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人間味 - Ningen Mirror Ball

「私は生き延びるために、ダンスフロアへ戻った」

猫を乗せた段ボール箱を鳥羽の海に流した父の思い出と、アメリカの郵便配達員として磨り減る日々。 音にシンクした身体は、凍結した記憶へ5年目にリンクする。拡散する光の儀式をループし、そのハレーションで家庭は破綻した。

存在価値を人にゆだねる弱さ。一貫性を保てない不安定さ。散らばった鏡の破片から、直視できなかったいびつな自分を拾い集める。 その破壊力の閃光が私のダークサイドを照らすとき『人間味ラーボール』が産声をあげる。

人生100年時代の折り返し地点で迎えるピークタイム。 55歳、ノンバイナリー。無感情のAIを介して、伝えるすべのなかった剥き出しの想いを掘り起こす。慣習をアンラーニングする、我が「加齢ハック」のマニフェスト。

テクノロジーが量産する無機質なミラーボール記事を横目に、「作り物」ではない生身の人間が最後に残す、愛おしくなるほど無骨な『人間味』。そのマスター・オブ・セレモニーを、いま、ここに。




1 「触れないもの」との共生


大切なひとは、狩りを嫌った。

檻に入れられた生き物を見ると気が滅入るからと、動物園を避けた。

それなら、剥製になった動物の方がマシだと、自然博物館にはよく通っていた。

生きているものが閉じ込められていることには耐えられず、死んだものには静かに向き合える。

触れられないものに、敏感なひとだった。

「いつになったらきみは、きみの人生を始めるんだ。」

そう言いながら、彼はどこか寂しげだった。

その言葉が、犠牲を伴うことは分かっていた。
それでも、私は狩りに出た。

――

結婚記念日に、イラク戦争が始まった。

計画通りにニューヨークを離れ、私たちは、鳥インフルエンザが吹き荒れる上海へと降り立った。

バンコクの街中では、前線へと移動する若いアメリカ兵の団体を目にした。

五番街のレストランでコツコツと夫が貯めてくれた一万ドル。それが、東南アジアからインドへと続く、一年半に及んだふたり旅の幕開けだった。

規格外ハネムーンを終え、たどり着いたのは彼の故郷、ピッツバーグ郊外。スーパーの商品出しで最低賃金を稼ぐ日々。

物価は安かったが、ニューヨークへ戻る資金は一向に貯まらない。

窓の外では、盛りのついたレッド・フォックスの鳴き声で真夜中に目が覚めた。ドライブ・ウェイを素早く横切ろうとしたパッサムを彼がひいた時、その小動物の名前を初めて知った。

そして、裏庭をターキーの大家族がゆっくり横断していく。この穏やかな庭の風景を見つめながら、ここが本来の場所ではないと自答する。

彼は地元に安らぎを見出し始め、私は叶わない夢にすがる。

その温度差に触れないまま、私たちは生活を続けた。


2 青い制服と摩耗するメンタル


2005年のホリデー・シーズン、ふたりで郵便局の短期雇用に飛びつく。

260人の契約社員のうち、現場に残されたのはわずか7人。

その一人に選抜され、プライオリティ・メールを扱う仕分け所での勤務を継続した私。悔しさを隠せなかった夫も、やがてダウンタウンの仕分け所で、新たなスタートを切る。

正規雇用という「安定」を得るため、夜勤を早退し、吹雪のなか、片道8時間を交代で運転し、ニューヨーク州の試験会場へ通いつめた。

郵政公社は、戦争帰りの兵士たちの再就職先でもあった。

軍での勤務年数に応じた点数が、採用試験の得点に加算される。その制度で、連邦職員へのレールが優先的に敷かれていた。

ある日、横須賀や沖縄に駐屯した経験のある、カタコトの日本語を話す同僚の数人が、私の持ち場へ挨拶にきた。

唯一の日本人だった私は、夜勤の仕分け作業で彼らと一緒になり、横一列に並んで、青とオレンジ色のタイヤ付き移動式ハンパーに小包を放り込んでいた。

隣に立っていた同僚が着ているTシャツの背にプリントされた文字に目がとまる。

「どうして、デッドマン・ウォーキングと書いてあるの。」 と尋ねた。

「俺たちは、ひとを殺し過ぎたからさ。」と、静かに微笑み、つぶやいた。彼はベトナム戦争帰りのベテランだった。

外国人である私のヤボな質問にもかかわらず、彼は、率直に答えてくれた。その瞬間に、作業場のノイズが遠ざかっていった。

時折、監禁されたかのような奇声をあげた彼ら。そこには、アメリカの「国内に住む社会」が、決して見ようとはしない地獄があった。

アジアの旅で私が受けた衝撃は、公務という「檻」に囚われた彼らの叫びと共鳴しこだました。やがて、言葉を超えた一種の生命共同体になっていた。

「いっそ入隊したほうが、近道かもしれない。」と、すすのついた互いの顔を見合わせ、夜勤明けのダイナーで夫と笑った。

私たちは、まだ続けられると信じていた。

――

やがて、ふたり同時に正規採用が決まり、ロング・アイランドへ引っ越した。

けれど、街へ戻りたい私の強い希望で転勤届を出した。

夫は空港の仕分け員としてクイーンズへ。
私は配達員としてマンハッタンへ。

支給された青い制服を着て、ミッドタウンの街を走る。

慣れない二トントラックで、交通事故を起こす。苦手な縦列駐車でバックすると、路上駐車した車の左側サイド・ミラーが折れた。

処罰の対象となり、組合が介入する。その状況で、元軍人の上司が現場の指示を出す。この国のゆがんだ歴史に傷つく彼の怒りは、必然的に私へと向けられた。

理不尽な構造の中で、少しずつ摩耗していく。

アッパー・イースト・サイドへ異動になる頃には、心の居場所だけがずれ出す。摩天楼を「見上げる」私の視線は、うつむき始めた。

郵便物をカートに積み、局を出る。ランチ休憩に立ち寄ったチャイニーズ・レストランの席で携帯をみつめながら、わけもなく涙が止まらなかった。

視界を制限された馬のように、みずからを追い込んだ。

そこは、何度も入退院する依存症者や、数日だけ出勤する労災受給者も共存する職場。バカ真面目な私は、「普通」を見失った「不正受給者のなり損ない」だった。

そして2013年、退職届を出して汚穢(おわい)を返納。

最後に訪れたチャイナ・タウンでの診察室で、精神科医は言った。「必要と感じる以外、ここには戻ってこなくていい。」


3 ミラーボールという変換装置


歩行という運動から、かつて音楽で踊っていたことを思い浮かべる。 純粋に喜びが湧きあがった覚えのある「ナイトクラブ」へと戻っていった。

さまざまな生い立ちや、社会的地位の異なるダンサーが入り混じる箱。

私のような異物も受け入れ、表現のアウトプットまでを触発してくれたコミュニティ。

やがて、ダンス・ミュージック・シーンは、私の「ハウス」となった。

そこは単なる居場所ではなく、チャーチと同義語だった。

しかし、救済だったはずの復活は、いつしか変容する。音のない時間に、耐えられなくなる。

家族に背を向け、無償の愛へ払う代償。
踊り場に鳴り響く愛のメッセージに耳を傾け、ひたすら踊りつづけた。

ダンスフロアは「シェルター」ではない。 現実と対峙する私が能動的に儀式を捧げる「聖域」。

ラジオの周波数を微調整するように、意志は身体を音に同調させる。毛穴から吹き出す汗が抑圧を解き放ち、小刻む爪先が思考を追い越していく。

意識が内側へと深く沈み込んでいくと、たどり着く先は「パラダイス」。

ダンスは「瞑想」そのもの。

忘れるためでは無く、閉ざされた記憶がよみがえる時空へとアクセスする行為。

そこでは、「音楽だけが私のドラッグ」。

階段を駆けあがるようなスピードで、多幸感がコード進行からあふれ出す。

執拗にリピートされる「ワン・モア・タイム」のフレーズ。そのリフレインに、脳が化学反応を起こすと、酔いしれ気分に飲み込まれていく。

やがて、催眠をかけるドラム・ビートが心拍の扉を開き、私をパラレル・ワールドへいざなう。

ミラーボールを見上げ続けて5年目、何かが重なりはじめる。

光の粒が回転するたび、視界の奥で、別の時間軸がリンクする。

「見上げる」という首の角度の反復がシンクロした、現在と過去。

凍結した記憶は、断片だけが不意にまぶたの裏に現れては消え、繰り返していた。

まだ言葉にできなかった時間と空間のなかに、ずっと立っていた私。

17歳のバイト帰り、北向きの吹き抜けに見つけた父の姿。

犬の散歩ひも。

ぶら下がった顔。

薄暗い階下で、おすわりしたままの飼い犬。

回転するミラーボールの光が、その断片に触れる。
そのたび、粒になって砕けた。
恐怖が分解されていく。
残像は、無数の光へと昇華されていった。

いつも優しい光を降り注いでくれたのが、私の父だったことを思い出す。

「記憶」は消えない。ただそのカタチを変えていく。変わることで、はじめて向き合うことができる。

変換装置だった、ミラーボール。

あの時、黙認した闇の深さ。
誰よりも、太陽のまぶしさを痛感している。

ただし、救済ではなかった、あのまばゆさ。

その下で、何かを取り戻した「危うさ」は、何かを置き去りにしていた。


4 ハレーションは覚醒


フロアで覚醒したあの経験を、証言する衝動にかられる。

身体の動きのなかで起こった強烈な体験は、私の真実。

光に分解された記憶は消えず、むしろよりきらめいて、私だけの言語を探していた。

フラッシュバックは、すでに起こらなくなっていた。

2019年の暮れに、私は『ミラーボール』という詩を書いた。いや、何かに「書かされた」という方が正しいのかもしれない。

「タブー」の縛りが、私の「タブー」ではなくなったとき、人前でその詩を共有する準備に取りかかった。

「うず巻く大気」を描写する試みで、踊る音と回る光を制作する二人のアーティストとのコラボレーション。

その本番直前に、ある著名アーティストが切迫した面持ちで、

「お金はいらない。やらせてください。これがやりたいんです。」

そう言って名乗りをあげた。急遽、照明担当として三人目に彼が加わった。

いくつもの偶然が重なって起きた「ミラクル」。

彼はリハーサルに遅れることなく現れ、なぜか慣れた手つきでライトを握りしめ、みごとな反射光を次々に作り出した。

通しの稽古を終えたあとに、「久しぶりに感動しました。」とだけ言い残した。


わずか15人で満員になる空間。二公演で各20分のパフォーマンスに、30名の友人が集まった。

しかし、本番が始まってまもなく、声が途切れる。
頭のなかが真っ白になった。

再開まで10分休憩に入る。

ひとりが部屋を出ていった。
もう、後がない。

震える声をふり絞って、最後まで読みあげる。

制御を失った身体の反応は、もはや表現ではなく「現象」だった。

終わった後、多くの人が一緒に泣いていた。
その涙の理由は、一つではなかった。  

「琴線に触れていた」と口にした人は、本人の事情で自らを解放していた。

不思議と、そこには、恥も、失敗も成功もなかった。

私は、「ポエトリーという媒体」を通して、エクトプラズムのように溜まっていた感情を吐き出し、ただ、すっきりとしていた。

「音楽の操り人形」だった私は、「音楽のイタコ」へと光子再生した。

圧倒的なダンスの輝きは、「正常」という枠組みを麻痺させ、1988年6月26日を上書きしていく。

かつて、地元の『赤福』で、日本語を学んでいた夫が読んでいた子どもの絵本。その中に登場する日本最古の踊り子、「アメノウズメ」を、私自身のなかに見出す。舞によって、閉ざされた世界に光を取り戻す者。

その週末に、イベント関係者たちと寝ずに踊り、翌日まで語り明かした。

「あの時、あなたは17歳に戻っていた。」
その言葉を突きつけられ、私は確信した。

詩を読み書きすることは、演技でも、選択でもなかった。

それは、生存証明だった。


5 アウト老DJの不協和音


ポエトリー・パフォーマンス後、最初にハグしたのは夫ではなかった。その時のグループ写真が、私たちの関係の距離をあきらかに物語っていた。

それでも彼は、私の良き理解者であり続けようとした。

――

DJを夢みた18歳の人生は、父の初盆が終わった1989年の夏、ニューヨークでアートを勉強するという急展開で、かき消される。

「行きたい。」と返事したものの、その呪縛に気づかぬまま、はじまった「長い沈黙」。

あまりにも不器用なこの私の「他者との距離の測り方」への苦戦は、今もずっと続いている。

ようやく30年以上が経ち、ブースに立つ。

きっかけは、コロナ禍のDV相談から。そこで、過去の自分を重ねて書いた詩が『フェイス・ザ・ミュージック(現実と向き合う)』。

その詩を朗読するために借りた友人のレコード店でDJを頼まれ、長年封印していたレコードに、私はふたたび針を落とした。


ブルックリンにあるDJバーで、レジデントになって今年3年目に入った。私は踊る側から、踊らせる側へと移行していく。

演歌からヘビー・メタルまでを地続きにする選曲。シティー・ポップだけではない日本のあらゆる音源を、ニューヨークのフロアへ紹介するのも誇りだった。

その裏で、おざなりにした自分の「傲慢」が、巨大なラスボスとして立ちはだかる。

念願だったはずの、ヘッドライナー・デビュー当日。

メインDJを担う重圧、デジタル技術への嫌悪、ドラッグへの偏見。そして、「純粋なダンサー」という自負が、自分の成長をはばんだ。

四つ打ちでステップを踏むのが単調で、実験音楽にまで傾倒した。そんな「ひとりよがりの選曲」に対し、フロアは混乱におちいった。

一度は、「ダンスの根源」さえ見出した「聖域」で、私は「踊らせられない踊り子」と化した。

二度の失敗。それでも私を信じ、チャンスを与えた。固定観念に縛られない若いボスとスタッフたちに、私は生かされていた。

だが、自己肯定感が底辺にある私には、どうしても歯車が噛み合わない。

音楽のセンスが良いほど、良い人ではない自覚は、私自身への「呪い」に近い。

現場では、私生活にほぼ触れず、ただ音楽を流し続ける。明るく楽しい「人間ジューク・ボックス」に徹し、かろうじてそこに存在していた。

一方で、ひとたび距離が縮まれば、正義のあり方も、立ち回りのスマートさも、市場価値すら異なるジェンZの輪のなかで、「世代の壁」が露呈する。

謝罪こそしたが、真意を「めんどくさい」説明する勇気はなかった。ここで再び沈黙したことによって、「SNS」という名の広場で、私は黙殺された。


なぜ、私は、いつも謝っているのだろう。


怖がらず、あえて「疎外」を受け入れている。
承認を求める無意味なルーティンからの離脱。

「アウト老DJ」を極めること。
それは、じぶんを可笑しいほどに信じ抜くこと。

先人が掲げた「アウト老(ロー)」という新しい価値。
私の選曲で、唯一無二のDJであり続ける。

あきらめずに、まずは距離を置くこと。
彼らほど、私には時間が残されていない。

「謙遜」は罪深い日本語。

だから「他者の都合」を脱ぎ捨て、「しがらみ」から自由になれ、じぶん。

表現者という一個人として、本来の役目と自立を果たすこと。それが、過渡期を生きる私なりの態度。

父ほどいさぎよく幕は引けない。

未熟な私を許容するこの街の懐の深さを、今もこうして教えられている。


6 ディストロイからの再生元年


毎年恒例だった日本への「パーティー遠征」は、コロナ禍のフライトのキャンセルで途絶えた。

移動のない日々が続くなかで気づく。

朝からの缶ビールが日課となり、帰宅する頃にはハードリカーの匂いが染みつく。そこに、積み上がっていく空き缶。

コロナ禍が明けた夜、私が踊り場へ向かうとき、一緒に家を出た夫は、セブン・イレブンへ。バスの窓越しに、いつの間にか戻ってしまった猫背、その背中を見ていた。

帰宅すると、カウチにもたれ床に座り込んだままテレビを眺め、飲んでいる。

「ここからは、この生活をメンテするだけの人生。」
「死んだほうがましだ。」

酔いに任せた吐露を、都合よく解釈した私は、頭金のために働き出した。

仕事帰りのスタジオから戻ると、電気の消えた部屋で、また同じ位置に座っている彼が低い声で問う。

「なんで帰ってきた。きみはスタジオに居ればいいじゃないか。」

「一軒家に住めたら、本当に、あなたは幸せになれるのかな。」


信頼は負担に変わり、関係は妄想で崩壊した。

最初で最後になった、私と共に夫が初参加したパーティーの帰り道。泥酔し、別人となった。彼は、完全にコントロールを失った。

身の危険を感じた私は、警察を呼んだ。

カウンセラーを交え、依存症からの回復と、関係の修復を模索する日々。

それでも埋まらない溝。

震える手。

痩せた頬。

彼の目は果てしなく遠かった。

呼び起こしたのは、父の不完全さをなじる母。
分離した思考と行動で、負を引き継いだ私。

完全にネグレクトしていた。

十年近くも定位置で寂しさを飼い慣らし、独り「ロシアン・ルーレット」を生き抜いた彼は、私のディア・ハンター。

後悔とは、ここでは、無効な事実。

「必要のない努力」を悟った私は、三ヶ月後に家を出た。

音楽もまた、私にとっての依存だった。
彼は、それを知っていた。

互いのDNAに刻まれた「毒」。次代へ持ち越さない加害防止と、これ以上の環境破壊の阻止。そんなふたりの「しらふのチョイス」だけが、唯一のなぐさめだった。


一年以上ぶりの電話。

「最後まで、これも一緒に乗り越えよう。」

人間として、腐らず、争わない。
こんな無垢なひとには、もう二度と出会えない。

「お酒さえ飲まなければ、旦那さん、いい人じゃない。」と、大家のありふれたセリフは、まんざらハズレてない。

先延ばしにしてきた人生こそ、もう後悔しない。
紛らわす依存から、生き続ける依存へ。

そうして音楽は、それぞれの再起動をうながした。

定位置で、彼は楽譜を読みながらまたギターを爪弾く。
私はラップトップに向かって曲を紡ぎはじめる。

その断続的な響きが、 個の生に、ちいさく鈍い光を点す。

私は、人間味ラーボール。




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