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マイケル・ジャクソンに学ぶ身体操作11:体軸が立つと聞こえてくる「流れのある音」の世界(中編-3)

中編-2からの続き)

体軸リズムをスムーズに感じられるようになると、音は時間とともに連続的に流れ、空間に広がっていく感覚として捉えられるようになります。
こうした「流れのある音の世界」=「没入型世界」を、今回はのぞいていきます。

7.音が流動的に流れる「没入型世界」

前編では、『没入型世界』のことを、次のように書きました。

Stage 5|音が空間に立ち上がり、体軸リズムと一体化する
音は頭の中ではなく、自分を包む空間に存在しているように感じられます。音の重さや流れが、体軸リズムと自然に同期し、初めて聴く曲でも、身体が自然に音に乗って反応します。

この説明だけを読むと、「初めて聴く曲でも自然に反応できること」が、没入型世界の条件のように見えるかもしれません。しかし実際には、よく知っている曲であれば、誰でもこの『没入型世界』を体験することができます。

7-1. 聴きなれた曲で『没入型世界』を感じてみよう

聴きなれた曲を流しているとき、別のことをしていても、気づいたら口ずさんでいた――そんな経験はないでしょうか。

これは、すでに「音の流れ」が身体に沁みつき、自然と身体が「次に来る音」を予測できているからこそ起こる現象です。無意識に口ずさんでいるとき、私たちは、音を聴いてから反応しているのではありません。身体が先の音の流れを予測し、その流れに合わせて、呼吸や重心、体軸リズムが自動的に動いているのです。この状態は、『没入型世界』で起きている状態とほぼ同じです。

違いがあるとすれば、それが

  • 聴きなれた曲に限って起こるのか

  • 初めて聴く曲でも起こるのか

という点だけです。

『没入型世界』を感じるための条件は、次に来る音や流れ、つまり、展開の予測が立てられるか(=先読みができるか)どうかにあるのです。

7-2. 初めて聴く曲でも、体軸リズムをスムーズに刻める理由

前編で、「音をどう感じるか」には、次の三つが大きく関わるとお伝えしました。

  1. 体軸

  2. 音に紐づいた体感記憶

  3. 音への感受性とパターン認識

3つ目の「パターン認識」——これが、「没入型世界」を感じる人たちが、初めて聴く曲であっても、体軸リズムをスムーズに刻める大きな要因です。

音楽のパターンが身体に沁みついていると、初めて聴く曲であっても、音の流れを先読みできるため、体軸リズムを途切れさせることなく、スムーズに刻み続けることができるのです。

これは、日本語を「難なく聞き取れる・自然に話せる」感覚に近いものです。文法や言葉遣いをいちいち気にかけなくても、「この場面なら、こういう言い回し・しぐさになるよね」と自然に分かる――それと同じことが、音の世界で起きている状態だと考えてください。

7-3. 『没入型世界』にも3つの感じ方がある

『没入型世界』を感じている人は、実は、皆が同じものを感じているわけではありません。人によって大きく異なります。

その違いを生み出しているのが、「音を聴いた瞬間、何を最優先で捉えるか」という、無意識の「認知の癖」です。

この癖には、大きく分けて次の三つがあります。

  • 体感優先型

  • 映像(イメージ)優先型

  • 感情優先型

そのため、没入型世界を感じる人でも、次の3つのように感じ方が異なるのです。

  • 体感優先型の人は、音によって生じる体感や体軸リズムの流れを感じ続けます。

  • 映像優先型の人は、音から連想されるイメージや情景の流れに没入します。

  • 感情優先型の人は、音が引き起こす感情の移ろいを中心に感じ取ります。

同じ「流れのある音の世界」を感じとっていても、どこに意識が没入しているかは人によって異なり、没入型世界の“中身”はまったく異なっているのです。

7-4. 誰にでもある「音に対する認知の癖」

しかし、実は、この「認知の癖」は、没入型世界の人だけに当てはまる話ではありません。人は皆、音を聴いた瞬間、無意識のうちに、「体感・映像(イメージ)・感情」の3つうち、いずれかを優先して感じ取っています。ただし、実際には複数が重なって働くことも少なくありません。

音を聞いた瞬間、どの情報がいちばん先に意識に上がってくるでしょうか。少しだけ、思い浮かべてみてください。

例えば、学校の音楽室で掃除をしていたら、突然、大太鼓の大きな音が鳴り、思わずびっくりしたとします。

このときの反応は、認知の癖によって次のように別れます。

  • 体感優先型の人は、まず身体に響く「圧」や「振動」を強く感じます。しかし、その感覚は言葉になりにくく、しばらく黙って体感を味わうことになります。「なに今の?」という一言が、精いっぱいの言語化であることも少なくありません。

  • 映像優先型の人は、「ドーンって、何かが落ちたみたいだよね」と、音から連想されたイメージを自然に言葉にします。音そのものより、頭の中に浮かんだ情景が先に意識に上がります。

  • 感情優先型の人は、「今の音、ちょっと怖かったよね」「びっくりしたよね」といったように、音が引き起こした感情をまず言葉にします。不安や驚きといった感情の変化が、もっとも分かりやすい情報として意識に上がるのです。

このように、音を聴いた瞬間に、何を優先して捉え、そこから何を連想するか――この「音の連想ゲーム」のようなものが「認知の癖」です。この連想は、本人が気づく前にほぼ反射的に始まっており、自分で意識的に切り替えたり、制御したりできるものではありません。「無意識に働く、自動処理プログラムのせいで、そうなってしうもの」と捉えてください。

7-5. マイケルの「認知の癖」は「体感優先型」

映画『This Is It』を観ると、マイケル・ジャクソンは「体感」を軸に音の世界を捉えていたことがよくわかります。リハーサルの様子からも、体が音に自然に反応し、体軸を通して音の流れや重さを感じ取っていることが伺えます。演奏者とのやり取りにおけるマイケルの言動を見ても、彼が「体感優先型の認知」をしていたことは明白です。

具体的な場面については後編で触れますが、ここではまず、そのように判断する根拠となる「体感優先型」かつ「没入型世界」の人に共通する認知の特徴について整理していきます。

7-6.「体感優先型」+「没入型世界」の人の認知の特徴

特徴1.体感優先型の人が感じ取っている「情報の順序」

体感優先型の特徴は、「身体がうけとった体感を、言葉では表現しきれないので、黙って味わう」点にあります。これは、音や体の反応をまず「身体で感じる」ことが優先されるという認知の順序(=癖)が無意識に組み込まれているため、言語化や判断よりもまず体感が先立つからです。そのため、言語化は基本的に、かなり遅れて意識に上がってきます。

実は、没入型世界を感じる人たちは、「体感・イメージ・感情」のすべてを感じ取ることができます。しかし、それでも意識に上がってくる順序には、やはり「時差」があります。

「体感優先型」+「没入型世界」の場合、やはり最初に立ち上がるのは「体感」です。次に、その体感と結びついたイメージが、比較的浮かびやすくなります。この「体感+イメージ」の組み合わせは、身振りや動きによって共有しやすく、言語化もしやすい領域です。

一方で、感情は、より遅れて意識に上がることが多く、その場ですぐに言語化するのは難しい場合があります。さらに、感情は人によって受け取り方の幅が大きいため、たとえ感情を言語化できたとしても、それをそのまま人に伝えるより、自分の内側に留めておこうとする傾向があります。

マイケルが、言葉で細かく説明するよりも、身振り手振りや口真似、身体表現によって伝えようとしていたのは、こうした「認知の癖」という背景があるのだと思います。

特徴2.体感優先型同士のコミュニケーションは、独特である

体感優先型の人同士では、言葉を尽くすよりも、動きや音などによる実演、あるいは口真似によってニュアンスを示す方が、意思疎通しやすい傾向があります。それは、実演や口真似から、音を奏でる際の体感情報をつかみ取り、互いの体感記憶を脳内で再生し合うことで、意思疎通が成立するからです。

相手の身振りや口真似、音の出し方を見聞きした瞬間に、「ああ、この感覚のことを言っているのだな」と、自分の身体の中で感覚が立ち上がる。そして、その感覚に沿って理解が進むため、言葉があまりなくても、体軸のどこが刺激されているかという感覚的なやり取りで通じてしまうのです。

映像や音声から体感を読み取り、無意識のパターン認識による「自然な流れ」と「体軸リズム」、そして映像や音声として表に現れている「現象」の三つを照らし合わせながら、「体感情報」の整合性を取っていく――こうした体感優先型特有の理解のプロセスを使って、矛盾のない解釈を探すこともできます。ただし、何もかもが分かるわけではありません。
私がこれまで記事を書いてきた背景にも、このプロセスがあります。

特徴3.パターン認識が「おかしい」「不自然だ」と反射的に告げてくる

曲を聞くと、自然と無意識がパターン認識するため、音の流れの展開を、ある程度先まで予測しています。そのため、身体は、その展開予測に合わせ、次の動きへの下準備を行います。それによって、体軸リズムは滑らかに続いていくのです。これが、体が流れるように動き続けられる背景です。

ところが、音の流れが予測パターンから少しでも外れると、体軸リズムがわずかに乱れ、「なんかおかしい」「自然じゃない」という感覚が瞬時に沸き上がります。これは判断ではなく、反射に近い反応です。

例えば、「誰か、プリン食べちゃったの?」と家族に言われたとき、

①(機械的に)「私は食べました」
②(しおらしく)「私が食べました」

と答えたとします。
多くの人は①に対して瞬時に違和感を覚えるでしょう。「『は』じゃなくて、『が』だよ」と言いたくなるし、自然な会話の流れが、途中でつっかえたような違和感が残ります。これは、不自然さの理由を頭で探す前に、身体が「おかしい!」と先に反応してしまうからです。

体感優先型かつ没入型世界の人が音楽で感じる違和感も、これと非常によく似ています。音程やリズムが合っていても、音の重心や立体感、流れ、間の取り方の「自然な調和」がとれていないと、「流れがおかしい」「体がつまづいて、体軸リズムが続かない・踊れない」という感覚が即座に沸き起こります。それは判断ではなく、音の自然な流れが身体の中で途切れたことに対する反射的な反応なのです。

特徴4. 音の「良し悪し」でなく「自然な調和」を体軸で探している

体感優先型かつ没入型世界の人が音を聴くとき、そこには「良い・悪い」という評価はほとんど介在していません。その代わり、「この流れは自然か」「身体と調和しているか」という感覚をとても大切にしています。

それは音楽的に優れているかどうか、上手いか下手かといった判断とは別の次元にあり、むしろ自然現象に対する反応に近いものです。波に乗っていた身体がふとバランスを崩すような、そうした感覚に似ています。

だからこそ、「評価しているつもりはない」のに、「どうしても気になる」「身体が止まってしまう」ということが起こります。それは意見ではなく、「自然な調和」が崩れたことに対する身体の反射なのです。

特徴5. 音を「物理的な流れ」として捉える感覚

体感優先型かつ没入型世界の人は、音を抽象的な情報としてではなく、身体に作用する物理的な現象として捉えています。

例えば、一つの音は、瞬間的に鳴って消える「点」ではありません。音は、ゆっくりと立ち上がり、膨らみ、形を変えながら、時間をかけて消えていくものとして感じ取られます。

自分で「あー」と声を出すとき、息を吸い始めるところからすでに音が始まり、息を吐ききるまでを一塊として捉えている――そんな感覚に近いのです。そのため、一音を捉える「時間的な距離」が長く、余韻や振動の流れまでを身体で自然と追いかけるような感覚になります。

また、体軸の微細な動きによって、音の方向性や重力感、横方向や八の字方向のわずかな揺れまで感じ取ることができ、その揺れが音の重さ・軽さ・粘りとして体感されます。

音の粘りの体感を、簡単に説明します。例えば、生クリームを泡だて器でかき混ぜて、ホイップクリームにしていくとき、最初は手ごたえがなく、スッと軽く混ぜられますが、ほんの少しずつ腕に重みを感じ、同時に粘りが生まれてきます。この「軽さから重さ、そして粘りへと変化していく体感」を、曲のを聞く中で体軸リズムとして感じとり、「音の粘り感が出てきた」と感じるのです。

このように、音を単なる聴覚情報ではなく、身体を通して知覚される物理的な流れとして感じ取っています。音の自然な流れに身を委ねて聴いていると、音は身体を通して空間に広がり、音の霧に包まれるようにして、その波に一緒に漂っているような――そんな感覚へと変わっていきます。

まとめ

ここまで見てきたように、「没入型世界」とは、特別な才能や訓練によってのみ到達できる世界ではありません。聴きなれた曲を無意識に口ずさんでしまうときのように、音の流れを身体が先読みし、体軸リズムと一体になって動いている状態――その延長線上にあります。

ただし、その「流れる音の世界」を、何に没入して感じ取るかは、人によって異なります。体感、イメージ、感情。そのどれを最優先で受け取るかという「認知の癖」によって、同じ音を聴いていても、体の内側で起きていることはまったく違うのです。

体感優先型かつ没入型世界の人は、音を物理的な流れとして捉え、無意識のパターン認識によって、その流れを身体で追いかけています。だからこそ、音の重心や間、粘りといった音の調和がわずかにズレただけでも、その良しあしの判断ではなく、「何かおかしい」と身体が勝手に反応してしまいます。

この「身体が”自然な調和”を求めて、即反応する」という、体感優先型特有の認知の仕組みを知っておくことが、後編での理解のベースになります。

次回予告

後編では、これらの特徴を踏まえた上で、映画『This Is It』の中で垣間見える、マイケル・ジャクソンの音の世界を読み解いていきます。

彼は単に「音に細かい人」だったわけではありません。体感優先型かつ没入型世界の人であるがゆえに、音が生み出す「流れ」が途切れると、踊ることができなくなってしまう。だからこそ、自分の身体感覚とズレた音や演奏に対して、何度も立ち止まり、『自然な調和』へと調整しようとしたのです。

演奏者とのやり取りの一つ一つは、気難しさではなく、「自然な流れ」を取り戻そうとするための必然的な行為だったのではないか――そんな視点から、この映画の核心に迫っていく予定です。

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