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むしゃくしゃするのは神様が仕事してないからだと思ってたけど、そうじゃないっぽい

相手きっかけで、
いらっとすることがある。


あまりにも他人事に見えたり、
口ばかりで動いていないように感じたり、
こちらばかりが
考えて動いているような気がしたり。

普段はないのだけど、
たまーーーに内側から
むしゃくしゃが湧いてくることがある。

「なんで自分ごととして考えないの?」

「本気なら、もっと主体的に動くものじゃないの?」

「やるって決めたなら、
 ちゃんと関わるべきじゃないの?」

そんな言葉が、心の中に出てくる。


表向きには、もっときれいに言える。

みんなで同じ目標に向かいたい。

全員が主体性を持って動けたらいい。

誰かひとりに寄りかかるのではなく、
それぞれが自分の役割を果たせたらいい。

それも、たしかに本音ではある。

でも、その奥にあるものを見ていくと、
私の中には、もっと強い思いがあった。


「人は、公正であるべき」という思い


人は、公正であるべき。

ちゃんとやる人だけが
損をするのはおかしい。

動いている人と、動いていない人が
同じ顔をしているのはおかしい。

本気で関わっている人と、
他人事の人が同じ場にいるのはおかしい。

ズルいことをしてはいけない。
筋を通すべき。
責任を持つべき。
自分だけ楽をして、
誰かに寄りかかるのはおかしい。

その日の私は、
そう思っていた。

だって、公正であることは大事だから。
ちゃんと向き合うことも大事だから。
役割を引き受けることも、
主体性を持つことも、大事だから。

でも、そこで終わらせると、
私はただの「正しい警察」になってしまう。

相手が間違っていて、私が正しい。
相手がズルくて、私がちゃんとしている。
相手が他人事で、私が本気で向き合っている。

その二項対立に入った瞬間、
私は外側を裁き始める。


そして、外側を動かしたくなる。

「あの人が変わればいいのに」
「あの人がもっと動けばいいのに」
「あの人が自覚してくれればいいのに」

でも、本当に見るべき場所は、
そこではなかった。


愛を信頼できないから、公正さを握る


私が「人は公正であるべき」と
強く思ってしまうとき、
その背後には、

愛に信頼を寄せられていない私

がいるのだと思った。


愛を信頼できていないから、
公正さを握りしめる。

愛を信頼できていないから、
正しさで世界を保とうとする。

愛を信頼できていないから、
筋が通っているか、
ズルくないか、
ちゃんとしているかを見張ってしまう。

公正さがないと、
自分が雑に扱われる気がする。

公正さがないと、
ちゃんとやっている自分が
報われない気がする。

公正さがないと、
愛される人と愛されない人が、
恣意的に分けられてしまうような気がする。

だから私は、公正さを求める。

でもそれは、
本当は公正さそのものが欲しいというより、
愛を信頼できない不安を、
公正さで埋めようとしているのかもしれない。


神様を信頼するとは、
裁きの仕組みを信じることではない


愛を信頼しているつもりで、
私はまだ、
愛に全託できていないのだと思う。

それは神さま的な存在を
100%信じていないことにも通ずる。


神様を信頼するというのは、
「世界はヒトを正しく裁いてくれる」と
信じることではないのだと思う。

「ちゃんとやった人が報われて、
ズルい人が罰せられる」
という仕組みを信じることでもない。

たぶん、もっと根っこのところで、

私はすでに愛の中にいる。

そう信じることなのだと思う。


ちゃんとしているから愛されるのではなく、
役に立つから愛されるのではなく、
公正であるから愛されるのでもなく。

命として、ここにある。
それだけで、すでに愛の中にいる。


そこを100%信頼できていないから、
私は外側に反応する。

あの人が動かない。
あの人がズルい。
あの人が他人事だ。
あの人がちゃんとしていない。

そうやって外側を見張って、
外側を裁いて、
外側を動かそうとする。


戻る場所は、自分の内側の宇宙 


相手きっかけでイラッときたときほど、
本当に戻る場所は、
自分の内側なのだと思う。


外側をどうにかするんじゃなく、
自分の内側の宇宙に戻る。

私は今、
何を怖がっているんだろう。
何を信頼できていないんだろう。
愛ではなく何を握りしめているんだろう。

そこに潜っていく。

すると、外側の人間なんて、
正直どうでもよくなってくる。

最悪、他人なんてどうでもいい。

これは、誰かを見捨てるという意味ではなく、
自分の命の中心を、
他人に明け渡さないということ。


あの人が動くかどうか。
あの人が公正かどうか。
あの人が本気かどうか。
あの人が私を認めるかどうか。

そこに、自分の命を預けないということ。


命が喜ぶことに集中する


私は、私の命が喜ぶことに集中する。
今の自分にできることをする。
自分の内側の宇宙を整える。


外側を無理やり動かすのではなく、
内側から外側を変えていく。

自分の内側が変わると、
見える世界が変わる。

同じ相手を見ても、
腹の立ち方が変わる。

同じ出来事が起きても、
受け取り方が変わる。

同じ現実の中にいても、
自分の立ち位置が変わる。

だから、
むしゃくしゃは悪いものではない。

むしゃくしゃは、
「相手が悪い」というサインではなく、
「私は今、愛よりも公正さを握っている」
「今の私、神さまを信じられてない」
というサインなのかもしれない。

愛を信頼できないから、
公正さで自分を守ろうとしている。

神様を信頼できないから、
世界を自分の正しさで整えようとしている。

そこに気づいたら、
外側と戦わなくていい。


内側の宇宙から、世界を変えていく

私は、私の命に戻ればいい。

自分の命が喜ぶことに集中する。
今日できることをする。
内側の宇宙を整える。
そこから、外側に現れる世界を見ていく。

むしゃくしゃしたときほど、
相手ではなく自分の内側を見る。

私は今、愛を信頼しているだろうか。
それとも、公正さを握りしめているだろうか。

その問いに戻る。

そして、もう一度、
愛を信頼するほうへ戻っていく。

外側を変えるために、
外側を動かすのではなく。

内側の宇宙から、
世界を変えていく。


私にとっての統合が、そこにある。

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