう3本使った。だから、あと2本。

この数字を私は知らなかったわけではない。治療のことはそのつど夫婦で話しているから、管が減るときは私も知っている。それでも妻の文章の中でこの数字を読むのは、別のことだった。妻はこう続けている。「精子を融解したのに、卵が足りなくて、せっかくある精子を無駄にしてしまったら…」。

私の身体から出た細胞の残りを数えて怯えているのは、妻なのだ。

あの手術の顛末を、私は当時、退院3日目の勢いで一本の記事に書いた。不妊治療について私が書いたnoteは、その1本きりである。妻はその後の2年間で、69本書いた。

これは、その69本を全部読み返した夫が書く続きの話である。

私の1日と、妻の2年の話だ。

私の1日

2024年5月、入院当日の朝。私は「行きたくない、やめたい!」と大騒ぎした。いい大人が、である。

手術そのものも嫌だった。それ以上に嫌だったのは、精子が採れる確率が確定してしまうことだった。精巣を切開して精子を直接探しに行くTESEという手術で、採れる可能性は30%程度という説明を受けていた。家を出るまでの私は「30%ある」の側に住んでいられる。切ってしまえば「あった」か「なかった」かのどちらかに決まる。「なかった」を引く覚悟は、当日の朝になっても全然できていなかった。

始まりはその半年前、妻がレディースクリニックから持ち帰った一枚の検査結果である。私の精液の中に精子が確認できない、と書いてあった。大学病院で検査を重ねても結果は変わらず、2024年1月に無精子症が確定した。原因は不明。

手術までの半年弱は、縋るような気持ちで無駄なあがきを重ねた。マカ、亜鉛、コエンザイムQ10のサプリメントを一式そろえ、パンツをUNIQLOのエアリズムトランクスに替え、1時間入っていた長風呂もやめた。精巣は熱に弱いのだそうだ。どれで成功率が上がるとも思っていなかったが、何かしていないと落ち着かなかった。

手術では、精巣を片側だけ切るか、両側切るかを事前に選ぶことになっていた。両側を切れば精子が見つかる確率は上がるが、身体への負担やリスクも大きくなる。私は片側を選んだ。見つからなければ最悪もう一回切ればいい、くらいに当時は考えていた。一度切った今なら分かる。これをもう一回は、本当に勇気がいる。

入院してしまえば、あとは流れ作業だった。1日目は手続きと採血くらいしかやることがなく、10階の窓から景色を眺めて「ワーケーションみたいだな」と呑気に構えていたら、手術の朝が来た。手術台には自分の足で上がった。緊張を紛らわせたくて「あー、緊張するなー!」「皆さん、よろしくお願いします!」と無駄に声を出した。点滴から麻酔が入って、10秒ほどで意識が飛んだ。体感は一瞬である。目が覚めたらすべて終わっていて、主治医が「精子は採取できました。奥さまにも電話でお伝えしました」と言った。その淡々とした伝え方から、最も良い結果ではなかったのだろうというニュアンスを感じつつ、それでも最も悪い結果ではなかったことに、まず胸を撫で下ろした。

翌朝、尿道のカテーテルを抜かれた。「痛いですか、すぐ終わりますか」と怯える私に、先生は「痛いっちゃ痛いですが、入れるときより全然ラクなので、一瞬ですよ」と言う。入れるときは全身麻酔中だったから、私はその様子を知らないし、その「ラク」の主語はどう考えても先生側である。患者側の「ラク」の話は誰もしてくれないまま、抜かれた瞬間、自分でも声にならない声が出た。あとは陰嚢に何かが軽く触れるだけで激痛が走るので、慎重に慎重に、カニ歩きで退院した。その歩き方を見て妻は笑っていた。

結果の説明はこうだった。精子は採れた。望みはつながっている。ただし、まずもって大丈夫という量ではない。採れた精子は管5本に分けて冷凍された。1本あたり多くて3桁、下手すると十数個。多い人なら1本に数千から数万いるらしい。すべてが動いているわけでもなく、冷凍と解凍でダメージも出る。何回チャレンジできるかはやってみないと何とも言えない、と。前日に精子が採れたと聞いて、これで子どもを授かれるのだと素直に浮かれていたぶん、この説明はしんどかった。

それでも私は、何かをやり遂げた気でいた。自分の役割は終えた気でいた。ただ、手術の前に医師に言われていた言葉がある。

「精子が採れたとしても、奥さん側の治療の方が負荷が大きいですよ。それも含めて検討してください」

妻の2年

2024年の夏、バトンが渡った。少なくとも当時の私はそう思っていた。手術で精子は採れた。ここから先、採卵も移植も投薬も、治療の主戦場は妻の身体に移る。

思えば私の手術のとき、家で電話を待っていたのは妻のほうだった。面会も立ち会いもできない病院で、私が麻酔から覚めたことを電話一本で知らされる側。今度はそれが逆になるのだと、そのくらいに考えていた。

この2年で私はいくつもの言葉を覚えた。BT。hCG。PGT-A。胚盤胞。ホルモン補充周期。どれも妻のnoteを読み、治療の話をしながら覚えた言葉である。

妻がnoteを書きはじめたのは2024年9月。最初の一本のタイトルは「ようやく始まったのかもしれない」。書き出しは「母になりたい。」の一行で、この日は1回目の移植が陰性に終わった日だ。

2回目の移植は2024年10月。このときのnoteに、こうある。

「1回目に抱いた新しいものへの好奇心と期待感は、何よりも抗不安薬になっていたのかもしれない。」

2回目のほうが怖い、ということを私はこの文章で知った。移植日が近づくと「だんだん寝るのが下手になった」、当日は「病院に近づくと歩くだけで涙がでてきた」。それでも移植を終えると、おなかの中の胚に「今日から一緒に頑張ろう」と思えたと書いてある。判定日の結果は「かすりもしない陰性」だった。

このまま3回目に進むか、いったん子宮の検査をするか。妻は判定日に決めきれなかった選択肢を持ち帰ってきて、二人で並べた。その席で私が言ったことが妻のnoteに残っている。

「不妊治療って、本当に男ができることってないよね。そんななかで、男性が協力的でなかったり、理解を示すことができなかったら、本当に女性はしんどいね。」

我ながら、どこか他人事のような言い草である。それに続けて妻はこう書いていた。

「1回の手術と、何ヶ月、何年にもわたる可能性がある治療が同じだと思って欲しくないと思うときもあって、時折そんな態度をとってしまうことがあるけど(ごめん笑)」

この(ごめん笑)に私は何度も救われてきた。釣り合わない、と書いたその同じ行で、彼女は括弧をひとつ添えて私をまだ隣に置いてくれる。

3回目の移植の前、2024年11月のある夜のことも書いておきたい。仕事のイベントで一日走り回った妻が、帰って夕飯を作り、風呂に入ったまま、いつまで経っても出てこなかった。声をかけると、明日までに必要な振り込みを忘れていたことと、時間の決まった夜の薬がまだだったことに湯船で気づいて、そこから頭が動かなくなってしまっていた。妻のnoteにはこの夜のことが「一気に心の中のビーカーが溢れた」と書いてある。私はまず風呂から出ることを促して、薬が先で振り込みはあと、と交通整理をして、それからなぜかドリカムの「何度でも」を歌った。あの選曲が正解だったのかはいまだに分からないが、妻のnoteには(笑)付きで記録されているから、減点ではなかったのだと思うことにしている。

3回目の移植は2024年11月、妻の誕生日の前日だった。結果は化学流産。着床まではしたけれど、続かなかった。

3回続けてダメだったことで、何か原因があるのかもしれないという考えが、二人のあいだに居座りはじめた。ここから妻は移植のあいまに検査を挟んでいく。まず2024年12月、子宮内膜を少し削り取って着床の条件を調べるTRIO検査という検査を受けた。妻のnoteいわく「内膜を削り取られている感覚」の、相当に痛いやつである。結果はすべて異常なし。「検査も原因が見つかったときに支払いが生じる成功報酬型だったらいいのに…」とぼやく妻に、「なんで異常が見つかることが成功なの!」と突っ込んだ記録が残っているが、気持ちは分かる。原因が見つからないのに結果も出ないのが、いちばん手の打ちようがない。

4回目の移植は2025年2月。この回は途中まで、兆しがあった。BT7(移植当日を0日目として7日目。この界隈では移植後の日数をこう数える)のフライング検査で、これまでにない線が出た。判定日のhCG(着床すると分泌されるホルモン。ざっくり言えば妊娠の手応えを示す数値)は23.6。担当医の言葉は「この数値が10台だったらこの時点で決められるんだけど、20台は本当に微妙なところ」。10台なら残念ながら可能性なしと決められる。20台はまだ分からない。それで1週間後の再判定待ちになった。

妻のnoteによれば、それまでの3回、私は結果を聞いても顔色ひとつ変えなかったらしい。この回だけは「こんなにも難しいものなんだねぇ」と、何度も何度も二人で話したとある。毎朝のフライング検査の線が少しずつ薄くなっていっても、私はまだ妻より信じていた。線が真っ白になった一週間の先で、再判定は陰性。その朝も私は早起きして見送った。同行しようかと言ったが、そのまま仕事に行くからと妻は断った。

2025年4月には、子宮鏡検査で見つかっていた小さな子宮筋腫を日帰りの手術で取った。これが原因とは限らないと言われたけれど、疑いをひとつ消せるなら、と。部分麻酔で、意識のあるまま45分。妻の記事には「入院して眠らせてからとって欲しかった」とある。

5回目の移植は2025年7月。hCGは2。陰性。

2025年9月にはCD138という検査で慢性子宮内膜炎が見つかった。子宮内膜を採って調べる、これもまた相当に痛い検査らしい。抗生剤を変えながら3か月かけて治した。

並べて書いてみて、あらためて思う。TRIOも子宮鏡もCD138も、妻の検査や手術は意識のあるまま痛みを受けるものばかりだった。私の手術は全身麻酔だった。眠って、起きたら終わっていた。いちばん痛いところを、私は眠って通過している。妻はこの2年、ずっと起きている。

6回目の移植は2025年12月。保険が使える胚移植は、私たちの年齢では6回まで。つまり保険で挑める最後の1回だった。移植したのは胚盤胞2個。胚には見た目でグレードがつく。数字とアルファベットの組み合わせで、この2個は5BAと4BA、要はピカピカの胚である。2個同時の移植は、双子の可能性ごと引き受ける、少し攻めた手だった。それでも年末最後の診療日に、陰性。その年末は二人で、結果を受け止めながら過ごした。

保険の6回が終わり、2026年1月から自費になった。値段が変わる。そして意外なことに、選択肢は増える。保険のあいだは組み合わせられなかった検査や薬が、お金さえ出せば使えるようになる。ここから先は自分たちで調べて、選んで、賭けていく、なかなか派手な戦いである。転院も選択肢には入ってくるが、私たちの場合はそれが取りづらい。私の精子が、この病院に凍っているからだ。

7回目の移植は2026年3月。保険が終わってからの最初の移植だった。BT9でhCGは28。数字だけならこれまでで一番よかった。それでも、また化学流産だった。妻のnoteに、こうある。

「これまでずっと平気だったのに、今は妊婦さんや子育てしている人たちがとても遠く感じる日もあって」

2026年6月、担当が新しい先生に変わった。これまでの経過をひととおり聞いたあと、その先生は妻の化学流産のことを「妊娠」と呼んだ。妻はこう書いた。

「『妊娠』の言葉は胸にグッときた。自分でも意外だった。その言葉がやっぱり欲しかったんだなと実感した。」

妻自身、化学流産という言葉にこだわりはないつもりでいたらしい。本人にも意外だった言葉が、隣にいた私に見えていたはずもない。それでもこの一節を読んだとき、私は少し立ち止まった。判定日のたびに妻が受け取れずにいたものの形を、2年目にして初めて見た気がした。

謝らないと決めていた

無精子症と診断されてから今日まで、私は妻に一度も謝っていない。

謝りうる理由ならある。正確にいえば私は精子がゼロだったわけではない。手術で採れたのだから精子はある。ただしTESEでしか採れなかった。そのせいで妻の治療は最初から顕微授精の一択で、採卵も移植もホルモン補充も、身体で引き受けるのは全部妻である。この構図を申し訳なく思おうとすれば、いくらでも思える。

でも、謝るのは違うと最初から思っていた。私は何かを選び損ねてこの身体になったわけではない。ここに加害者はいない。誰も悪くないし、誰のせいでもない。だから謝らない。そのかわり妻が弱気になって、ごめんね、と口にしそうになるたびに同じことを返してきた。治療の結果が出ないことは、あなたが謝ることではないでしょ、と。

このスタンスがどう受け取られていたのかを、私は妻のnoteの2025年3月の一本で知ることになる。

「わざと不妊になった人はいないし、不妊になりたくてなった人もいない。当たり前のことだけど、無精子症と向き合った夫が身をもって教えてくれた。」

何度陰性が続いても「自己否定や自分を責める気持ちを持たずに済む」と彼女は書いていた。陰性のたびに、内膜炎が見つかるたびに、これは謝るべきことじゃないと思えることが支えになっていたらしい。夫婦で2年並走してきて、こういう一番大事な答え合わせを公開のnoteで知るのだから、不思議である。

それでも、軋んだ夜はある。今年の3月、7回目の移植の直前。妻の記事には、こうある。

「夫の不安を聞いていたはずなのに、自分の不満や不安の話に乗っ取ってしまって、しかもそれを不妊治療に絡めて、夫にうまくいかない責任を押し付けるようなことを言ってしまった。」

「誰も悪くない」は、2年使い続けるとこういう夜に一度だけ軋む。妻は自分でメルトダウンと呼んでいたが、6回ぶんの陰性を受け止めてきた人間が7回目の直前に一度溢れることの、どこがメルトダウンなものか。むしろあの夜まで妻の側から一度も責任の話が出なかったことのほうが、異常な胆力だったと私は思っている。

その時期に私が妻に言っていた言葉も、記録に残っている。「まだまだ全然最悪じゃない」である。白状すると、これは私の発明ではない。結果が出ない日々の中で妻が自分に言い聞かせていた口癖「全然まだ、最悪の状態じゃない」の借り物だ。私の「謝るのは違う」が妻の中に残り、妻の「最悪じゃない」が私の口から出る。夫婦の会話というのは、二人で作った貯金を相手が倒れそうな日に引き出し合う仕組みらしい。

もうひとつ、2年越しに返ってきた言葉がある。「欠陥」だ。

診断が出たばかりの頃、私は自分の身体をそう呼んだ。妻はその言葉をnoteに記録している。「彼がそのような表現を使ったのでそのまま使います」という注釈つきで。当時の私はふたりの将来の話より、自分の身体の欠陥をどう受け止めるかで手一杯だった。

今年の6月、妻がnoteに書いた。不妊治療中やその歴があると、医療保険の加入に条件がつくものが多いのだそうだ。無事に妊娠して出産するために治療をしているのに、加入後しばらくは切迫早産や帝王切開が保障の対象にならない。

「不妊治療をしていて、はじめて『欠陥』というスタンプを押された気分になった。せめて社会が味方してくれる欠陥であればいいのに。」

私が自分に押したハンコを、2年後、制度が妻に押した。検査で何ひとつ異常が見つかっていない側の妻に、である。

男性不妊について、当事者の男性本人が書いた記録は極端に少ない。手術の前にあれだけ探して、ほとんど見つからなかった。理由は、いまなら自分のこととして分かる。私も最初、あのハンコを自分で自分に押して黙りかけた。そして私が黙っていたら、この2年を語るのも、残りの管を数えるのも、痛みを引き受けるのも、ぜんぶ妻の側だけになっていた。私が2年ぶりに2本目の記事を書いているのは、要するに、そういうことである。

返事

いま、8回目の移植に向けて4回目の採卵周期に入っている。卵の育ちにはバラつきがあるらしく、採卵の日はまだ決まっていない。決まれば5本のうち4本目の管が解凍される(ちなみにこれまでの採卵3回は、いずれも解凍が管1本ずつで足りている。当たり前に聞こえるかもしれないが、これはかなり幸運なことらしい)。

管5本と最初に説明されたとき、私はあれを回数券だと思った。1枚ずつ千切られて、なくなったら終わりの切符。実際、医師の説明もそういうものだった。すべて解凍しても精子が使えず、一度もチャレンジできませんでした、ということだってあり得ます、と。

2年経って、数え方が少し変わった。私は診察室にも採卵の処置室にも入れない。けれど冷凍庫のあの精子だけは、妻が2年通いつづけた病院の中に居続けている。あの5本が、私がこの治療に差し出せたほとんど唯一の実物である。

だから、冒頭に引いた妻の「せっかくある精子を無駄にしてしまったら…」には、ここで返事を書いておく。大丈夫。あれはこの2年、一度も無駄になっていない。解凍された3本は子どもにはならなかったけれど、どの1本も、あなたの言う「バトン」として律儀に走った。残りの2本も同じである。あなたが何かを無駄にすることは、この治療では起こりようがない。

治療は続く。妻の次の診察には私も同席する。私にできることは相変わらずほとんどない。隣に座って、一緒に説明を聞いて、帰りに寿司でも食べて帰るくらいだ。ただ、2年やって分かったこともある。「ほとんどない」は「ない」ではない。

手術を終えたあの夏、私はバトンを渡した気でいた。自分の治療は終わって、あとは妻の治療を見守り、伴走するのだと。2年かけて、その認識は書き換えられた。これは最初から二人でやっている一つの不妊治療で、バトンを渡しても、私の番が終わったわけではなかった。それに、いつかバトンがまたこちらに戻ってくるのかもしれない。管が尽きたとき、もう一度切るのか、それとも二人で別の道を選ぶのか。それはまだ決めていないし、決めずに済むならそれがいちばんいい。

2年前の記事の最後に、私はこう書いた。「同じような気持ちを抱えている私がいるし、たぶん私の妻もいるよ」。

あのときの「たぶん」は、69本のnoteが消してくれた。

子どもはまだいない。精子はあと2本。そして二人の治療は、まだ続いている。

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